千葉県市川市真間には悲しい伝説が残っています。手児奈という大変美しい女性の伝説です。
まだ市川が海だった頃の伝説
聖徳太子が行きていた頃の飛鳥時代、関東の利根川は下総の内海(現在の東京湾)に流れ、千葉県の市川辺りがまだ海だった頃のお話です。
当時の千葉県はまだ奈良の都や天皇の勢力が弱く、地元の豪族が勢力を振るっていたことが考えられます。

むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、しょうぶやアシがいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、のみ水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、きれいな水がこんこんとわきだしていました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青いえりのついた、麻のそまつな着物をきて、かみもとかさなければ、はき物もはかないのに、上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しくみえました。
井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔やすがたを写してみますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
「手児奈が通る道のアシはね、手児奈のはだしや、白い手にきずがつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、
「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、かみにかざる玉も思いのままじゃ。」
「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。そのようすは、夏の虫があかりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
といいながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈のなみだも小川に落ちて流れていきました。
手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
真間の「手児奈霊堂」は、この手児奈をまつったもので、いまでは、安産の神さまとして、人びとがおまいりにいきます。
また、手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。
引用元:「市川のむかし話」市川民話の会/編 より
行 基
まだ日本では仏教が広まる前、まだ里人は八百万の神を信じ、豪族の守護の下、貧しいながらも平和に暮らしていました。
ここ真間山 弘法寺(ままさん ぐほうじ)は、奈良時代 天平九年(737)行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、 里の娘「手児奈」の哀話をお聞きになり、 いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われた。 それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(822)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、 求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、「求法寺」を「弘法寺」と改称された。
引用元:真間山 弘法寺
行基(ぎょうき/ぎょうぎ)
668年(天智天皇7年)~誕生 飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧。
民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備した。
引用元:ウィキペディア(Wikipedia)「行基」
伝説の地へ訪問
悲しい伝説の真相を求めて「手児奈神霊堂」を訪問してきました。
周辺の道路は対向車が来るたびに行き交うのが大変な狭さで、Uターンする場所がなく、何度もぐるぐる回りながら近くにのコインパーキングを見つけ訪問してきました。車で訪れる際はご注意ください。
住宅街の中にひっそりと佇む「手児奈霊神堂」境内は小学生が遊び、地域の人々の憩いの場になっていました。

手児奈霊神堂参道を右手にまっすぐ進むと「弘法寺」へ続く道で、その先に石段があります。

今回は手児奈霊神堂を目指し進みます。参道の両側はすでに住宅が建っています。

参道の正面に手児奈霊神堂があります。
扉を開けて堂の中に入ることができます。

堂の中には、弘法寺から僧侶さんが参られて、子どものお守りや安産のお守り、御札などが授与されていました。

奥には美しい観音様のような像が祀られていました。合掌

水汲みの井戸
手児奈霊神堂の道を隔てた反対側に亀井院があります。ここには手児奈が水汲みをしていたと言われている井戸があります。


訪問したときは、お寺は皆ご不在のようで、井戸を見ることができませんでした。
市川観光協会様のHPに井戸の写真が掲載されていましたのでお借りしました。

まとめ

美しすぎたことが災いし、多くの男性から言い寄られ。誰かのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうという思いに悩んだ手児奈は、真間の入江まできたとき、夕日が海に落ちようとしていたのを見て、「私がいなければ、喧嘩もなくなるでしょう。」と一人海へはいっていきました。


翌日、浜に打ち上げられた手児奈の亡骸を見て、自分の嫁にしようと争っていた男たちは、大変悔み、なげいたそうです。
里人は、手児奈を井戸のそばに手厚く埋葬したそうです。
その後、行基がこの地に訪れた際、手児奈の悲話を耳にされ、お堂を作り、手厚くその霊を弔われたそうです。

その後、「求法寺(ぐほうじ)」と名づけられ、その後、空海(弘法大師)が「弘法寺」と改称されたそうです。
その後、鎌倉時代に入り、日蓮聖人に弘法寺は引き継がれてきました。
しかし、手児奈を祀るために建立された求法寺ですが、多くの里人から神として手児奈は扱われたため、弘法寺が建立された後も、大明神として神式で祀られていたそうです。
上図「利根川東岸一覧」にも、手子女大明神と記されたお堂と手前には鳥居が描かれています。
また、手児奈の悲話は万葉集などで知られているとおりです。
古に 在りけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて 伏屋立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂りたるらむ 松の根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我れは 忘らゆましじ 山部宿禰赤人
昔、このあたりに住んでいた男が、倭文織りの帯を解きあい、 寝所をしつらえて、共寝をしたという葛飾の真間の手児名のお墓は、
ここだと聞くけれど、真木の葉が茂り、 松の根がのびて、長い年月がたったせだろうか、その場所もよくわからないけれども、手児奈の名前だけは、私はとても忘れることはできない 山部赤人

今回は手児奈さんの悲しい伝説をご紹介しました。この話は1400年も前の話ですが、現代でも地域の住民に語られ、手児奈霊神堂(弘法寺)も地元の住民に大切にされて残されています。
手児奈の思いは「手児奈霊神堂」に残され、現代の男女にもお互いに思いやる気持ちの大切さを授け、恋愛成就、安産、子ども守護神として語り継がれて行くことでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
真間山弘法寺ホームページ
市川市観光協会
ウィキペディア(Wikipedia)「行基」
「市川のむかし話」市川民話の会/編 より
歌川貞秀筆『利根川東岸一覧』船橋市西図書館蔵より抜粋
千葉県立博物館 昔の利根川より