大震災!さらに押し寄せる大津波!! 絶望の町を救った使命感! 命の限り叫び続けた 遠藤未希!!

英雄伝

東日本大震災から十数年が経過し、私達の頭の中から大地震に対する危機感が少しずつ薄れ始め、最近では非常食など常備することが疎かになってきていませんでしょうか。
令和6年を迎え、お正月ムード溢れる日本に激震が襲いました。
能登半島地震」この記事を書いている1月18日の時点で、石川県で232人死亡 21人が安否不明、重軽傷者は県内全体で1055人に登ります。
残念ながら日本は地震大国、いつどこで大きな地震が発生するかわかりません。
今回は、3.11東日本大震災の大津波が襲来した際に、地域住民に対して防災無線で避難を呼びかけ続け、津波に呑まれ殉職された遠藤未希さんをご紹介します。
※東日本大震災の被害、津波の写真を掲載しています。ご注意ください。

おいたち

遠藤未希さん

1986年(昭和61年)、遠藤未希さんは、父、遠藤清喜、母、美恵子の長女として、南三陸町の公立志津川病院で誕生しました。
「未来に希望を持って生きてほしい」との願いを込め「未希」と命名されたそうです。

父が教えた剣道を小学校から高校まで続けた優しいがんばりやさんでした。
志津川高校を卒業後、仙台市内の介護専門学校に入学。介護の仕事を志します。
しかし、地元での就職を願う両親の強い思いから、地元の町役場に就職しました。

地元の町場では頻繁に津波被害に遭っていたことから防災への関心は高く、2005年10月に合併して南三陸町となった後、危機管理課が新設されて、未希さんは勤続4年目の2010年4月に、この危機管理課に配属されます。

2010年7月、専門学校で知り合った男性ダニエルさんと、町役場に婚姻届を提出し結婚しました。
当初、嫁ぐことに両親は反対しました。しかし未希さんが「どうしてもダニエルと結婚したい」と強く要望し、最後にダニエルさんが婿養子になると申し出て、ようやく両親も折れ、結婚を認めます。

そして石巻市内に新居を構え、石巻市から南三陸町役場に通う新婚生活を始めました。

未希さんは、結婚後すぐに子どもを授かったものの残念ながら流産してしまいます。
そして、2011年9月、宮城県松島町のホテルで結婚式を挙げる予定でした。

東日本大地震が発生する前 賑わう南三陸 引用元 日本経済新聞

3.11 東日本大震災

2011年3月11日 14:46 東日本大震災 発生!!

リアス式海岸の美しい景観、豊かな漁場に恵まれた街並みはこの日を境に一変します。

南三陸町の生き残った佐藤町長ら町職員11人全員の証言から、壮絶な1日を時系列で振り返ります。

14:46
2011年3月11日午後2時46分。佐藤仁町長(69)は、本庁舎の議場で定例議会の閉会あいさつをしていた。「これからも安全安心なまちづくりに向けて…」。可決された予算案には、30年以内に99%の確率で発生が予想された宮城県沖地震対策も盛り込まれていた。

14:49
「15時、6メートル!」。誰かが叫んだ。地震から3分後の午後2時49分、全国瞬時警報システム(Jアラート)で気象庁の大津波警報が入った。
「ただちに災害対策本部を設置」。遠藤副町長が指すると、職員たちは配備計画に従って慌ただしく動き始めた。

未希さんはいち早く、持ち場である南三陸町防災対策庁舎の2階で防災無線を使用し、防災無線で地域に避難を呼びかけます。

「津波が襲来しています。高台へ、避難してください!」
「海岸付近には、絶対、近づかないでください!!」

未希さんの防災無線の呼び掛けが、多くの町民の命を救います。
町民約1万7700人のうち、半数近くが未希さんの放送を聞き、高台に避難して命拾いをしました。

15:14   
<10メートル以上の津波>
南三陸町の防災対策庁舎2階の災害対策本部。危機管理課の佐藤智さん(66)が、放送室で避難を呼び掛ける同課の三浦毅課長補佐と、遠藤未希さんに急いでメモを渡した。 震度6弱の地震から28分後の午後3時14分。気象庁が大津波警報の予想高を「6メートル」から「10メートル以上」に引き上げた。

15:15   
午後3時15分すぎ、災対本部のラジオは岩手沿岸への津波到達を伝えていた。しばらくして歌津地区の田た束つがね山さん(512メートル)にいた産業振興課の牧野典孝さん=同(46)=と遠藤進也さん=同(39)=が役場に戻り「津波が来ていて防潮堤を超えそうだ」と報告した。

「(海岸が)すごいことになっているから、上がってございっ」

15:25   
防災庁舎の前の駐車場に水があふれてきた。複数の証言や津波の撮影時刻に照らし合わせると、八幡川に水が遡そ上じょうし始めたのは午後3時25分すぎ。色めき立った町幹部が口々に叫んだ。

「全員、屋上さ上がれ!」

緊迫の度を増す放送室。「未希ちゃん、もういいから」。危機管理課の佐藤さんらが放送室に駆け込み制止した。

「高台へ避難してください。ただいま宮城県内に10メートル以上の津波が…」。未希さんの声に「上へ上がって!上へ!」という幹部の切羽詰まった声が重なった。

上司の三浦さんは「未希ちゃん上へ上がれ! 私が放送すっから」と促し、マイクに向かったとされる。

15:28   
午後3時25~28分ごろ、突然、放送が途切れた。マイクのスイッチを入れたまま、全員が急いで屋上に駆け上がった。遠藤副町長らが最後に上がると、防災庁舎は海に囲まれていた。

引用元:河北新報 2021年2月23日

未希さんが勤務する、南三陸町の防災対策庁舎東日本大震災による高さ15・5メートルの大津波にのみ込まれ、町職員33人を含む計43人が命を落とました。

未希さんと放送を代わった三浦さんも、津波で流され行方不明となり、命を落とされました。
未希さんも、放送室を出た後、行方が分からなくなってしまいます。

防災対策庁舎に押し寄せる津波 引用元:南三陸町

南三陸町

平成23年2月末日現在住民基本台帳 人口17,666人 5,362世帯

死者 620人(直接死600人(うち町民の方551人、町外の方48人、不明1人)、間接死20人)
行方不明者 211人(うち町民の方210人)
全壊 3,143戸、半壊、大規模半壊 178戸、半壊以上の計 3,321戸 合計6,642戸が被害を受けました。

防災対策庁舎 引用元:朝日新聞社

3階建ての防災対策庁舎は倒壊は免れましたが、構造物の大部分は津波に押し流され、鉄骨のみが残っていました。
防災対策庁舎の写真は、津波が建物の屋根まで到達したことを示しており、屋上にあるアンテナにしがみつけた人だけが生存できたそうです。

津波後の南三陸町 引用元:「逃げっぺし」10年目の証言 南三陸の3.11 日本経済新聞社

大津波が引いた後の写真です。赤丸部分が防災対策庁舎です。

震災後

引用元:復興の様子が分かるフリー写真素材・宮城県南三陸町航空写真

未希さんのご両親は避難所で暮らしながら、未希さんの手掛かりを求め、がれきの街を捜し回りました。
遺体安置所の町総合体育館にも通い続けました。

4月23日、志津川湾に浮かぶ荒島の北東約700メートルの地点で行方不明になっていた未希さんとみられる遺体を捜索隊が発見します。

ご両親が掲示板を見ていた時、368番という番号で父清喜さんの目が止まりました。その日に海から引き上げられたご遺体でした。

両親そして夫のダニエルさんが写真で確認し、左足首に巻かれているオレンジ色のミサンガや、右肩付近のあざなどの特徴が未希さんと一致したそうです。ミサンガは夫ダニエルさんからのプレゼントでした。

5月2日、DNA鑑定の結果、ご遺体は未希さんと確認されました。

5月4日、しめやかに未希さんのご葬儀が執り行なわれました。

未希さんの葬儀会場に駆けつけた町民たちは口々に「女性の声で津波を知らせてもらった。あの放送がなければ今ごろは自分は津波に流され死んでいた」と、涙を流しながら未希さんの遺影に手を合わせました。

変わり果てた娘さんを前に両親は、無念さを押し殺しながら「生きていてほしかった。本当にご苦労様。ありがとう」とつぶやいた。  出棺の時、雨も降っていないのに、西の空にひとすじの虹が出た。未希さんの声は「天使の声」として町民の心に深く刻まれている。
引用元:MEMORY EVER-DAISHINSAI

翔びくらげ
翔びくらげ

未希さんは天国から今でも南三陸町を暖かく見守ってくれていると思います。
命を懸けて叫び続けた未希さんに心から感謝し「ありがとう!」という気持ちを送るとともに御冥福をお祈りします。合掌

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

ウィキペディア(Wikipedia)
朝日新聞社
日本経済新聞社 「逃げっぺし」10年目の証言 南三陸の3.11
MEMORY EVER-DAISHINSAI
西日本新聞me 14:46 激震 ついに本番が来たか 河北新報連載「あの日、防災庁舎で」#01
復興の様子が分かるフリー写真素材・宮城県南三陸町航空写真

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