関東の北、群馬県。源氏を祖とする武将が二人同じ時代に生まれました。
二人は親戚であり、幼い頃はともに過ごしたこともあったと思います。
そして共に戦い、最後は敵対して争います。
教科書で学ぶ足利幕府を築く、足利尊氏と新田義貞です。
しかし生まれたとき二人の境遇は大きく異なります、足利高氏(尊氏)は鎌倉幕府から高い地位と役職で歓迎されます。
しかし、新田一族は冷遇されており、新田義貞が元服したときも何の地位も役職も与えられませんでした。
同じ祖を持つ足利一族と新田一族。どちらかというと新田一族のほうが源氏の嫡流に近く家柄は上です。なぜ鎌倉幕府の待遇は異なるのでしょうか。
そして、この酷い差別から、幼い頃より鎌倉幕府に不満を抱いていた、新田義貞は挙兵し鎌倉幕府に反旗を掲げ、わずか半月で鎌倉幕府を滅亡させます。
翔びくらげが尊敬している。新田義貞についてできるだけわかりやすくご紹介したいと思います。
新田義貞の生い立ち
源平合戦後、約120年。歴史を塗り替える、武将が誕生します。
北条一族による腐敗した鎌倉幕府を討滅する新田義貞が誕生します。
新田義貞は新田氏本宗家の7代当主・新田朝氏の嫡男として現在の群馬県太田市に生まれました。
義貞の生年については判然としてわかりませんが、正安3年(1300年)前後と考えられています 。
台源氏館跡 新田義貞誕生伝説地
ここは太田市由良町(字北之庄)に当たり、古くから太平記を飾る郷土の武将・新田義貞公の誕生の地と伝えられてきた。
義貞公は正安3(1300)年ころにここで生まれ、やがて反町館で青年期をむかえ、元弘3(1338)年5月8日、生品神社で鎌倉幕府打倒の旗をあげたと伝えられる。
公はその後、後醍醐天皇に仕え建武新政の要人として活躍したが、歴応元(延元3・1338)年閏7月2日、福井の燈明寺畷で壮絶な最後を遂げたという。享年は38と伝えられる。
この館跡は居館跡の土塁の一部を整備して昭和13(1938)年8月26日(陰暦の閏7月2日)、二基の石碑が建てられて義貞公の地とされたものである。なお、義貞公誕生地はここの外に、反町館説、世良田新田館(総持寺)説、榛名町里見郷説などがあり、不詳なところが多い。
引用元:「新田義貞」(2023年12月17日 (日) 00:28 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
新田義貞誕生伝説地は、太田市の住宅地の中にありました。区画され整備された空間に、大きな石碑が立っています。
誕生伝説地に立ち、石碑に向かい、「名将義貞公はここで誕生したんだ」と思うと、時空を超えて深い感動を味わいました。
また、誕生伝説地の周辺は、車を駐車する所がないので注意が必要です。
誕生伝説地から西に400m先に新田氏累代の墓のある円福寺があり、そこの駐車場に車を駐めて、徒歩で行かれることをお勧めします。
鎌倉幕府は、足利高氏に元服と同時に従五位下・治部大輔に任じます。
新田義貞は残念ながら無位無官の地位でした。足利氏と新田氏の格差は大きくなっていました。
義貞は、この屈辱を心に秘め、いつか必ず挽回するチャンスを待ち望んでいました。
「治部省」は日本の律令制における八省の一つで、治部省は外事、戸籍(姓名関係)、儀礼全般を管轄していました。具体的には、姓氏に関する訴訟や、結婚、戸籍関係の管理および訴訟、僧尼、仏事に対する監督、雅楽の監督、山陵の監督、および外国からの使節の接待などを職掌としていました。
治部大輔はその中で上位の次官で、定員は一人でした。
引用元:「治部省」(2022年2月13日 (日) 04:43 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
元弘の乱
元弘元年(1331年)から始まった元弘の乱においては、新田義貞は大番役として京都にいました。
元弘2年/正慶元年(1332年)に河内国で楠木正成の挙兵が起こると幕府の動員命令に応じて、新田一族や里見氏、山名氏、上野御家人らとともに河内へ正成討伐に向かい、 千早城の戦いに参加します。
しかし河内金剛山の搦手の攻撃に参加していた義貞は、病気を理由に新田荘に帰ってしまいます。
千早城の戦い(ちはやじょうのたたかい)
1333年(元弘3年、正慶2年)に後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦。千早城は上赤坂城・下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城である。
引用元:「千早城の戦い」(2024年1月21日 (日) 12:05 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
このときに護良親王と接触し、鎌倉幕府打倒の綸旨を受け取っていたとも言われています。
また、一部の資料には、無断で帰郷したのではなく、帰郷途中に、鎌倉に立ち寄り、幕府に京都大番役の任を解かれ帰郷することを報告したことになっている記録もあります。
元弘の乱(げんこうのらん)
鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。
引用元:「元弘の乱」(2024年1月18日 (木) 13:10 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
義貞が新田荘へ帰郷した頃、幕府は元弘の乱における高額な戦費をまかなうため、新田荘に役人を派遣します。
幕府の役人として紀出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の淵名荘(現在の群馬県 伊勢崎市)から赴むきます。
親連と黒沼は「天役」を名目として、有徳銭として6万貫文(現代の価値として約36~50億円)もの軍資金をわずか5日の間という期限を設け、納入するよう義貞に要求してきました。
天役(てんやく)
中世の日本において朝廷が臨時に課した公事のことで勅役(ちょくやく)・勅事(ちょくじ)と同じとされる。中世後期(室町時代前期以降)は、点役と記されるようになった。
引用元:「天役」(2023年11月14日 (火) 11:27 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
新田荘は、長楽寺の門前町として宿や市場がたち、利根川水系の舟の荷が集まり、商業活動が盛んで多額の利益が得られるため、豊かな商人が多く住む地域だったそうです。
そのため財政が豊かだったと考え、高額な徴税の要求してきます。
しかし、新田氏の財政は門前町を抱えていても、出費も多く、私領の一部を切り売りするなどして賄っており厳しい財政であったそうです。
有徳銭(うとくせん・有得銭)
中世の日本において有徳人と呼ばれた富裕層を中心に賦課された臨時の課税のこと。徳役(とくやく)などとも称した。
有徳銭は貨幣経済が発達して有徳人が形成されるようになった鎌倉時代後期から見られるようになる。1304年(嘉元2年)に東大寺領である伊賀国黒田荘で行われた「有徳借米」、その10年後に同地で行われた「有得御幸銭」の賦課に見られるように、当初は臨時の借米であったものが次第に租税化し、納付も銭で行われるようになったと考えられている。
引用元:「有徳銭」(2022年5月25日 (水) 12:14 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
新田荘を訪れた二人の幕府の役人の行動や振る舞いは、だんだんエスカレートし、義貞の居館の門前に、泣訴してくる商人も少なくありませんでした。
義貞は、村人の意見を良く聞き、村民のために尽くした、村民から慕われる名将でもありました。
腐敗した鎌倉幕府の役人は、良くテレビの時代劇などで登場して、裏金を要求したり、豪華な酒宴を要求したりする悪代官のようですね!
義貞は、「我が舘の辺を、雑人の馬の蹄に駆けさせることこそ、無念なれ」と激怒し、幕府の役人二人を拘束し、黒沼を極刑に処します。
なお、親連は新田氏の重臣船田氏の同族であり、船田氏の助命嘆願を受け、極刑は免れます。
役人に対する義貞の仕打ちの報告を受けた北条高時は激怒します。
そして、新田義貞、弟の脇屋義助の討伐を武蔵、上野の両国に命じます。
義貞も、倒幕の行動を起こす千載一遇と決意し、新田一族を集め、評定をひらきます。
そして「今こそ鎌倉を攻め落とすべし!」と生品神社で旗揚げをします。
挙兵 打倒鎌倉!
生品神社
平安時代の上野国神名帳に「新田郡従三位生階明神」として記載される古社である。主祭神は大国主であるが、平将門を祀っているという伝説もある。
元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞が後醍醐天皇より鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた際に、産土神である生品神社境内で旗揚げをし、鎌倉に攻め込んだと伝えられる。このとき、旗揚げに参集した武将は150騎だったと伝えられている。境内には社殿の他、新田義貞公像、義貞公旗揚げ塚、神木、記念碑等がある。毎年5月8日には例祭として鏑矢祭が行なわれる。
境内は1934年(昭和9年)3月13日、「生品神社境内(新田義貞挙兵伝説地)」として国の史跡に指定。2000年(平成12年)11月1日、新田荘関連の他の10箇所の遺跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定された。
生品神社 群馬県太田市新田市野井町640
引用元:「生品神社」(2023年11月28日 (火) 08:08 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
1333年5月8日(諸説あり)、卯の刻(午前6時頃)に義貞はじめ新田一族が新田荘にある生品神社に参集して決起します。
「先祖代々鎌倉幕府より受けてきた、新田氏の仕打ちに対する恨みを晴らす時、今決起し、打倒鎌倉!」と鬨の声(ときのこえ)を上げました。
鎌倉幕府との戦い・・・そして終焉
生品神社を発った義貞は、途中、募兵をしながら上野国を進軍し、越後国の里見・鳥山・田中・大井田・羽川といった新田一族ら越後の先発隊2000騎と合流。
更に八幡荘(八幡神社付近)にて、越後の後陣、甲斐源氏・信濃源氏の一派などの各地から参集した軍勢5000騎と合流し、義貞軍は9,000に膨れ上がります。
さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、鎌倉を脱出してきた足利高氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)と久米川付近で合流したことで、新田義貞の軍に加わる兵が更に増え、各地から兵士が集まり軍勢の規模は20万騎近くの膨大なものとなります。
こうして、新田義貞の軍勢は小手指原、久米川、分倍河原と合戦を繰り返し鎌倉へ軍を進めていきます。
一進一退の激しい戦いを続け、ついには鎌倉に幕府軍は敗走します。
幕府軍は鎌倉で新田軍を迎え撃つべく、鎌倉の防備を固めます。
そして鎌倉街道を進軍してくる20万の新田義貞軍に対して、
北条守時を洲崎 巨福呂坂切通し)
金沢貞将を化粧坂
大仏貞直を極楽寺坂切通し
それぞれを配置します。
また、どの方面にも援軍がすぐ駆けつけられるよう、鎌倉各地に兵を配置します。
5月17日、新田軍は関戸に一日逗留し体勢を立て直します。
そして義貞は、須崎の戦闘を終え、部隊を三隊に分割し攻撃する戦法を立てます。
義貞の本隊が化粧坂(けわいざか)切通し
大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し
堀口貞満、大島守之の部隊が巨福呂坂切通し
各部隊に総攻撃を指示し体制を整えます。
19日早朝、義貞は村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂などの50余ヶ所に放火し幕府軍を撹乱します。
そして三部隊は攻撃を開始しますが、鎌倉の地形は天然要塞となり、新田軍を阻止します。
新田軍の三部隊の攻撃は、いずれも失敗してしまいます。
天然の要塞
鎌倉の市街地は東・北・西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面した地形をなすことから、天然の要害と形容される。東・北・西のいずれから鎌倉に入るとしても「鎌倉七口」と呼ばれる山の尾根筋を開削した道路(切通し)を通らねばならず、後述する赤星直忠による研究以来「防御しやすい土地柄」と考えられるようになった。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝がここを拠点としたのは、父祖ゆかりの土地であったこととともに、こうした地理的条件による部分が大きかったとされる。
市街地の北西には源氏山(92メートル)があり、山並みは高徳院(鎌倉大仏)の裏手を通って稲村ヶ崎まで伸びている。市街地の北から東にかけては六国見山(147メートル)、大平山(159メートル)、天台山(141メートル)、衣張山(120メートル)などの低い山が連なり、逗子市との境に当たる飯島ヶ崎、和賀江島(わかえじま)方面へ伸びている。市街地周辺の山はいずれも標高100~150メートル程度だが、標高の低い割には急坂やアップダウンの激しい山道が多いとされ、市街地北方の尾根道には「鎌倉アルプス」の別称がある。
引用元:「鎌倉」(2024年2月4日 (日) 10:06 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
巨福呂坂切通しを攻撃した新田軍の堀口貞満は、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り、幕府軍の先鋒隊として出撃した北条守時と一昼夜の間に65合も斬り合う激戦を演じます。しかし最期は多勢に無勢、洲崎の地で子の北条益時ともに終わりを遂げます。
極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は波打ち際を突破して鎌倉への進路の打開に成功します。その後、北条貞直が態勢を立て直し、大舘宗氏を反撃し宗氏は討ち取られてしまいます。
宗氏の戦死によって極楽寺坂方面での指揮系統が失われたため、義貞は化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移し、直接指揮を取るため向かうことになります。
5月20日夜半、極楽寺坂方面の援軍として、稲村ヶ崎へ義貞が駆けつけますが、大舘宗氏が稲村ヶ崎突入に成功したことで、幕府軍の援軍がすでに到着しており、更に防備が厳重になっていました。
稲村ヶ崎の断崖下の狭い通路は逆茂木(さかもぎとは、戦場や防衛拠点で先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べて地面に固定し、敵を近寄らせないようにした障害物。)が、海には軍船がそれぞれ配置され、通行する軍勢を迎撃できる体制になっていました。
しかし、5月21未明、周囲の海は干潮となり、義貞率いる軍勢はこの干潮を利用して鎌倉に進軍し、稲村ヶ崎の突破に成功します。
『太平記』では、義貞が黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されています。
稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は稲生川付近の民家に火を放ち、由比ヶ浜における激戦を繰り広げます(由比ヶ浜の戦い)。
勢いに乗った新田軍は鎌倉への突入に成功し、幕府軍を前後から挟み撃ちにして幕府軍を攻撃します。
北条貞直も力尽き、5月21日深夜に攻防戦の要衝である霊山山から撤退します。
大館宗氏に代わって采配を取った新田義貞の弟、脇屋義助の攻撃に敗れ打倒されます。
弟の宣政(のぶまさ)や子の顕秀(あきひで)らも共に戦場に散ります。
最後の戦場は葛西谷にある北条一族菩提寺の東勝寺に推移し、長崎思元、金沢貞将らの奮戦むなしく、元弘3年(1333年)年5月22日、北条高時を始めとする北条家の一族870余人は北条家の菩提寺である東勝寺において自ら火を付けて終焉を迎えます。北条高時は31歳でした。
5月8日に生品明神にて義貞が挙兵してから、わずか半月という期間で鎌倉幕府は脆くも滅亡しました。
こうして、鎌倉幕府の創設者 初代将軍の源頼朝による独裁政治から始まり、最後は、北条氏の身内びいきの腐敗政治に満ちた鎌倉幕府は150年の歴史に幕を閉じます。
この後、最大の功労者新田義貞は、後醍醐天皇の建武の新生に尽力しますが、足利高氏らと戦い、志半ばで討ち倒されてしまいます。
慈愛の名将、新田義貞はまた改めてご紹介します。しばらくお待ち下さい。
鎌倉幕府を倒した新田義貞の続編について、春に新田義貞公の終焉の地福井県へ取材し、後編を作成したいと思います。ご期待ください。
最後までお読み頂きありがとうございました。