江戸時代、日本は「鎖国」と呼ばれる厳格な対外政策をとっていました。その中で、異国の地に漂着し、なんと世界一周を果たした日本人たちがいたことをご存じでしょうか? その名も「若宮丸」の乗組員たちです。彼らは仙台藩・石巻の船乗りであり、1793年に出航した航海の途中で暴風に遭い、思いもよらぬ運命へと巻き込まれていきました。
このブログでは、日本史の教科書にはほとんど載っていない、しかし驚くべき実話――津太夫、佐平、儀兵衛、太十郎の四人が辿った、壮大な世界一周の物語をご紹介します。
■ 若宮丸の出航と漂流

1793年12月29日、宮城県石巻港から江戸へと米を運ぶために若宮丸は出航しました。
16人の乗組員たちは地元の漁師や商人で構成されており、その日も普段と変わらぬ航海のはずでした。
しかし、現在の福島県塩屋岬沖で突然の暴風雨に襲われ、船は制御を失って漂流を始めます。

船頭の平兵衛が水や食料の節約だけはきびしく指示しましたが、積込んだ飲み水はすでに無くなり雨を貯えて飲み水とし、積んでいた米、そして釣った魚、船に付いた貝を食料として飢えと渇きをしぎ、仲間たちが協力しあい、命からがら実に5カ月も漂流に耐え忍んだそうです。
1794年6月7日アリューシャン列島の小島に乗組員16人全員が漂着しました。

当時、多くの遭難した船は、遭難時やその後の飢えでほとんどの乗組員が亡くなられてしまうことが多く、乗組員全員が生き残るという素晴らしい快挙は、運だけでなく船頭がうまくリードし乗組員のチームワークが素晴らしいことが大きな要因だったと思います。

■ 船頭 平兵衛
小島に上陸した16人は、人家を求めて島を探し回ったそうですが、原住民に会うことが出来ず、家らしきものもどこにも見当たらなかったそうです。
上陸後、若宮丸は再び暴風に遭い、完全に破壊されてしまいました。積まれていた伝馬船(小さな手漕ぎボート)に移乗し島を移動しました。
そして、とうとう煙が昇る島を見つけて、その島に上陸しました。この島には鳥の羽や海獣の毛皮を着たアリュート人が暮らしていました。
アリュート人は、遭難した日本人を親切に助けてくれたそうです。
しかし、悲しい出来事が起きます。もともと身体が弱く、漂流中には微熱が続き、津太夫の必死の看病にもかかわらず、体のむくみもひどくなっていた平兵衛は、他の乗組員が全員助かったことを見届けると、静かに息を引き取りました。享年32才。
最後まで素晴らしき船頭でした。
平兵衛
仙台藩 領陸奥国 牡鹿郡 石巻裏町の米問屋 米沢屋平之丞の息子。
何事にもきっちりしていて、米、材木を積むのにも、船のバランスには事のほかやかましく、米はどこに、材木はどこにどれだけと、積む量と積む場所を指図し、積み荷が航海中にも動かないように固定させ、ほかの船のように、どこでも良いから積めるだけ積んで儲けようなどとは決して言わなかった。
積み荷は仙台蔵米二千三百三十二俵、御用木と雑小間木(ざつこまぎ)四百本でもあり、その扱いには、声を荒げることもあった。
船頭の身分は普通、百姓扱いで、苗字を持つ者はほとんどなかったが、平兵衛の父は、船問屋で苗字帯刀が許されていた。
平兵衛は、そんな家に生れた。
あくせくしたところがない割には数量にはうるさかったが、水主(かこ)たちには人望が厚かった。
時化(しけ)を乗り切るときの采配も、経験の割には、沈着で冷静、適確な指示は、十五人の水夫たちに多大な安心感を与えていた。
ただ惜しいことには、たたきあげの船乗りとは違って、やせていて体が弱い。
引用元: 共立荻野病院 コラム 露寇(ろこう)事件始末 荻野鐵人 より抜粋
残された漂流民15人全員が泣きながら地面を深く堀り、名もわからぬ小島の大地に平兵衛を手厚く埋葬したそうです。
その頃の日本では、、出港した船が行方を絶つと、遺族たちは、一年間はその帰還を待ったそうです。
しかし、一年後になお消息が知れなければ、船の出港した日を乗組員の命日に定め、供養の法事を営む習慣があり、鎖国体制下で彼らの生存を知ることも出来ないまま、米沢屋平之丞は、平兵衛たち乗組員を供養するため1799年に、石巻市にある「桂林山 禅昌寺」に遭難供養碑を建立しました。
■ ロシア人との出会いとロシア紀行

当時ロシア領だったこの島に常駐していたロシア人に従い、漂流民15人はナアツカ島に運ばれ、ここで原住民たちや、ラッコ猟をしていたロシア人の援助を受けながら、一年あまりを過ごしました。
極北の島で、言葉も生活習慣もまったく違う原住民たちと同じものを食べ、寒さをしのいでなんとか生き延びていたのですが、食べ物があわないのか、漂流民15人の体調がだんだんと悪くなってしまいます。
ナアツカ島で毛皮をとるためのラッコ猟を管理していたのは、露米会社の、ナアツカの支配人デラロフでした。
デラロフは日に日に体調を崩していく15人の日本人を心配するとともに、日本との通商を真剣に考えていたエカチェリーナ2世皇帝の意向もあり、1795年5月21日、デラロフは、日本人15人をロシア本土へ連れて行くためナアツカ島を出航します。

エカチェリーナ2世(1729年~1796年)
ロシア帝国の女帝であり、「エカチェリーナ大帝」とも称される偉大な君主です。彼女はドイツ生まれで、ロシア皇帝ピョートル3世と結婚しましたが、クーデターによって彼を退位させ、自ら皇帝となりました。
彼女の治世(1762年~1796年)はロシアの近代化が進んだ時期であり、啓蒙思想を取り入れた政治改革や文化振興を推し進めました。また、オスマン帝国との戦争に勝利し、領土を拡大するなど、ロシア帝国の強大化に貢献しました。
彼女は芸術や教育の発展にも力を入れ、ロシアの文化的な基盤を築いたことで知られています。歴史上、ピョートル大帝と並ぶ重要な皇帝の一人とされています。
出港した船は、アリューシャン列島の島々を経由し、1795年8月12日にロシア東部のオホーツクに入港しました。
ここから、若宮丸漂流民15人の「ロシア紀行」が始まります。
カムチャツカからシベリア内陸部を通って、ロシア帝国の首都・サンクトペテルブルクへと、数年をかけて移動しました。
日本人がこのような形でシベリアを横断したのは、彼らが最初だったかもしれません。

15人は、オホーツクの役人の家に50日ほど逗留したあと、約3000km離れたシベリア南部の町イルクーツクへ3班に分かれて移動することになります。
1795年9月30日、儀兵衛、善六、辰蔵の第1班が出発します。
ヤクーツクを経由し約5か月後の1796年3月4日にイルクーツクへ到着しました。
第1班のイルクーツク到着から数箇月後、左太夫、左平、銀三郎、茂次郎、太十郎の第2班。
吉郎次、津太夫、民之助、清蔵、市五郎、八三郎、巳之助の第3班。計15人の漂流民がオホーツクを出発しました。
第3班は、移動中に市五郎が腫気の症を患い、ヤクーツクにとどまり、病院に入院させてもらい療養に努め様子を見ていましたが、なかなか回復しないため、津太夫は市五郎を残しイルクーツクへ出発しました。
市五郎はその後、ほどなく没したそうです。享年32歳。
イルクーツクへの道中では、極寒の気候や言葉の壁に悩まされながらも、多くのロシア人より親切に援助を受けたそうです

日本とロシアは昔から交流があり、ロシア人は基本的に優しい人が多いと感じています。愚かな戦争を直ちにやめてほしいと願ってやみません。
■ エカチェリーナ2世の崩御
イルクーツクに到着した1班の儀兵衛、善六、辰蔵の三人はそろって、役所へ呼び出され、驚きの対面をします。
役所には日本語の通訳がいて、若宮丸の漂流してからの状況を尋ねました。
この通訳は、日本人の新蔵といい、先年、大黒屋光太夫が乗る神昌丸で漂流した一人で、光太夫たちが帰国した後もこの地に残り、ニコライ・ペテローヴィチ・コロティギンと改めロシアに帰化したそうです。イルクーツクの学問所に勤め日本文字手習の師匠をしており、さらにロシア人と結婚し子供もいたそうです。
大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう)1751年-1828年5月28日
江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。
天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に面会して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。
幕府老中の松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などで度々取りあげられている。
引用元:「大黒屋 光太夫」2025年5月13日 (火) 14:08『ウィキペディア日本語版』
儀兵衛たち三人は、新蔵の家に招かれます。家に着くと、もうひとりの日本人庄蔵が病により伏せていました。
庄蔵も光太夫の神昌丸で漂流した一人で、帰国直前に病を患い、帰国を断念し帰化した一人でした。
まもなく庄蔵は回復することなく病気により没したそうです。
また1796年11月、ロシア皇帝エカチェリーナ2世が崩御されます。
この出来事は、若宮丸漂流民たちを帰国させる動きに歯止めをかけることとなりました。
2班の左太夫、左平、銀三郎、茂次郎、太十郎の5人。
1797年1月、3班の吉次郎、津太夫、民之助、清蔵、八三郎、巳之助の6人がイルクーツクに到着し、市五郎を除く若宮丸14人の漂流民がイルクーツクで再会し合流しました。
最長老の吉郎次は、イルクーツク到着の時点ですでに70歳という高齢となっていました。
イルクーツクへの長旅の疲れで身体が衰弱していました。仲間の負担にならないよう懸命に仕事を手伝っていましたが、次第に体調を崩し、寝たきりとなってしまいます、そして1799年2月、吉郎次が72歳で亡くなります。
日本への帰国の話が途絶えた漂流民13人は、やむを得ずイルクーツクで生活することとなります。
しかし、異国での生活に次第に慣れ、住民達と仲良く暮らしていました。
新蔵は、善六にロシアに残って日本語教師になるようを強く説得し、承諾し帰化を決意します。
そしてロシア正教に改宗し洗礼を受けました。洗礼を受けた善六は更に辰蔵と儀兵衛の2人に対しても帰化し洗礼を受けるように話し、辰蔵は了承しましたが、儀兵衛は断ります。
その後、八三郎と民之助もロシア正教に改宗し洗礼を受け帰化しました。
1801年、アレクサンドル一世が王座につき、祖母であるエカチェリーナ2世が夢見た東方進出に本格的に乗り出す計画が動き出します。
1803年、漂流民たちのもとに首都サンクトペテルブルグに来るようにという通知が届きます。
■ ロシア皇帝アレクサンドル1世との謁見

1803年4月、漂流民たち13名、そして新蔵も同行することとなり、イルクーツクを出発しました。
途中で体調を崩した左太夫、銀三郎、清蔵の3名がイルクーツクへ戻ったと思われます。(正式な記録がありません)
1803年6月、10名の漂流民がサンクトペテルブルグに到着しました。
サンクトペテルブルクに到着した漂流民は、貴族の屋敷に滞在した後、皇帝アレクサンドル1世に謁見しました。
皇帝アレクサンドル1世は彼らの話を聞き、非常に感動し、彼らを故郷の日本へ帰すために尽力するよう配下に命じました。
こうして、日本への帰国を希望した津太夫、儀兵衛、左平、太十郎の4人の帰国が許されました。
先に帰化していた善六、辰蔵、八三郎、民之助、そして茂次郎と巳之助も帰化してロシアに残ることになりました。
この後、善六は通訳として帰国を希望した津太夫、儀兵衛、左平、太十郎の4人と行動を共にし同行することになります。
7月、日本へ帰国するため漂流民4人、そして通訳の善六を乗せたナジェージダ号とネヴァ号は、クロンシュタット港を出向しました。
■ 世界一周の帰路――ヨーロッパからアジア、そしてマカオへ

彼らの帰還には、いくつかの選択肢がありましたが、最終的に選ばれたルートは、なんと「西回り」でした。彼らはロシアを出発し、ヨーロッパを経て、喜望峰を回り、アフリカ、インド洋、東南アジアを経て清国(中国)へと向かう航路に乗ります。
この時点で、彼ら4人は「日本人として初めて世界一周を果たした人物」となったのです。
1804年10月、ナジェージダ号は長崎港外伊王崎に到着しました。
■ 日本での取り扱いとその後の人生
鎖国下の日本では、外国に滞在した者には厳しい取り扱いがありました。
長崎奉行所は、江戸に何度も使者を送りお伺いをたてますが、鎖国しているため、適切な対応方法がわからず、のらりくらりの緩慢な対応が繰り返されるだけでした。
しかし、彼らの場合は仙台藩の船で遭難したこと、そしてロシア側が公式に返還してきたことが影響し、処罰はされず藩に復帰することが許されました。
夢に見ていた日本への帰国、江戸幕府の対応は、すぐにでも故郷に帰れると思っていた津太夫、儀兵衛、左平、太十郎の4名に大きな精神的ダメージを与えました。

江戸時代の鎖国は、このようにして漂流民たちにとっては、とても冷たい厳しい対応となり、前記した漂流民 音吉が日本と決別し外国に帰化してしまう要因となりました。
■ まとめ
津太夫、儀兵衛、左平、太十郎の名前は、今でも郷土史や航海史を扱う専門書の中では時折取り上げられますが、一般にはほとんど知られていません。
彼らの旅路は、当時の日本人が見ることのできなかった世界の姿を、身をもって体験したものであり、地理的にも文化的にも貴重な歴史資料です。
「鎖国の時代に世界一周を果たした日本人たちがいた」――この事実は、我々の想像力を刺激し、日本人の行動力と適応力の原点を感じさせてくれます。
今、グローバル化が進み、世界がかつてないほどに繋がっています。しかし、その原点には、言葉も通じない異国の地で生き延び、互いに理解し合いながら道を切り開いた人々がいました。
津太夫たちの物語は、単なる航海譚ではなく、「人と人とがつながることの力強さ」を示す物語でもあります。困難の中で支え合い、国境を越えて命を守り、やがて故郷へと帰っていく彼らの旅路は、まさに現代にこそ必要なメッセージを私たちに伝えてくれているのです。
このブログを通じて、彼らの冒険が少しでも多くの人に知られ、歴史の片隅から再び光を当てられることを願ってやみません。もし石巻や長崎を訪れる機会があれば、ぜひ若宮丸の記念碑や資料館にも足を運んでみてください。過去が今に語りかける声が、そこにあるかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
石巻若宮丸漂流民の会
SPF(笹川平和財団)初めて世界一周した日本人 –若宮丸漂流民
「若宮丸」 2024年7月2日 (火) 19:22 『ウィキペディア日本語版』
「幕末の砲艦外交」 2025年2月18日 (火) 04:39『ウィキペディア日本語版』
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表記無き挿絵はChatGPTで作成したものです。