愛知県豊川市にある「豊川稲荷」、稲荷神社なので神社と思われがちですが、本当は、座禅の修行で知られる「曹洞宗」のお寺「妙厳寺」というお寺が主体です。
寺院は祈願、祈祷、供養、納骨、写経などを行っています。一般的には「豊川稲荷」と呼ばれており、商売繁盛や家内安全のご利益で全国的に知られています。
御由緒
豊川稲荷は正式名を「妙嚴寺」と称し、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。
一般的に「稲荷」と呼ばれる場合は、「狐を祀った神社」を想像される方が多数であると思われますが、当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)です。豐川吒枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることから、いつしか「豊川稲荷」が通称として広まり、現在に至っております。
引用元:宗教法人妙厳寺 豊川稲荷HPより
豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)は、愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院で、正式名は「妙嚴寺」です。
この寺でお祀りされているのは鎮守の神である豐川吒枳尼眞天です。
豐川吒枳尼眞天は稲穂を荷い、白い狐に跨っている姿で知られています。
その霊験は広く信仰され、商売繁盛や家内安全、五穀豊穣、福徳開運の神として注目されています。
また、別名「平八郎稲荷」とも呼ばれ、その由来には興味深い伝説があります。
豊川吒枳尼眞天は、白狐に乗る天女の姿をした開運の神様であり、日本には密教と共に持ち込まれたダキニ天(茶枳尼天)信仰に由来しています
鎌倉時代の禅僧・寒巌義尹(妙厳寺では法王派の法祖として尊崇)が1264年(文永元年)48歳のときに義尹禅師は、二回目の中国へ向かう、航海の途中で、空に霊神が現れました。
美しい精霊神が稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白い狐に乗ってマントラを唱えながら現れたのです。
「唵尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶」(オン シラバッタ ニリウン ソワカ)
「われはこれ吨枳尼眞天なり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安隠快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」
この出来事に感銘を受けた菅岩禅師は、1268年(文永4年)帰国後に自ら霊神の像を彫り、護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の真言を唱念し、御祈祷するように訓えられました。
この天を護法神として尊崇するようになったとされています。
寒巌義尹(かんがんぎいん)は、鎌倉時代中期の曹洞宗の禅僧であり、寒巌派(法皇派)の派祖とされています。彼は後鳥羽天皇または順徳天皇の皇子と伝えられており、肥後大慈寺の開山でもあります。彼の教えや業績は、日本の仏教史において重要な位置を占めています。
寒巌義尹は、禅宗の修行者として、坐禅(座禅)を通じて直接的な体験を重視し、悟りを求めました。彼は「無門関」(むもんかん)という有名な禅の公案(こうあん)を提唱し、多くの弟子を指導しました。
また、寒巌派は、日本の禅宗において法皇派として知られ、皇室との関係が深かったことでも知られています。
茶枳尼天(ダキニテン)は、日本の仏教において崇敬される神様です。こちらの神様は、怖いとされる一面もありますが、正しい祀り方と強い気持ちを持ってお願いをすれば、誰でも願いをかなえてくれる福の神とされています。
元々はインドの神様「ダーキニー」でした。このダーキニーは、人を食べないと生きていけないという神様で、かなり怖い姿として描かれていました。しかし、あるきっかけで改心し、人々に福を授ける神様になりました。ただし、怖いイメージからか、一度信仰してその信仰を捨てたら、茶枳尼天は祟りをもたらすとも言われています。
茶枳尼天は、商売繁盛や家内安全、五穀豊穣、厄除け、開運、技芸上達などのご利益があるとされています。織田信長や徳川家康も天下統一のために茶枳尼天を信仰したことで知られています。
茶枳尼天のご真言は「おんだきにぎゃちぎゃかねいそわか」などがあります。また、日本では茶枳尼天が乗る霊孤を日本古来の神・稲荷神の使いの狐と結びつけ、稲荷神と同一視されることも多く見られます。
主要伽藍
総門
総門は開創から214年後の1656年(明暦2年)に改装されました。
現在の門は1884年(明治17年)に改築されたものです。
門扉及び両袖の扉は千余年の樹齢を重ねた欅の一枚板でできています。高さ4.5メートル、幅1.8メートル、厚さ15センチの一枚板から作られています。独特の鱗のような木目素晴らしく浮き出ています。
屋根は銅板鱗葺きで構成されており、鳩よけの網で見えにくいですが、 頭上の十六羅漢は、名匠の諏訪ノ和四郎初め当時の名工の合作と言われています。
豊川稲荷大本殿
寒巌義尹が中国から帰国した後に、自ら霊神の像を彫り、護法の善神としてお祀りの端麗妙相をそなえられる通称「豊川稲荷」、豐川吒枳尼眞天がお祀りされています。
建物は総欅造り、妻入二重屋根三方向拝の形をとり間口十間七分五厘(19.35メートル)、高さ百二尺(30.6メートル)、奥行二十一間四分三厘(38.59メートル)、丸柱直径八寸(24センチメートル)のもの、直径三尺(90センチメートル)のもの計七十二本が使われています。(妙厳寺 豊川稲荷HPより)
内部は内陣、般若殿、施主殿に区画され、内陣には「豐川吒枳尼眞天」が奉祀されています。(妙厳寺 豊川稲荷HPより)
神社ではないので、二礼二拍手はNGです。
「唵尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶」(オン シラバッタ ニリウン ソワカ)
「われはこれ吨枳尼眞天なり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安隠快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」
本殿に向かって静かに手を合わせ、上記の真言(マントラ)を7回唱えます。
万堂
1863年( 文久3年)に建立された間口十三間(19.9メートル)、奥行七間(14.5メートル)の霊堂です。
豊臣秀吉の念持仏と伝えられる不動明王、及び文殊菩薩が奉祀されています。 戦後、内部を僧堂に改築し、単を設け、修行僧が坐禅修行する道場として使われました。(妙厳寺 豊川稲荷HPより)
霊狐塚
願掛けをして、願いがかなった人が白狐像をお礼に奉納されるそうです。
ものすごい白狐像で1000体はありそうな気がします。ある人が数えた所約800体あったそうです。日に日に増えているそうです。
白狐像は一体、一体が手作りされているそうです、目、口、口にくわえている物が皆微妙に違い、表情も様々だそうです。一体一体見比べるのも楽しいです、しかし、白狐像には絶対に触らないようにしてください。
奥の院
1814年(文化11年)の建築で、昭和5年の大本殿の新築に伴い、旧本殿の拝殿を奥の院拝殿として移築したものです。
この建物は春・秋の祭典の行事が行われる霊殿で、信者の諸人が至心を凝らして参拝し、読経礼拝されます。
拝殿の諸処に見られる種々の彫刻は、名匠諏訪ノ和四郎の一代の傑作と言われています。(妙厳寺 豊川稲荷HPより)
景雲門
奥の院参道の中間にあり、安政5年(1858年)の創建で、旧奥の院拝殿を昭和5年の大本殿の御開帳に際し、現在地に移転し、景雲門と名付けられました。
彫刻は名匠諏訪ノ和四郎の作で、巧麗をきわめています。(妙厳寺 豊川稲荷HPより)
山門
1536年(天文5年)今川義元公が寄進した建物です。
妙嚴寺の伽藍の中で、現存する最古の建物です。唯一の丸瓦葺造りの屋根形状です。
1792年( 寛政5年)に修理され、更に1954年(昭和29年)大修理が行われました。
今回、豊川稲荷に参拝してきました。多くの参拝者が訪れ、熱心に祈願を行っていました。古より多くの参拝者の祈願に対し、祈願成就のお礼の千本幟、白狐像などが多数御奉納されており、ぜひ一度ご参拝の上ご確認ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。