東北の地に生きた蝦夷(えみし)たちと、大和朝廷の武将たち。歴史の中には、多くの戦いと征服の記録が刻まれていますが、その中でもとりわけ心を打つ物語が、征夷大将軍・坂上田村麻呂と、蝦夷の英雄・阿弖流為との関係です。
彼らは、敵として相対しながらも、最後には互いの武勇と誇りを認め合ったと言われています。今回は、阿弖流為の生い立ちから生涯、その戦いの歴史、男同士の心の交流に焦点を当ててご紹介いたします。
東北の勇・阿弖流為
奈良時代から平安初期にかけて、東北地方には蝦夷と呼ばれる人々が住んでいました。朝廷の支配に屈せず、大自然と共に生き、独自の文化を築いていた彼らにとって、中央からの侵略は「生き方そのもの」への否定でした。
その蝦夷の中でも、特に頭角を現したのが阿弖流為でした。知略と武勇を兼ね備え、仲間を守るために何度も中央軍を撃退します。801年(延暦二十年)には、数千の兵を率いて東北を守り抜こうとしたその姿は、多くの蝦夷の誇りでもありました。
しかし、阿弖流為は、ヤマト王権(旧大和朝廷)対して激しい抵抗を繰り広げた蝦夷のリーダーとして記されており、現在の正史においては、蝦夷、逆賊、山賊集団として扱われています。
蝦夷(えみし)
古代日本において東北地方に住んでいた人々のことを指します。大和王権の支配下になかったため、朝廷側から「異民族」と見なされましたが、実際には古代から日本に住んでいた縄文文化を受け継いた人々でした。
阿弖流為の生涯と戦い
8世紀前半(720~740年頃)阿弖流為は、現在の岩手県奥州市で誕生しました。
蝦夷の有力首長の家系に誕生した阿弖流為は、戦士・指導者としての教育を受けて育ちました。
生まれながらに「民を率いる存在」だったのです。
育った環境は、
・狩猟・漁労・牧畜(馬)を中心とした生活
・自然と共に生きる共同体
・早くから馬術・弓矢・剣の訓練
・部族の長老たちから語り継がれる歴史と誇り
だったことが推定されます。

そして、阿弖流為の行動や姿勢は、
・冷静な戦術判断
・無謀な決戦を避ける慎重さ
・仲間を見捨てない姿勢
は、幼少期から「民を守る長」の独特の教育を受けていたことを強く感じさせます。
1. 蝦夷と大和王権
奈良時代から平安時代にかけて、大和王権は東北地方の支配を拡大しようとしていました。しかし、東北の蝦夷はこれに強く抵抗し、大和軍と激しい戦闘を繰り広げました。蝦夷の中でも有力な指導者だったのが、阿弖流為です。
2. 778年:宝亀の乱
阿弖流為が歴史に登場するのは、778年の「宝亀の乱(ほうきのらん)」です。この戦いでは、蝦夷の軍勢が大和軍と戦い、一時的に勝利を収めました。この勝利により、蝦夷の抵抗運動は勢いを増しました。
3. 789年:巣伏の戦い
阿弖流為の最も有名な戦いが、789年の「巣伏(すぶせ)の戦い」です。
789年1月、長岡京の内裏で桓武天皇から節刀を授けられた征東大将軍・紀古佐美が激励を受け、陸奥へ向けて進発しました。
これに対し阿弖流為は、地の利を熟知した蝦夷の戦士たちを率い、正面衝突を避けながら戦機をうかがいます。
戦いの舞台となった巣伏(巣伏村)は、川や湿地が入り組んだ地形でした。阿弖流為はこの地形を巧みに利用し、朝廷軍が川を渡って布陣する隙を突いて奇襲を敢行します。
その結果、大和軍は隊列を乱し、多くの兵が川に溺れ、1,000人以上の戦死者を出し、壊滅的な打撃を受けました。
この敗北により、大和軍は胆沢支配を断念し、撤退を余儀なくされます。巣伏の戦いは、装備や兵力で勝るはずの大和軍が、蝦夷の戦術と土地勘の前に敗れた象徴的な戦いでした。
この勝利によって、阿弖流為の名は東北一帯に広まり、蝦夷側の結束は一層強まります。一方で朝廷は、東北経営の難しさを痛感し、後の坂上田村麻呂による懐柔と軍事を組み合わせた政策へと転換していくことになります。
巣伏の戦いは単なる一戦にとどまらず、武力による一方的な征服が通用しないことを朝廷に突きつけた歴史的転換点であったと言えるでしょう。
4. 802年:坂上田村麻呂との戦い
朝廷は方針を転換し、武勇と統率力を兼ね備えた武将、坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣します。
田村麻呂は、単なる討伐ではなく、蝦夷の実情を理解しつつ進軍を進めました。一方、蝦夷側の指導者である阿弖流為は、すでに十数年にわたり大和軍と戦い続けており、その名は東北一帯に轟いていました。
801年(延暦20年)、田村麻呂は大軍を率いて胆沢地方へ進出しますが、無理な正面決戦は避け、拠点を築きながら徐々に包囲網を狭めていきます。これに対し阿弖流為も、地の利を活かした抵抗を続けましたが、大和軍の組織的な進軍と補給体制の前に、次第に戦況は不利となっていきました。
この戦いにおいて特徴的なのは、田村麻呂が阿弖流為を「賊将」としてではなく、一人の優れた指導者・武人として認識していた点です。度重なる戦闘の中で、田村麻呂は蝦夷の戦いぶりと統率力に深い敬意を抱くようになっていきます。
やがて胆沢一帯は完全に包囲され、戦いは決定的な局面を迎えます。これ以上の戦闘は、民と兵を無益に失うだけだと悟った阿弖流為は、802年(延暦21年)、仲間の母禮(もれ)とともに自ら田村麻呂の陣に赴き、投降を決断しました。
激突と、心の交差

胆沢の地で長きにわたり大和軍と戦ってきた蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)と、その副将・母禮(モレ)は、坂上田村麻呂の陣に自ら出向き、投降しました。
この出来事は、単なる戦争の終結ではなく、征夷と呼ばれた時代の価値観が揺らいだ瞬間でもありました。
敗将ではなく「将」としての扱い
投降した阿弖流為と母禮に対し、坂上田村麻呂は、彼らを辱めることなく、礼をもって遇したと伝えられています。
縛り上げ、見せしめとして扱うことも可能であったはずですが、田村麻呂はそうしませんでした。
それは、彼が阿弖流為を「反乱者」ではなく、自らの民を守るために戦った一人の指導者・武人として見ていたからです。
長年にわたり胆沢一帯を統率し、大和軍を幾度も退けたその力量を、田村麻呂は戦場で誰よりも理解していました。
田村麻呂は二人を丁重に保護し、乱暴や私刑を禁じたうえで、正式な手続きをもって都へ送還します。この判断そのものが、彼の中にあった敬意と葛藤を物語っています。
朝廷への報告 ― 賊ではなく「人材」として
阿弖流為と母禮を伴い上京した田村麻呂は、朝廷に対し戦況を詳細に報告しました。
その報告において、彼は二人を単なる賊将としてではなく、
・長年にわたり胆沢を治めてきた統率者であること
・蝦夷の民から厚い信頼を受けていたこと
・無益な流血を避けるため、自ら投降を選んだこと
を強調したと考えられています。
これは、征夷の成果を誇る報告というよりも、敵の力量と覚悟を正しく伝えるための進言でした。田村麻呂にとって、この戦いは「勝ったから終わり」ではなかったのです。
助命嘆願 ― 武人としての決断
田村麻呂は朝廷に対し、阿弖流為と母禮の助命を強く嘆願しました。
彼の願いは、彼らを処刑するのではなく、その力と経験を、東北統治に活かすべきだというものでした。
この嘆願の背景には、田村麻呂自身の葛藤がありました。
阿弖流為は、命令に従って戦った田村麻呂自身と、本質的には変わらない存在だったからです。立場が違えば、互いの役割が逆であった可能性すらありました。
「この者らは、朝廷に仇なすために剣を取ったのではない。
ただ、自らの地と民を守るために立ったのである」
――田村麻呂の嘆願は、そうした思いを含んだものだったと想像されます。
受け入れられなかった願い
しかし、田村麻呂の嘆願は最終的に受け入れられませんでした。
朝廷は、長年抵抗を続けた象徴的存在である阿弖流為と母禮を生かすことが、統治上の不安要素になると判断します。
その結果、二人は河内国で処刑されることとなりました。
この決定は、田村麻呂にとっても、征夷の成功の裏で背負うことになった、重い結末であったと言えるでしょう。
歴史に残った「理解と敬意」
阿弖流為と母禮の最期は悲劇でしたが、坂上田村麻呂が示した態度と嘆願は、後世に強い印象を残しました。
それは、征服者が敗者をただ裁くのではなく、理解し、認めようとした希有な例だったからです。
二人は敵として刃を交えました。しかし最後に田村麻呂が見たのは、倒すべき賊ではなく、同じ時代を生きた武人でした。
この出来事は、阿弖流為の勇敢さと同時に、坂上田村麻呂の人間性をも今に伝える、東北史における深い余韻を残す一幕なのです。
阿弖流為の最期
802年 8月13日 河内國にて阿弖流為とその盟友・母禮(モレ)は、で斬首されました。
田村麻呂の胸中には、深い悔しさがあったに違いありません。敵でありながら、真に尊敬できる存在と出会い、理解し合おうとしたその手が届かない現実。時代の壁が、二人の心を引き裂いたのです。
そして阿弖流為も、最期まで仲間を思い、誇り高く生き抜いたその姿は、田村麻呂の心に強く焼き付きました。
人と人が戦うとき、そこには政治や体制を超えた「個人の心」があります。田村麻呂と阿弖流為の物語は、そのことを私たちに静かに語りかけてくれます。
阿弖流為と副将・母禮(モレ)の処刑について記されているのは、『日本後紀』延暦21年(802年)8月条です。そこには、「即捉両虜斬於河内國□山」と記されています。
□の文字が特定できず、色々な説が登場しています。
しかし、それは歴史の欠落ではなく、むしろ彼の存在の大きさを物語る事実とも言えます。
明確な場所を残さなかったことは、朝廷が意図的に記録をぼかした可能性が考えられます。
英雄の死を、特定の土地に固定しなかった政治的判断。とも考えられるからです。
その結果、阿弖流為は一つの場所に縛られず、
東北から河内へと、人々の記憶の中で生き続ける存在となりました。
枚方市牧野周辺に残る異様な伝承
河内国の中でも、特に注目されているのが、現在の大阪府枚方市牧野周辺です。
この地域では、古くから、夜な夜な武者の亡霊が現れる
甲冑をまとった影が河原や古墳の周辺を漂う
といった噂が絶えなかったと伝えられています。
これらは単なる怪談として片付けられがちですが、歴史的に見ると、処刑や無念の死と結びついた土地に生まれやすい伝承でもあります。
そして一人の女性によって始まった供養
こうした伝承の地・牧野において、特筆すべき出来事が起こります。
昭和期、枚方市在住の一人の女性が、牧野公園内にある古墳に木を植え、静かに祀りを始めたと伝えられています。
彼女は、ここを阿弖流為の霊を慰める場と考え、個人的な信仰として供養を続けました。(下記説明参照)




夢枕に立つ阿弖流為
大阪府枚方にある阿弖流為の史跡は、枚方市に住んでいた女性Sさんが祀り始めたことがきっかけで、
始まりました。
1. 祀り始めた「ある女性」について
この史跡(首塚)を世に知らしめ、祀るきっかけを作ったのは、地元・枚方市に住んでいたSさんという
女性です。
Sさんは、阿弖流為と思われる人物が夢枕に現れ、「自分は阿弖流為の祟りを受けているのではないか」と
感じるようになり、その供養のために公園内の古い塚を阿弖流為の墓として祀り始めたとされています。
2. 史跡として確立された経緯
もともと牧野公園にある盛り土は、地元では「胴塚(あるいは首塚)」と呼ばれる由来不明の古い塚
(実際には古墳時代の円墳とされる)でした。
- 個人的な供養から公的な顕彰へ:Sさん個人による供養が続けられる中で、1980年代後半から、阿弖流為の故郷である岩手県の人々や、地元の歴史研究家、さらに坂上田村麻呂ゆかりの京都・清水寺などが関心を持つようになりました。
- 石碑の建立: 2007年には「伝 阿弖流為 母禮之塚」建立実行委員会により、正式な石碑が建立されました。この際、碑文は清水寺の森清範貫主が揮毫しています。
3. 歴史的背景と場所
- 処刑地: 『日本紀略』によれば、阿弖流為と母礼は802年に「河内国椙山(すぎやま)」で処刑されたと記されています。この「椙山」が現在の枚方市東部の「杉」付近や「宇山」付近を指すという説があり、それが牧野公園の塚と結びつけられました。
- 現在の姿: 現在は、東北と関西を結ぶ歴史的絆の象徴として、毎年秋には岩手県と枚方市の有志による慰霊祭が行われています。
一人の女性の切実な祈りが、1200年の時を超えて東北の英雄を現代に蘇らせ、地域交流の場を生むきっかけとなったのです。
阿弖流為の歴史的意義
阿弖流為は、東北地方の人々の誇りとされる英雄です。彼の抵抗は、単なる戦争ではなく、自らの土地と文化を守るための戦いでした。現在、岩手県には彼を顕彰する記念碑が建てられています。また、平泉の歴史や東北地方のアイデンティティにも影響を与えています。
阿弖流為は、大和王権の侵攻に抗い続けた蝦夷の英雄でした。彼の戦いと最期は、現在も東北地方の歴史に大きな影響を与えています。彼の生涯を振り返ることで、日本の歴史の多様性を再認識することができます。
歴史は勝者のものといわれますが、そこには敗者の魂も確かに刻まれています。田村麻呂と阿弖流為、二人の男が織りなしたこの物語は、現代に生きる私たちに、人間としての誇りや、対話の尊さを教えてくれます。

彼らが生きた時代から1200年以上が過ぎた今、私たちもまた、異なる立場にある者同士が理解し合おうとする努力を忘れてはならないのではないでしょうか。
近い内に阿弖流為の生誕地、戦った地を訪問し取材したいと考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「アテルイと田村麻呂」 土井洋三
「アテルイ」2025年9月22日 (月) 08:59 『ウィキペディア日本語版』
「巣伏の戦い」 2025年3月20日 (木) 01:56 『ウィキペディア日本語版』
アテルイを顕彰する会 ホームページ
関西アテルイ・モレの会 ホームページ
