江戸時代後期、伊能忠敬が日本全国を歩いて精密な日本地図を作っていた頃、讃岐(現在の香川県)にもうひとりの天才測量家・発明家がいました。
その名は久米通賢(くめ みちたか / 通称:栄左衛門)。
のちに「坂出塩田の父」や「讃岐のエジソン」と称される彼は、なぜ讃岐の実測地図作りに情熱を注いだのでしょうか。今回は、通賢の生い立ちから、過酷を極めた地図製作の苦悩、そして晩年までの波乱に満ちた生涯を辿ります。
1. 職人の子として生まれて——久米通賢の生まれと幼少期
白い建物の手前の看板に久米通賢の生誕地の説明

久米通賢(幼名:由太郎)は、安永9年(1780年)、讃岐国大内郡馬宿村(現在の香川県東かがわ市馬宿)に生まれました。
実家は富裕な商家ではなく、船の舵(かじ)を作る職人の家(父・喜兵衛)でした。幼少期から手先が極めて器用で、粘土細工が得意だったり、大坂へ行った際に時計の修理をして周囲を驚かせたりといった逸話が残っています。
19歳(寛政10年 / 1798年)のとき、学問への情熱を抑えきれず大坂へ遊学。寛政の改暦でも活躍した大坂の有名な天文学者・間重富(はざま しげとみ)の門をたたきます。ここで約4年間にわたり、最新の天文学、数学(和算)、地理学、そして測量術を徹底的に学びました。
享和2年(1802年)、23歳のときに父・喜兵衛が死去したため帰郷して家を継ぎますが、その並外れた知識と技術が見込まれ、高松藩に召し出されることになります。
2. なぜ讃岐の実測地図を作ることになったのか?

当時の高松藩は財政難に苦しんでおり、藩内の土地の正確な状況(面積、地形、沿岸線の形状)を把握することが急務でした。治水や港湾工事、将来的な田畑の開発を進めるためには、何よりも「正確な領内地図」が必要不可欠だったのです。
文化3年(1806年)、27歳になった通賢は藩主の命を受け、高松藩領内の沿岸部および主要街道の本格的な測量事業に乗り出します。
なお、文化5年(1808年)には伊能忠敬の測量隊が四国・讃岐を訪れ、通賢は案内・接待役を務めました。通賢の持つ測量機器や高い知識を見た忠敬はその才能を絶賛したと伝えられています。この交流を経て、文化6年(1809年)に高松藩の「天文測量方」に登用され、苗字帯刀を許されて「久米」を名乗るようになりました。
3. 血と汗の結晶——実測地図製作の苦悩と大変だったこと
現代のようにGPSや衛星写真はおろか、まともな道具すらない時代。一国の正確な地図を作る作業は、想像を絶する苦難の連続でした。通賢が直面した厳しい現実と苦労とはどのようなものだったのでしょうか。
① 道具がないなら自ら作る——試行錯誤の苦難
精密な測量を行うには正確な観測機器が必要です。しかし、当時の高松藩には十分な機材がありませんでした。
通賢は職人の子として培った器用さと知識を結集し、自ら道具を作り上げました。

- 天体観測を行う「象天儀(しょうてんぎ)」
- 方角や角度を精密に測る「地平儀(ちへいぎ)」や「量地儀」
- 距離を自動で計測する車輪型の歩数計「量歩車(りょうほしゃ)」

これらすべての器具を、精緻な手作業で一から自作・改良せねばならず、測量に入る前段階だけでも莫大な苦労と時間を要しました。
② 道なき道を行く過酷な現地調査
測量班(助手約10人)を率いた通賢の足跡は、東部の引田から沿岸部を西へ進み、内陸部を折り返すという過酷なルートでした。
険しい阿讃山脈の山道、入り組んだ海岸線、泥に足をとられる湿地帯……。重い測量機器を自分たちで担ぎ、雨風や夏の暑さ、冬の寒さに晒されながら、一歩一歩自らの足で距離と角度を計測していきました。
③ 膨大な数値との戦いと手計算の孤独
現地での測量以上に大変だったのが、持ち帰ったデータの計算と図面化です。
通賢はヨーロッパの技術を応用した高精度な計算方法(対数や三角測量の概念)を取り入れていました。気の遠くなるような数値の手計算を繰り返し、誤差を1分・1厘単位で修正していく作業は、孤独で精神を削られるような労力を必要としました。
精密な『讃岐国全図』の完成
数々の困難を乗り越え完成した地図は、現代の国土交通省(国土地理院)の地図と重ね合わせても海岸線や山影がほとんど狂わないほどの精度を誇っていました。
道具の自作から現場の足踏み、夜を徹した計算まで、通賢の執念と技術革新があったからこそ成し遂げられた偉業でした。
4. 塩田開発と晩年——地域に捧げた生涯
地図製作によって培われた通賢の測量・土木技術は、その後さらに大きな事業へと結実します。
東洋一の塩田「坂出塩田」の完成
文政7年(1824年)、40代半ばを過ぎた通賢は、藩の財政を根本から救うため、坂出の干潟に巨大な塩田を建設する計画を藩に提出します。
文政9年(1826年)から工事が始まりますが、高潮による堤防の全壊、巨大な資金難、周囲からの反対など難題が次々と押し寄せました。通賢は自らや親戚の財産まで投げ打って工事を継続。わずか3年5か月で約100ヘクタールにおよぶ巨大な「坂出塩田」を完成させました。

この塩田は高松藩に莫大な富をもたらし、明治〜昭和期に至るまで香川県の基幹産業であり続けました。
晩年の発明と最期
天保7年(1836年)、57歳で役目を退いた通賢は、故郷の馬宿村に戻りました。
しかし、彼の探究心が消えることはありませんでした。火薬や大砲(百敵砲)の研究、精米機やマッチの原型となるものの考案など、最期まで地域や人々の役に立つ発明・研究を続けました。

そして天保12年(1841年)、久米通賢は62歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。
生家のあった裏に墓があります。
まとめ:久米通賢が遺したもの
久米通賢の生涯は、まさに「知恵と情熱で困難を切り拓いた一生」でした。
- 「道具がないなら作ればいい」というものづくりの精神
- どんなに過酷な現地調査や計算にも屈しない執念
- 自分の技術を藩や民の豊かな暮らし(塩田開発など)に還元する志

彼が命を削って測量した土地は、今も私たちが暮らす香川県の礎となっています。歴史の表舞台で語られる伊能忠敬の影に、このような熱い情熱を持った技術者がいたことを、私たちは覚えておきたいものです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「久米通賢」2026年4月29日 (水) 09:50『ウィキペディア日本語版』
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