鎌倉幕府(かまくらばくふ)は源頼朝が創設した日本の武家政権の始まりです。この時代を鎌倉時代といいます。
頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗が鎌倉幕府の実質的な支配者となり幕府を支配しました。
この武家政権は鎌倉幕府から、室町幕府・江戸幕府へと継承されていきます。
平治の乱 ~平家の台頭 島流しにされる頼朝~
平安時代の後期、後白河天皇の側近である信西が絶大な権勢を奮っていました。
そのため上皇の近臣、藤原 信頼は信西を妬み対立していました。
平治元年12月9日(1160年1月19日)、信頼は武蔵国・陸奥国を知行国として繋がりのあった河内源氏六代目棟梁、源義朝を仲間にすると、信西のブレーンであった平清盛が熊野詣に出かけた留守に、義朝・源光保・源頼政とともに、京の三条殿を襲撃し、後白河上皇・上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保し、信西を自害させます。
こうして、信頼は、平清盛の留守中に内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握したのです。
しかし、熊野詣に赴く途中の紀伊国で京都の異変を知り、信西が討たれたことに激怒します。
そして平清盛らは、急遽京に戻ります。
内大臣・三条公教も信頼の横暴な行動に憤りを抱き、平清盛と協力し、天皇を奪還する計画を相談します。
そして清盛は信頼に恭順の意を示すふりをして所属する兵の名簿を提出するなどして欺きます。
信頼は清盛が味方についたことを喜びますが、義朝は信親を警護する清盛の勇壮な武者を見て、「もし警護する武者が敵だったら」という懸念を強く抱いていました。
そして、義朝が恐れていたことが事実となります。公教は天皇へ密書を送り後白河上皇、二条天皇を脱出させ保護します。
そして天皇も清盛の邸である六波羅へ移動されると、清盛は一気に官軍としての体裁を整え、信頼・義朝の追討宣旨が下されました。
こうして、官軍となった清盛の軍勢が大群となり攻めてきました。
源義朝は平氏と戦になることは想定しておらず、少ない軍勢しか伴っていませんでした。
多勢に無勢、義朝らは戦いに敗れて京を脱出し、東国を目指し逃亡しますが、信頼は途中で捕らえられ、六条河原で打倒されます。
信西(しんぜい、嘉承元年〈1106年〉 – 平治元年12月13日〈1160年1月23日〉)
平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな の みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。
引用元:「信西」(2023年11月13日 (月) 03:54 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
永暦元年(1160年)2月9日、源義朝の三男、頼朝(後の源頼朝)は近江国で捕えられ京の六波羅へ送られます。
次兄の朝長は負傷により美濃国青墓で落命。義朝は尾張国野間にて長田忠致により討たれます。長兄の義平は都で最後を遂げます。
捕らえられた頼朝も処罰されることを覚悟しますが、清盛の身内などから頼朝の助命嘆願があり、減刑され、伊豆国への流刑となります。
頼朝は後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補される。上西門院殿上始において徳大寺実定、平清盛などの殿上人が集う中で献盃役を務める。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任される。
引用元:「源頼朝」(2024年2月4日 (日) 03:00 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
上記のような関わりがあり、助命嘆願されたと考えられます。
こうして平清盛を中心とした平家一門の台頭が始まり、「平家にあらずんば人に非ず」と言われた、平家全盛の時代が始まります。
しかし、平家一門の政治、朝廷の支配は長く続きません。
その後、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易などで得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせ反乱を招きます。
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
「平家物語」のごとく、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡します。
源 頼朝 ~身勝手なモテ男~
永暦元年(1160年)3月11日、死罪から免れ、伊豆国の蛭ヶ小島に流刑となります。
伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧します。
弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられます。
これにより、朝廷と同様に京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれました。
鎌倉殿の13人 ~仁義なき政権闘争の始まり~
建久9年(1198年)12月27日、頼朝は武蔵国稲毛(現在:川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行う「相模川の橋供養」に参列します。
その帰路、頼朝は落馬し、その時に負傷した怪我が悪化し、建久10年(1199年)1月13日に死去。享年53歳(満51歳没)。
頼朝の跡を継いだのは、当時18歳の源頼家でした。
しかし、幕府の有力者たちは若年の頼家に政務を任せることに不安を抱き、有力御家人が頼家に代わって裁判と政務を執行する十三人の合議制と呼ばれる政治体制を築きます。
この合議制の中心にいたのは頼家の外戚にあたる北条氏であり、北条時政は北条家安泰のため、他の有力御家人を次々と滅ぼして行きます。
1203年、頼家は重病にかかり、時政により伊豆の修禅寺へ事実上幽閉され、弟の源実朝が次の将軍位に就きます。
翌1204年に頼家は時政の手勢により討たれてしまいます。享年23(満21歳没)。
3代将軍実朝を補佐し、執権と呼ばれる地位に就いた時政は政治の実権を握っていきます。
翌1205年、時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策します。
同年6月、重忠の子の重保と時政の娘婿である平賀朝雅が酒宴の席で口論となりました。その時は周囲の取りなしで事は収まりますが、このことが発端となり、重忠と朝雅の関係を悪化させ、朝雅は時政の妻、牧の方に重忠を排除するよう強く訴えます。
時政は重忠が謀反を企てたとして、息子の義時・時房に重忠討伐を命じます。
しかし、2人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」と猛烈に反対しますが、時政の妻、牧の方から問い糾され、納得できないまま出陣したと言われています。
重忠の従兄弟の稲毛重成(時政の娘婿)が御所に上がり、重忠謀反を訴え、将軍実朝は重忠討伐を命じます。
畠山重忠は、時政により「鎌倉に至急参上されたし」との虚偽の命を受け、130騎ほどを率いて菅谷館を出て鎌倉に向かいます。
途中の武蔵国二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)付近で義時を大将軍とする数万騎が自分に差し向けられたことを知ります。
重忠は北条に嵌められたことに気づきますが、時すでに遅し、自身の覚悟を決めます。
わずかな兵で義時の大軍を相手に奮戦しますが、最後は愛甲季隆に討ち取られます。享年42歳
重忠は、時政に疑いをかけられても決して逃げず、また所領に戻り兵を集めることもなく、己の誇りを守るため命を捨てたのです。
北条義時と畠山重忠が手を取りあい、鎌倉幕府を治めていれば、鎌倉幕府も大きく変わったかもしれません。
名将「畠山重忠」については、またいつかまとめて書きたいと考えています。
この事件をきっかけに、北条時政と義時・政子との親子対立が決定的になります。
元久2年(1205年)7月、源実朝を廃して朝雅を新たな鎌倉殿として擁立しようとした時政が失脚します。
当時、京都守護を兼ねていた朝雅は閏7月26日、京都において、鎌倉幕府の実権を握った北条政子・義時の命をうけ、御家人によって平賀朝雅は討たれます。
幕府内で完全に孤立無援になった時政は同日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条屋敷へ隠居させられることになります。
以後、時政は二度と鎌倉幕府の政権に携わることなく政治生命を終えます。
建保3年(1215年)1月6日、腫物(おでき、できもの)のため伊豆で死去。享年78歳。
この後、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めますが、侍所別当の和田義盛が義時に対抗してきます。
義時は計略をめぐらし、1213年、和田一族を倒します。
和田 義盛(わだ よしもり)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての有力御家人・武将。初代侍所別当。
三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。
引用元:「和田義盛」(2024年2月2日 (金) 14:38 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
源氏の終焉 ~独裁政権の終わり~
常に武力紛争が絶えない鎌倉幕府は、承久元年(1219年)1月に3代目将軍、源実朝が襲われ亡くなる、最悪の事件が発生します。
建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺(約60cm)ほど積もる日に八幡宮拝賀を行うことになりました。
夜になり神拝を終え退出の最中、
「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われます。
公暁は実朝に斬りつけました。
実朝は落命。享年28(満26歳没)。
また、公暁の一味の法師が北条義時と勘違いし、源仲章を襲いました。
義時は御所を発し八幡宮の楼門に至ると体調の不良を訴え、太刀持ちを仲章に譲り自邸に戻っていました。
公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と指示を出します。
義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、急ぎ北条義時にこのことを報告します。
義時は公暁を倒すべく評議を行い、義村は公暁を討つべく勇猛な長尾定景を公暁に差し向けました。
公暁は義村の迎えが来ないので、1人雪の中を鶴岡背面の山を登り、義村宅に向かう途中で定景らに遭遇します。
公暁は討ち手を斬り散らしつつ義村宅の板塀までたどり着き、さらに塀を乗り越えようとした所を定景に討ち取られます。享年20歳。
公暁(くぎょう / こうきょう / こうぎょう、正治2年〈1200年〉 – 建保7年1月27日〈1219年2月13日〉)
鎌倉時代前期の僧侶。鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男。
引用元:「公暁」(2024年2月3日 (土) 02:01 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
頼朝の直系が断絶し、困惑した鎌倉幕府は、朝廷へ親王将軍を要望しますが、治天の君・後鳥羽上皇はこれを拒否します。
紆余曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児藤原頼経が新将軍=鎌倉殿として迎え入れられました。
この後の2代の鎌倉殿は摂家将軍と呼ばれます。
このようにして幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなります。
藤原 頼経(ふじわら の よりつね)
鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。
両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。
引用元:「藤原頼経」(2023年11月14日 (火) 14:35 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
北条義時 ~政権闘争を最後まで生き抜いた武将~
北条 義時(ほうじょう よしとき、長寛元年(1163年) – 元仁元年(1224年))
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。北条政子の弟。得宗家2代当主。
建保7年(1219年)に鎌倉幕府の源氏将軍が断絶した後、幕府の実質的な指導者となる。幕府と朝廷の対立が激化し、後鳥羽上皇より義時追討の宣旨が全国に発布されると朝敵となるが、幕府軍は京都に攻め上り朝廷を制圧。後鳥羽を含む3人の上皇(太上天皇)を配流し、践祚(せんそ)していた後鳥羽の孫の懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡(おくりな))を廃した(承久の乱)。
引用元:「北条義時」(2024年1月13日 (土) 10:27 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
得宗専制の誕生 ~北条氏の権力を独占~
1224年(元仁元年)に北条義時、1225年(嘉禄元年)に北条政子や大江広元といった鎌倉幕府を築いた世代が死去、義時の子、北条泰時が執権となります。
泰時の孫、北条時頼は、泰時の執権政治を継承していきます。
1252年、宗尊親王を新将軍として迎えることに成功します。
これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられ、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となります。
こうして、親王将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていきます。
時頼は、病のため執権職を北条長時に譲りますが、実権は握り続けます。
これにより政治の実権は執権の地位と乖離していき、北条宗家を当時、得宗(徳宗)と呼んだことから、上記の政治体制を得宗専制といわれるようになります。
宗尊親王(むねたかしんのう)
鎌倉幕府6代将軍(在任:1252年 – 1266年)皇族で初めての征夷大将軍である。後嵯峨天皇の第一皇子。
5代将軍の藤原頼嗣が京に送還された後の建長4年(1252年)4月に11歳で鎌倉に迎えられ、異母弟の後深草天皇より征夷大将軍の宣下を受ける。
引用元:「宗尊親王」(2024年1月15日 (月) 11:52 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
元寇 ~日本への侵攻に大きな影響を与えた戦い~
元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。蒙古襲来とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)といいます。とくに2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊でした。
第一回目の文永の役では、元側の史料『高麗史』によると、博多湾から上陸した元軍は日本軍の激しい抵抗を受け、副司令官である左副元帥・劉復亨が負傷するなど苦戦したため、元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵(元軍)が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力(日本軍)の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」と述べ、元軍は撤退することに決したとされる。危険な夜間の撤退を強行した元軍はその撤退道中に暴風雨に遭い、朝鮮半島の合浦に帰還した時には、13,500余人の不帰還者を出していた。
二回目の元寇・弘安の役では、元軍は日本軍の猛攻(志賀島の戦い・壱岐島の戦い・鷹島沖海戦)で苦戦を強いられ、二ヶ月近く海上に停滞していたまま台風に遭い、大損害を出して混乱したところを日本軍の総攻撃を受けて、壊滅した(御厨海上合戦・鷹島掃討戦)。元軍の捕虜は2、3万にも達した。
引用元:「元寇」(2024年2月4日 (日) 04:59 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
文永の役後、幕府は石築地の建設や輪番制の異国警固番役の設置など博多湾の防備を強化します。
この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は乏しく、御家人たちを困窮に陥れ、不満が噴出したそうです。
弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めますが、この戦争も日本側が得るものはなく、御家人に対して十分な恩賞を与えることはありませんでした。
また、九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。
また、鎌倉時代は、御家人の所有している領地を、子孫のため分割して相続していましたが、恩賞としての領地が増えず、均等に分割して与えると領地が細かくなり、領地の価値が低くなってしまいます。
また、御家人として贅沢な生活をするとなれば、資金が必要ですが、恩賞がないため、商人などに借金を重ね返済できない御家人が続出して行きます。
こうして御家人の生活が苦しくなってきたのに加えて、元寇で恩賞はもらえず、兵を挙げる費用だけを負うことになり、御家人は更に借金などに苦しむことになりました。そして、その原因を作っている幕府に対して、不満が高まっていったのです。
幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしましたが、借金を帳消しにされた商人などの反発や、お金を貸しても帰ってこないため、さらなる借金ができなくなり、結果的に資金繰りに行き詰まり御家人の不満は解消されませんでした。
「徳政令」は、一言でいえば「借りたお金を返さなくてもよいですよ」という幕府の借金帳消しの法令になります。ものすごく羨ましい法令ですね。
円覚寺の舎利殿は、北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建しました。鎌倉末期を偲ぶ建築物です。
東勝寺 ~北条一族最後の地~
鎌倉幕府末期、北条高時が北条得宗家の跡を継ぎます。
一般的に、高時は、病弱で闘犬、田楽に凝り、政務を顧みない暗愚な当主と言われています。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒す計画を企てます。
しかし、密告により、事前に鎌倉幕府に計画が発覚し、翌年に天皇を隠岐島へ流刑します。
これを契機に鎌倉幕府や得宗に不満を持つ楠木正成、赤松則村など各地の御家人、悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げます。
悪党
古代荘園制が、武士の浸食によって崩壊してゆく過程で、浸食してゆく武士を指した呼称として用いられた。
荘園制において、荘園領主(本家および領家)から現地での管理を下請けしていた荘官の職に就いていた者が、後に武士と呼ばれるようになったが、彼らが、鎌倉時代の中期から後期にかけて、時には現地の農民と連携しながら荘園領主に反抗し、幕府(六波羅探題)の介入を排除して、自らの土地の支配権を既成事実化していった。
引用元:「悪党」(2023年12月16日 (土) 16:46 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
元弘3/正慶2年(1333年)4月、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された有力御家人の足利高氏(尊氏)は名越高家が久我畷の戦いで戦死したのを見て、一転して後醍醐天皇側へつき、5月7日に六波羅探題を攻め落とします。
六波羅陥落の翌日、新田義貞が上野国で挙兵し、150騎だった軍勢は関東御家人の支持を得て数日のうちに大軍となり、幕府軍を攻撃します。
これに対し、鎌倉幕府は桜田貞国・長崎高重らを将に討伐軍を組織し、大軍で迎撃しますが、彼らは小手指原の戦い、久米川の戦いで敗れます。その後、北条泰家の援軍が加わったのちも、分倍河原の戦い、関戸の戦いで敗れ、幕府軍は鎌倉へと敗走し、新田勢は鎌倉へ進軍します。
5月18日、新田義貞は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始し、防戦する幕府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられます。
当日、追い詰められた執権の赤橋守時が自害しますが、地形を利用した幕府軍の激しい抵抗に新田軍は甚大な損害を被ってしまいます。
5月21日、新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内になだれ込み、両軍は市中において激戦を繰り広げ、22日までに赤橋守時、大仏貞直、金沢貞将、普恩寺基時など幕府軍の有力武将が相次いで戦死します。
もはや幕府の命運が尽きたのを感じとり、北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣283人は菩提寺の東勝寺に集まり、寺に火を放って北条一族は滅亡します。
このようにして、鎌倉幕府は終焉を迎えました。
鎌倉を脱出した、得宗北条高時の遺児である北条時行(中先代)は、中先代の乱(建武2年(1335年))を起こして、尊氏の弟の足利直義を破って鎌倉を占拠し、鎌倉幕府を一時的に再興しますが、征東将軍足利尊氏に攻められて20日で再興鎌倉幕府は滅びます。
その後、幾度となく逃走しながら、北条家再興のため戦いますが、翌年の正平8年/文和2年5月20日(1353年6月21日)、遂に足利方に捕らえられ、鎌倉龍ノ口(神奈川県藤沢市龍口)で処刑されます。享年は20代半ばと推測されます。このとき、代々の得宗被官である長崎氏と工藤氏の出身と思われる武将の長崎駿河四郎と工藤二郎も、時行と共に捕らえられ、処刑されています。
このようにして、約140年続いた鎌倉幕府は滅亡し、北条一族も終焉を迎えます。権力を得るため、多くの豪族が戦い、散っていきました。畠山重忠の様に自身の誇りを守るため散っていった名将も多く存在したと思います。こうして日本の歴史の礎となった多くの祖先達に心より感謝し、ご冥福(ごめいふく)を祈りたいと思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。