日本の鉄道は1872年10月14日(明治5年9月12日)に、新橋駅 – 横浜駅間で開業しました。
当時の鉄道はまだまだ問題も多く、時には悲惨な事故が発生していたようです。
今回は、北海道で起きた鉄道事故に勇猛果敢に挑んだ、長野政雄さんを紹介します。
生い立ち
長野政雄さんは、1880年(明治13年)、愛知県名古屋に生まれます。
父は代々藩に仕えた身分でしたが、明治維新で家禄奉還し移住しますが、3歳の時に死去。
政雄が後見人として親戚に遺産の管理を任されますが、裏切られ全財産を失ってしまいます。
13歳の時、名古屋監獄の給仕として働き、母と妹を養います。
16歳の時には、判事に「法律の勉強をしてみないか」と言われ、判事の転任に伴い、函館・大阪に同行し昼は判事助手、夜は法律学校で学びました。
1898年(明治31年)、18歳の時、大阪で貯金管理所登用試験に合格し判事官資格を得ます。しかし、この後、体を壊し判事官の仕事は続けることができなくなります。
クリスチャンの親友が、落ち込む政雄を度々教会に連れて行きました。
その親友に熱心に薦められ、大阪で洗礼を受け、熱心なクリスチャンになります。
政雄は、判事官の仕事を諦め、北海道の国鉄に勤務している先輩に誘われて、北海道に渡ります。
国鉄の札幌運輸事務所に4年勤務したのち、1901年(明治34年)、21歳の時に転勤で旭川運輸事務所に赴任し、仕事の熱心さを買われ、庶務主任となります
職場では夕方5時になると部下全員を帰宅させ、残った仕事を独りで片付け、それは深夜に及ぶこともありました。職場では部下や上司に信頼されたそうです。
収入は比較的多いほうでしたが、生活はとても質素だったようです。
洋服は、いつも同じ服を着て、ほとんど購入せず、食事も質素で、弁当のおかずは、大豆の煮たものばかり食べていたそうです。
そして、残ったお金は、故郷の母に生活費として送り、さらにキリスト教の教会に献金をしていました。
神と隣人を愛す
政雄の勤務する職場に酒乱の同僚がいたそうです。
その人は、仕事仲間や上司、そして親兄弟からも、嫌われていたそうです。
そして人間関係から、酒におぼれ、ついには気が狂ってしまったそうです。
親兄弟も、気が狂った彼を見捨てます。
しかし政雄は、気が狂った彼を、勤務のかたわら看護し、彼の回復に尽くしたそうです。
飲めば悪言を吐き、暴れる彼を、政雄は決して見捨てませんでした。
症状が落ち着くまで、彼を看護し面倒を見続けました。
そして改善した彼を、仕事に復職できるように上司に掛け合ったのです。
改善したとはいえ、一度狂人になった人を復職させることは困難です。
ですが、政雄の信頼と熱意に打たれた上司は、これを承諾します。
さらに一軒家を借り、復職した彼と共同生活を初め、彼の支援を続けます。
そしてとうとう彼を完全に治癒させたのです。
愛の人、政雄の行動は、同僚や上司の間でよく知られ、キリスト教に入信する人もいました。
列車の暴走
1909年(明治42年)2月28日、北海道の塩狩峠において、急な登り坂を上りつつあった列車の連結器が外れ、最後尾の客車が切り離される事故が発生しました。
最後の客車は単独で長い坂を下り始めてしまいました。
ねじ式連結器
日本では19世紀の鉄道開業時にイギリスの技術を導入したことにより、ねじ連結器が明治から大正末期まで標準として使用されていた。
ねじ式連結器は、連結・解放作業に手間と時間がかかった。また、狭い場所での作業となることや、車両が転動することにより、連結手が圧死・轢死するなど、死傷事故が多発した。特に狭軌の日本の鉄道においてはバッファー間隔が狭く、非常時の逃げ場がないことが死傷事故の被害を拡大した。
ねじ式連結器は自動連結器と比べて勾配に弱く、塩狩峠の事故の原因とされている。
引用元:「連結器」(2024年2月2日 (金) 10:00 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
その客車には教会に行くため、偶然乗り合わせていた政雄が乗車していました。
政雄は、鉄道員でしたが、事務的な業務が主であり、車両の知識はあまりありませんでした。
それでもとっさに客車のデッキに出て、ハンドブレーキを操作します。
しかし厳冬期の北海道、外に面したデッキは、床が凍っており、滑る床上で慣れていない操作により、ハンドブレーキの反動で身体の重心を失い、政雄は線路上へ転落し、そこへ車両が乗り上げて 下敷きになってしまいます。
次の瞬間、客車は「ゴトン」という衝撃とともに停止します。
乗客は外に出て、自分たちが助かったことを喜び合います。しかしその客車の下に見えたのは、無惨に横たわる長野政雄の身体でした。
身を挺して車両を止めた、政雄の姿に乗客は皆、感泣していたそうです。
政雄さんは、乗客に挨拶をして自ら線路に飛び降りたという乗客の証言もあり。政雄さんの死については諸説あります。
客車内に残されていた政雄の遺品は、聖書と、妹への土産(みやげ)の饅頭(まんじゅう)などがあったそうです。
彼の死が伝えられたとき、鉄道、教会等の関係者はもちろん、一般町民も政雄の行動に深く心を打たれました。
愛に生き、命をささげた人
鉄道員殉職碑
明治42年2月28日夜、塩狩峠において列車の最後尾の連結が突如分離し、逆降暴走。乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐より、クリスチャンたる氏の常に持っていた遺書発見せらる。『苦楽生死、ひとしく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ』これはその一節なり。30歳なりき。
政雄は日頃から遺書を自分の内ポケットに持参していたそうです。
神と隣人のためには、いつでも命をささげると心に決意していた。それは自分の人生を忌み嫌っての遺書ではない。自分の命を愛のために捧げる。
長野政雄が持参していた遺書より引用
と日頃からの決意をあらわす遺書だったそうです。
政雄はこの遺書を、いつも自分の身につけることにより、隣人のためにいつでも死ねる覚悟をしていました。いつ死んでも自分の人生の清算はできている、と言えるような生き方を欲したようです。
このため、事故当時は、遺体から発見されたこの遺書により、自ら列車に飛び込んだという見方をされていました。しかし、現在では乗客を救うため、「必死の行動による事故死」という見方が主となっているそうです。
三浦綾子先生の「塩狩峠」という小説の基となった出来事です。また映画にもなっています。
伊藤博文公が暗殺された明治時代の出来事のため、ほとんど資料が残っていないそうです。
そのため、諸説ある資料より、翔びくらげがまとめてみました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。