大正元年9月30日
明治天皇が崩御され、「大葬の礼」が行われる日。
赤坂にある幽霊坂脇にある家で、自害した夫妻がいました。
明治の軍人、乃木希典と静子夫妻です。
夫は明治天皇を慕い殉死、妻は夫を慕い殉死しました。
幕末から明治の軍人、乃木希典夫妻です。
乃木将軍のイメージは?
私が乃木将軍を最初に知ったのは「二百三高地」という映画でした。
主題歌がさだまさしの名曲「防人の詩」、多くの兵士が死んで行く場面。防人の詩の旋律、歌詞が素晴らしく、私も大きな衝撃を受け、人の命の尊さを考えさせられた映画です。
劇中では乃木将軍は無能な司令官として描かれていました。また、その後に読んだ司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」でも乃木将軍は愚将として描かれています。
乃木将軍は本当に無能の将軍だったのでしょうか?
学者になるか軍人になるか
1849年(嘉永2年)11月11日、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次とひさことの三男として、江戸の長州藩の支藩である長府藩上屋敷にて乃木希典が生まれました。
乃木は兵学者の玉木文之進への弟子入りし、学問の手ほどきを受けます。
また、一刀流剣術も学び技術習得を意味する「目録伝授」されています。
1865年 乃木は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織します。第二次長州征討が開始されると、萩から長府へ呼び戻されます。
乃木は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口に加わります。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城へ一番乗りをする武功を挙げました。
1868年2月、報国隊の漢学助教となりますが、11月に藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学びます。
これは、従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助が、乃木に対し、学者となるか軍人となるか意思を明確にせよと迫り、乃木は軍人の道を選んだのです。
切腹覚悟!軍人 乃木希典の大失態
1877年の西南戦争の際には、熊本県植木町(現:熊本市植木町)にて薩軍との戦闘になります。
乃木隊は強行軍を繰り返し、僅か200の将兵はすっかり疲れきっていました。
それでも対する西郷軍は倍の400の兵隊を有していました。乃木隊はよく応戦し持ちこたえていましたが、熊本城に入城するのは厳しいと判断し、後退することにしました。
その時、明治天皇から賜った大切な連隊旗を守っていた将校が討たれ、大事な連隊旗を薩軍に奪われてしまう大事件が発生します。
薩軍は乃木隊から奪取した連隊旗を掲げて気勢を上げていました。大切な連隊旗を敵兵に奪われる大失態を犯した乃木は、事件を重く受け止め、総指揮官であった山県有朋に厳重な処分を求めました。
しかし、山県は、連隊旗を奪われたのは乃木の責任ではないとして処分しませんでした。
処分に納得がいかなかった乃木はその後、何度か自殺未遂をくりかえしました。
奮起!軍人 乃木希典!
1876年(明治9年)山口県萩で萩の乱が起こりました。
この乱で、乃木の実の弟、玉木正誼は反乱軍に属して戦い、ついには戦死してしまいます。
また乃木の学問の師であり、実弟の養父である玉木文之進は、多くの門弟が反乱軍に参加し政府に反逆したことから責任をとり自害します。
玉木 文之進(たまき ぶんのしん)
日本の武士(長州藩士)、教育者、兵学者(山鹿流)。松下村塾の創立者。吉田松陰の叔父に当たる。諱は正韞であるが、一般的に通称で文之進と呼ばれる。家格は大組。石高40石。
生涯
文化7年(1810年)9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の三男として萩で生まれる。文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。
天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、少年期の松陰を大変厳しく教育した(過激な、体罰を加えられることが多かったという)。また親戚の乃木希典も玉木の教育を受けている。
同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。しかし松陰は処刑され、その監督不行き届きにより万延元年(1860年)11月に代官職を剥奪されている。
文久2年(1862年)に郡用方として復帰し、文久3年(1863年)からは奥阿武代官として再び藩政に参与し、その年のうちに当役(江戸行相府)に進む。藩内では尊王攘夷派として行動し、毛利一門家厚狭毛利家毛利親民の参謀を兼ね、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では萩の守備に務めた。
明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼と門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で11月6日に先祖の墓の前で自害した。享年67。その跡は正誼の子、正之が相続した。
引用元:「玉木文之進」(2023年8月10日 (木) 02:52 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
玉木 正誼(たまき まさよし)
幕末の長府藩・長州藩士。陸軍大将・乃木希典の実弟。松下村塾の創立者玉木文之進の養子。養父・文之進は吉田松陰の叔父であり師である。
生涯
嘉永6年(1853年)、長府藩士・乃木希次の四男として江戸の長州上屋敷にて生まれたが、慶応2年(1866年)に後述の理由により、元服時に玉木文之進正韞の養子となる。
明治2年(1869年)、玉木文之進により松下村塾が再開されるとその補佐を行う。明治7年(1874年)、文之進の甥であり吉田松陰の実兄にあたる杉民治の長女・豊子を娶る。
明治9年(1876年)、萩の乱に首謀者・前原一誠の参謀として参加する。明倫館にて在校生有志を募り、殉国軍第一大隊を結成し、松下村塾生らを第二大隊とした。10月31日、橋本橋の戦闘で戦死した。享年24。
引用元:「玉木正誼」(2021年10月28日 (木) 15:31 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
親しい親族を二人も亡くし、精神的に弱ってしまった乃木は、東京に移ってから柳橋や新橋、両国の料亭への放蕩が激しくなり、お酒に溺れるようになります。
心配した母親の寿子は、乃木に静子との結婚を薦めます。
1878年(明治11年)10月、10歳年下の、旧薩摩藩藩医の娘 静子と結婚します。
しかし結婚後も立ち直る事はできませんでした、新しい家庭をおろそかに、荒れた生活を続けていました。
1883年には、東京鎮台参謀長に任じられ、この間、長男・勝典、および次男・保典が誕生します。
1885年(明治17年)5月に最年少の35歳で陸軍少将(歩兵第11旅団長)に昇進します。
1887年には政府の命令により、ドイツへ留学することになります。
ドイツの留学より帰国後、ドイツ陸軍での全貌を学び、軍紀の確保や軍人としての徳義が非常に重要であると記載した復命書(命令に対する報告書のようなもの)を陸軍大臣 大山巌に提出しました。
この後、ドイツで学んだ、軍紀・綱紀粛正、軍人教育を自らも従います。
留学前に足繁く通っていた料理茶屋・料亭に行くことを止め、質素な生活に徹していきました。
日露戦争開戦 旅順へ
1904年日露戦争が始まります。
日露戦争に日本が勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満州との間の補給路の安全確保が不可欠であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるためには旅順艦隊を完全無力化にすることが不可欠でした。
乃木は、陸軍第3軍司令官として、難攻不落と言われていた旅順要塞の攻略へ出陣します。
乃木と陸軍第3軍に課せられた使命は、
①当時、世界最強と称されたロシアのバルチック艦隊が、バルト海から回航して旅順へ到達するより前に、旅順要塞を攻略し、旅順艦隊を無力化すること。
②攻略後は北の第一軍と合流し、ロシア陸軍の主力との会戦となる奉天へ、できるだけ多くの兵を引き連れ、駆けつけることでした。
奉天会戦(ほうてんかいせん)
1905年2月21日から3月10日にかけて行われた、日露戦争における最後の大規模な会戦である(日露戦争において最後の戦闘は樺太の戦いとなる)。
奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満洲の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。
引用元:「奉天会戦」(2023年3月1日 (水) 04:29 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
しかし、旅順要塞へ3度に渡り総攻撃を行いますが陥落させることはできませんでした。
旅順要塞の遺構と要塞内部 引用元:「旅順要塞」(2023年7月25日 (火) 13:20 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
旅順要塞
遼東半島先端部の旅順にあった要塞。近代において旅順軍港は清帝国、ロシア帝国、大日本帝国、中華人民共和国に利用され、その軍港を防衛するための拠点として旅順要塞は建設・運用された。
引用元:「旅順要塞」(2023年7月25日 (火) 13:20 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
旅順要塞は「永久要塞」と言われており、厚いコンクリートで築かれた要塞で、当時の銃や大砲では破壊することが難しいと言われていたそうです。
また、要塞の内部には坑道が作られており、移動しながら攻撃や守備ができる構造になっていました。
更に旅順要塞に設置されていた、当時の新型兵器、機関銃は、日本軍の得意としていた「突撃攻撃」を無力化し、要塞は敵なしの状態でした。
乃木は得意とする正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し、相手を消耗させる作戦で勝利出来ると確信していました。しかし、ロシアの新型兵器の機関砲を配備した要塞を相手に成すすべがなく、延べ15万人の兵力を投入し、そのうち約6万人が死傷。戦死者が1万5,000人を超えました。
その頃、ロシアの世界最強と称されていたバルチック艦隊が、日本の戦略を阻止するためウラジオストク港を目指し、バルト海沿岸の都市リバウ軍港を出航していました。
日本海軍でも連合艦隊司令長官 東郷平八郎が率いる連合艦隊を、旅順港の閉鎖と迫りくるバルチック艦隊をウラジオストク港へ辿り着く前に迎撃すべく出向していました。
連合艦隊がバルチック艦隊を撃破するためには、旅順港周囲の旅順要塞を1日も早く陥落させる必要があり、日本海軍より、陸軍へ毎日矢継ぎ早の催促があったそうです。
二零三高地の死闘
旅順要塞を早期に陥落できる楽観視していた陸軍内部においては、徐々に乃木に対する非難が高まっていきます。
一時は乃木を第3軍司令官から更迭する案も提案されました。
しかし、乃木のことをよく知る明治天皇が御前会議において、「それはならぬ。もし途中で代えたら、乃木は決して生きていないだろう」と真っ向から反対します。
更に、御前会議の席で「203高地を優先して攻略する」という戦略が決定します。
明治天皇のお心遣いを知った乃木は感激し、残り少ない兵を203高地への総攻撃に切り替えました。
作戦変更した乃木軍に天運も味方をします。ロシア軍のクロパトキン総司令官は日本軍の兵力と戦略を錯覚し、退路を断たれることを憂慮し自ら退却を始めます。
形勢は一気に日本軍へ傾きます。
1905年1月1日、要塞正面を突破され、予備兵力も無くなり、抵抗は不可能になった旅順要塞のステッセル司令官は、乃木に対し降伏書を送付しました。
これを受けて1月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落します。
乃木は、敵将ステッセルに対し極めて紳士的に接しました。さらに乃木はステッセルに帯剣を許し、一緒に酒を酌み交わして打ち解けます。
また乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず、「後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ」と会見写真は一枚しか撮影させず、ステッセルらロシア軍人の名誉を重んじます。
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」では、児玉源太郎が直接指揮を執り203高地を攻略したことになっている。乃木の友人である児玉の協力を得たことは考えられるが、司馬遼太郎の小説のようなことが実際に起きれば、明治天皇のお言葉通り、乃木はその場で自刃していただろう。司馬は乃木の武士道の本質を見抜けなかったのか、乃木を愚将として描いている。
乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加しました。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進します。
第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けますが、進撃を止めませんでした。
こうした第3軍の奮戦によって、ロシア軍の総司令官 クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上と誤解します。
さらに、第3軍によって退路を断たれることを憂慮し、日本軍に対して優勢を保っていた東部および中央部のロシア軍を退却させてしまいます。
こうして形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利します。
日本への凱旋
旅順要塞を半年あまりで攻略。
奉天会戦に勝利。
乃木の凱旋は他の諸将とは異なり日本国民が大歓迎しました。
新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じました。乃木を歓迎するムードは高まっていました。
しかし、乃木は、旅順攻囲戦において多くの将兵を戦死させた自責の念から、「戦死して骨となって帰国したい」、「日本へ帰りたくない」、「守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい」、などと述べ、凱旋した際に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断りました。
東京に到着後、乃木は直ちに宮中に参内し、明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読します。
「今回の戦いで、多くの兵を失った責任は、この場で割腹して詫びたい」
復命書を読み上げるうち、乃木のまぶたから涙が溢れ出ました。
しかし明治天皇は、「乃木の苦しい心境は理解した、だが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にしてくれ」という趣旨のことを述べられます。
学習院院長就任
1907年、裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学するため、明治天皇は乃木を学習院の学院長に指名します。
乃木は、戦争で自身の子供を亡くしており、「生徒を自分の子供だと思って育てるように」と述べ学院長を命じたと言われています。
乃木は当時の学習院の校風を変革し、全寮制を導入して寄宿舎を建てます。
生徒と共に学び、ともに寝食を共にすることで、生徒の細部にわたっての指導を行いました。
乃木は自宅へはほとんど帰ることなく、学習院の生徒と共に寄宿舎に学習し生活しました。
生徒ひとりひとりに声をかけ、しっかりと話すことを心掛け、時々冗談を言って生徒を笑わせました。
多くの生徒に敬愛され、親しまれた学院長生活を過ごします。
昭和天皇は後に、「自身の人格形成に最も影響があった人物」として乃木の名を挙げて評価されました。
明治天皇と命を懸け交わした約束
1912年(明治45年)7月30日午前0時43分 明治天皇 崩御されます。
旅順から帰京し、明治天皇と交わした約束。
「自刃するなら朕が死んでからにしろ」!!
乃木は密かに行動するため準備を始めました。
9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し熟読するよう告げます。
裕仁親王は乃木のただならぬ気迫に、いつもとは異なることに気づきます。
「院長閣下はどこかへ行かれるのですか」と裕仁親王は乃木に尋ねます。
乃木はそれを聞いた瞬間。瞼から大量の涙が溢れました。
これが乃木の最後の講義となりました。
1912年9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日 20時頃、赤坂にある自宅で、乃木夫妻は自刃します。
享年64歳 最後まで明治天皇との約束を守り、明治天皇の崩御された後、殉死したのです。
乃木の遺書には「遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく」と書かれており、決して乃木は妻・静子を道連れにしたのではありませんでした。
静子が自ら夫乃木希典との殉死を選んだのです。
乃木希典は愚将か賢将か
乃木将軍の功績は、秋月の乱を鎮圧、西南戦争の功績、台湾征討と台湾総監に就任、旅順要塞の陥落、など明治維新後の戦争において、多くの功績を残しました。
しかし乃木将軍自身は成果を決して評価せず、認めませんでした。
連隊旗を奪われたこと。台湾統治は不成功に終わったこと。日露戦争では多くの将兵を死なせたことを常に恥じていました。
また、乃木は私財を投げ売り、職務の合間に、時間を割いては全国の遺族、傷を負った兵士を訪ね、見舞うことを続ける日々を送りました。
ここまで配下の兵や遺族を思い、行動した将校は他に居たでしょうか。
旅順攻囲戦に従軍した兵は後年
「乃木のために死のうと思うことはなかったが、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」
と語っています。
乃木の人柄は、旅順を攻略する原動力となっていたと考えられます。配下の兵は乃木を信じて戦いました。
明治天皇を始め、多くの兵から慕われた乃木将軍は、慈愛溢れる人柄こそが最大の魅力であり、弱さであったと思います。
戦争の生死の中でこの弱点がクローズアップされ愚将と評価されたのかもしれません。
しかし私は、乃木将軍は「武士道を貫いた慈愛の名将軍」であったと高く評価しています。
辞世の句
「うつし世を 神去りましゝ大君の みあと志たひて我はゆくなり」
陛下は崩御されてしまった。 後を慕い 我もゆくなり。
合掌
9月18日、乃木夫妻の葬儀が行なわれた。
午後3時赤坂の自宅を出棺、青山斎場に於て神式の葬儀を執り行なった。午後2時半にラッパの合図第1声とともに、前駆並びに花旗の行列を整え、第2声で大将の棺を載せた砲車、及び夫人の棺を載せた馬車の出発準備に取り掛かり、葬儀係はいずれも行列位置についた。
次ぎに会葬者一同出発準備をして、第3声「気を付け前へ」の合図とともに行進が始まった。
午後4時、祭式が始まり、4時25分、道路に整列した1個連隊の儀杖兵は、「命を棄てて」のラッパの吹奏を終えて、一斉に銃口を天に向け3発の弔銃を発射した。
午後5時頃より一般会葬者の参拝が始まった。葬儀委員の3名は椅子に登って「礼拝が済みますれば、すぐにご退出を願います。後がたくさんでございますから、何とぞ早くご退出を願います」と声をからしながら叫んだ、しかし棺前で泣き伏して棺の前を去らない人もいた。5時45分には、一般の参拝を差し止めたがなかなか人は減らず、なかには白髪の老人が懐から祭文を取り出し、涙を流しながら朗読し始めた。委員が「ご祭文はそこに置いてください」といっても聞き入れないというひと幕もあった。
引用元:お葬式プラザ 死の総合研究所 「乃木大将夫妻の葬儀」
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。