山極勝三郎は東京大学医学部を卒業し、病理学者として活躍しました。彼は人工的にがんを作り出す方法を発見し、癌研究の世界的先駆者となりました。
もし選考者達に人種的偏見がなければ間違いなくノーベル生理学医学賞を受賞できたと言われています。
生い立ち
信濃国上田城下(現在の長野県上田市)に上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれる。
同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指しました。
1880年に東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、卒業時は首席という成績を残します。
1891年に東京帝大医学部助教授となります。
1892年からドイツに留学します。帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。特に癌研究では日本の第一人者でした。
しかし山極勝三郎の人生には苦難の連続が襲います。その苦難に負けず生き抜いた山極勝三郎の壮絶な人生を紹介します。
苦難・苦難・苦難の連続
東京大学医学部予科に通うなか、1884年、山極吉哉の長女、包子(かねこ)と結婚します。
東京大学医学部を首席という成績を残して卒業しますが、この間に父親、政策が他界し。生まれて間もない長男、一郎が病死してしまいます。
東京大学を卒業した勝三郎は大学の病理学教室の助手になり医学の研究を続けます。
そして、1892年、文部省からの推薦も有り、ドイツに留学します、そしてコッホやフィルヒョウに師事して医学を学びます。
ロベルト・コッホ
またはハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch、1843年12月11日 – 1910年5月27日)は、ドイツの医師、細菌学者。当時は細菌学の第一人者とされ、ルイ・パスツールとともに、「近代細菌学の開祖(細菌学の父)」とされる。
炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者である。純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立した。寒天培地やペトリ皿(シャーレ)は彼の研究室で発明され、その後今日に至るまで使い続けられている。
また、感染症の病原体を証明するための基本指針となる、「コッホの原則」を提唱し、感染症研究の開祖として医学の発展に貢献した。
引用元:「ロベルト・コッホ」(2023年12月11日 (月) 02:37 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
ルードルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ
(Rudolf Ludwig Karl Virchow、発音[ˈvirço] / [ˈfirço]、1821年10月13日 – 1902年9月5日)は、ドイツ人の医師、病理学者、先史学者、生物学者、政治家。白血病の発見者として知られる。姓は「ウィルヒョー」「ヴィルヒョー」 「ウイルヒョー」「ウイルヒョウ」などと表記することもある。
引用元:「ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ」(2023年12月24日 (日) 04:38 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
日本に残った妻の包子は多くの借金と生活苦に、山極父母の所に帰り生活しますが、家計はますます苦しくなります、更に借金取りが毎日押し寄せる日々が続きました。
妻の包子は内職をして働き借金を返済していきます。
1895年、ドイツから帰国後に東京帝大(東京大学の名称が変わった)医学部教授に就任します。借金と貧しい生活でしたが、次男が生まれ、長女も誕生し家族は幸せな生活を送くります。
しかし、幸せな暮らしは一時だけでした。
1898年3月、近隣に火災が発生。勝三郎の自宅も延焼し焼失してしまう災難が生じました。
この火災で当時8歳であった長女の春子が亡くなってしまいます。
この時、勝三郎は、研究発表会に出席していました。
「家が火事で焼け、長女が亡くなった」という連絡を受けた勝三郎は、気が動転し驚きましたが、死んでしまったものは生き返らないと、課題の研究発表を無事に果たし、家に駆けつけたそうです。
長女の春子、次男の二郎が生まれ、10年前に亡くした長男の悲しい記憶や思いが薄らいでいた時に、再び長女、春子を失う悲しい出来事が起き、再び悲しみのどん底に突き落とされてしまいました。
精神的に悲しみからまだ立ち直れない勝三郎に今度は病魔が襲います。
1899年2月に結核を発病します。
勝三郎は医学を研究する立場から、周囲への感染を一番恐れました。
当時はまだ薬のない時代でしたので、喀血や、痰に血が混じると、包子夫人の献身的な介護を受け、静かに日々を送りました。
実家を襲う苦難
苦難の連続が続く中、勝三郎にはさらなる苦難が襲います。
1903年、実家の山本家の長男夫妻や次兄夫妻が次々と病死してしまい、年老いた母親と二人の兄の子供達が残されました。
家や土地を売払い、実母は家を借り、残された兄の子どもたちを引き取り、内職で細々と暮らしを立てていました。
勝三郎は実母と兄の子供達を東京に呼び寄せ、面倒を見ることにしました。
家計の支出は重なる一方で、弱り目に祟り目の状態でした。しかし、勝三郎はへこたれませんでした。病理学研究への執念が一層強くなったそうです。
勝三郎の研究
人工癌の研究以前に胃癌の発生、および肝臓細胞癌についての研究を行っていました。そこで勝三郎は「環境がガン細胞を作る」と言い、特定の癌化する細胞があるのではないと述べています。
当時、癌の発生原因は不明であり、主たる説に「刺激説」「素因説」などが存在していたそうです。
勝三郎は煙突の掃除夫に皮膚癌の罹患が多いことに着目して刺激説を採り、実験を開始します。
その実験はひたすらウサギの耳にコールタールを塗擦し続けるという地道なもので、勝三郎の実験を手伝う助手は殆どいませんでした。
新しく就任した助手の市川厚一と共に、実に3年以上に渡って反復実験を行いました、そして1915年にはついに人工癌の発生に成功します。
幻となったノーベル賞
1920年代において、勝三郎による人工癌の発生に先駆けて、デンマークのヨハネス・フィビゲルが寄生虫による人工癌発生に成功したと報道されていました。
当時からフィビゲルの研究は一般的なものではなく、山極勝三郎の研究こそが癌研究の発展に貢献するものではないかという意見が多く存在していたにもかかわらず、1926年にはフィビゲルにノーベル生理学・医学賞が授与されてしまいます。
現在、人工癌の発生、それによる癌の研究は山極勝三郎の業績に拠るといわれています。
ヨハネス・フィビゲル
デンマーク中部オーフス県のシルケボア(Silkeborg)に生まれる。コペンハーゲン大学医学部を1890年に卒業後、ベルリンに留学し、ロベルト・コッホやベーリングについて細菌学を学ぶ。
1900年、デンマークに戻りコペンハーゲン大学病理解剖学教授に就任、1926年には総長となった。ノーベル生理学医学賞を受賞したのも同年である。1928年コペンハーゲンで死去。
フィビゲルは1907年にネズミの胃癌を比較研究している際、線虫の一種を発見した。この線虫はネズミのえさとなっていたゴキブリを宿主として広く分布しているものであった。胃に異常が認められないネズミに線虫が寄生したゴキブリを与えると、高い確率で胃癌を発生することを確認した。フィビゲルは1913年、世界で最初に人工的にがんを作り出したことになる。ついでネコに寄生する条虫を用いて、ネズミに肝臓肉腫を起こすことにも成功した。
当時はウィルヒョーの反復刺激説が議論されており、フィビゲルの仕事はウィルヒョー説の有力な証拠とされた。しかし1952年アメリカミネソタ大学のヒッチコックとベルは、ビタミンA欠乏症のラットに線虫が感染した場合にフィビゲルの報告したような病変がおこることを報告し、さらにフィビゲルの診断基準に問題があり、フィビゲルが使った標本を見直しても、ヒッチコックら自身の実験の標本でも、悪性腫瘍の像はないことを証明した。現在、フィビゲルがノーベル賞を受賞した寄生虫発癌説は、誤りであったと考えられている。
引用元:「ヨハネス・フィビゲル」(2023年4月18日 (火) 01:35 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
勝三郎は1925年、1926年、1928年と没後の1936年の4度、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされますが、ノーベル賞を受賞することはできませんでした。
その大きな要因は研究成果ではなく「人種差別」が当たり前のように行われていた時代だからこそ選考員は日本人を受賞させませんでした。本当に残念です。
日本人としては、第1回ノーベル賞から北里柴三郎や野口英世などが候補に挙がっていたが、いずれも受賞者には選ばれなかった。北里に至っては、共同研究者であったベーリングが受賞したにも拘らず、抗毒素という研究内容を主導していた北里が受賞できないという逆転現象が起こっていた。
世界初のビタミンB1単離に成功した鈴木梅太郎は、ドイツ語への翻訳で「世界初」が誤って記されなかったため注目されず、1929年のノーベル賞を逃した。
脊髄副交感神経の発見で1930年代に6度ノーベル賞候補となるも受賞を逃した呉建など日本人は1949年 湯川秀樹が受賞するまでは、なんだかんだと理由がつけられた裏では人種差別が影響していたようである。
ノーベル賞の選考に携わったフォルケ・ヘンシェンは、1966年10月に東京で開かれた国際癌会議の際に行った講演で来日し、ノーベル賞選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々と為されていたことを明かしている。
引用元:「山極勝三郎」(2023年11月16日 (木) 04:04 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
山極勝三郎は、関東大震災が発生したその年に帝大を定年退官します。
しかし、退官後名誉教授になっても、教室に出て亡くなるまで研究を続けました。
また晩年は、奥様と朝顔の栽培にも熱中されたそうです。
1928年、ドイツからノルドホフ・ユング賞を受賞。
1930年3月2日、勝三郎は肺炎で逝去します。享年68歳。
ドイツ留学の3年間を除いて、学者としての全生涯を東大医学部病理学教室にて過ごしました。
日本の病理学者。元大阪大学総長の釜洞醇太郎はこう語りました。
山極勝三郎先生の生涯をキーワードで表すと、清貧、結核、癌研究の三つになるであろう。
「およそ明治以来の学者で先生ほどの苦難にあわれた人が他にあるでしょうか。試練というにはあまりにも長く、またあまりにも悲惨でした。」
山極教授の研究の成果、そして波乱万丈の人生に心から拍手を送ります。本当にお疲れ様でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。