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御岩神社から御岩山山頂(かびらの高峯)へ登拝 最強パワースポットの御岩山を巡る第二弾!!

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宇宙から見た日本 パワースポット

御岩山神社の本殿参拝は、前回紹介しました。

今回、参拝できなかった御岩山神社本殿から表参道を登り、御岩山山頂へ、賀毗禮高峯からの絶景を眺め、山頂に鎮座されている多くの神宝を登拝し、多くのパワーを頂いてきました。
見落としてしまったところもあるとかと思いますが、できるだけ細かくカメラに納めてきましたので、ご紹介します。

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御岩山への表参道

大きなエネルギーが宿る御岩山
その歴史は縄文時代から数多くの神仏を迎え入れた信仰の聖地です
御岩山から吹き出ているパワーのお力にあやかろうと多くの人々が訪れています。
御岩神社 拝殿

御岩神社拝殿の右に行くと裏参道へ、参集殿前を通り裏に回ると表参道への参道に入ります。
下案内図は御岩神社で配布している案内図です。

案内図 引用元:御岩神社HPより

今回の登拝は、表参道から登り、賀毗禮神宮(かびれ神宮)を参拝して御岩山頂へ登拝し、裏参道を下り、途中の薩都神社中宮を参拝して来ました。

表参道の入口付近、登拝のルールが記載されています。

入山の心得
①登拝ルートの厳守
②雨天時、積雪での入山禁止
③午後3時以降の入山禁止
④登山の装備(軽装備可)
⑤動植物や石の採取禁止
⑥火気厳禁、ゴミ投棄禁止
⑦食事禁止

この他にも ・供物の放置禁止。 ・ペット禁止。 ・サンダル禁止。 乳児連れの登拝禁止。があります。

重要 山中にはトイレがありません。必ず事前に済ませておくようにと書かれています。

「キジ撃ち」や「お花摘み」などと言って、山中でトイレを済ませれば良いと安易に考えてはいけません。御岩山にはとても怖い伝説の神様が祀られています。

御岩神社の境内に掲示されている「常陸國風土記」

『常陸國風土記』(ひたちのくにふどき)
奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。
引用元:「常陸国風土記」2021年6月20日 (日) 03:58『ウィキペディア日本語版』

常陸國風土記の抜粋
東の大きな山を、賀毘礼の高峰という。ここには天つ神がおられ、名を立速日男命(たちはやひ をのみこと)と申し上げ、またの名は速経和気命である。もとは天より降られて、すぐに松沢の松の木の八俣の上にお鎮まりになられた。
この神の祟りは非常に厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち災いを下し病にならせたという。このため付近の住民は常に苦しみ困り果て、その状況をつぶさに朝廷に申し上げたところ、片岡大連を遣わされて、謹んで祈り奉り「今おられるところは、民が近くに住んでいるので、いつも不浄でございます。居られるには相応しいところではありません。どうかこの様な地からお移りなられて、高い山の清浄な場所にお鎮まりください。」と申し上げた。神はこの願いを聞き届られ、遂に賀毗禮の峰にお登りになられた。

翔びくらげ
翔びくらげ

御岩山での「お花摘み」は絶対に避けましょう!!

参道は真っ直ぐに成長した杉林を抜けて行きます。最初はなだらかの山道ですが、段々と狭く、草木の根が張りでて歩きにくい山道を登ります。

参道の途中には、紙垂 (しで)で清められた聖域が所々にありました。

紙垂(しで)
注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った紙である。単に垂とも表記し、四手とも書く。
玉串・祓串・御幣につけた場合は祓具としての意味だが、注連縄に垂らして神域・祭場に用いた場合は聖域を表す印となる。また、相撲の横綱は、横綱土俵入りの際に紙垂を垂らした綱をつける。
引用元:「紙垂」2020年7月24日 (金) 14:51『ウィキペディア日本語版』

御岩山の下層は、「白亜紀」。上層は「カンブリア紀」のものだそうです。

狭く歩きにくい参道を登っていくと、上の方に屋根が見えてきました。「賀毗禮神宮」です。

賀毗禮神宮(かびれじんぐう)

鳥居を中心に玉垣で囲われ、御神域が区分けされていました。

賀毗禮神宮(かびれじんぐう)
  御祭神
   天照大神(あまてらすおおみかみ)
   邇邇藝命(ににぎのみこと)
   立速日男命(たちはやひをのみこと) 常陸國風土記に書かれていた神様です。

賀毘禮神宮は、かつて岩大権現として知られ、水戸藩の祈願所として定められていました。藩主は代々参拝するのを常例とされていたそうです。

翔びくらげ
翔びくらげ

賀毘禮神宮周辺は、特に神秘的な雰囲気を持つ場所です。訪れる人々に静寂と神聖な気配を感じさせてくれます。深呼吸をすると登ってきた疲れも半減します。
ぜひ訪れてゆっくりと休憩してください。

山頂を目指す

賀毗禮神宮から少し登ると、裏参道への参道と、頂上への参道の分岐に着きます。

きつい登りを抜け頂上への岩場のルート(以前はここを登った?現在はロープが張られ立入禁止)を右手に見ながら頂上を取り巻く参道を行きます。

しばらくゆるい登り坂を登っていくと、向陽台方面へ抜けるルートの分岐に出ます。

あとは山頂を目指しひたすら登ります。

御岩山山頂(賀毗禮の高峰)

山頂に着くと絶景が広がります。感動と達成感で、登ってきた疲れを一気に忘れることが出来ます。

山頂で深呼吸をすると、空気が濃く感じました。普通は高いところに登ると酸素が薄くなるのですが、濃いというか、御岩山のパワーでしょうか?

賀毗禮之高峯と書かれた立て札

山頂で登ってきた参道をUターンするように進むと御岩神社御神体(石柱のあるお宮)があり、山頂の更に奥に進むと大きな岩(磐座)と思われる場所があります。

磐座 天の岩戸!?

大きな岩(磐座)があります。古代人はこの大岩を磐座として、神へ願いと感謝の祈りを捧げ、修験者は修行をされたている姿が、時空を越えて頭に思い浮かびました。

この大きな岩の左側を進むと、残念ながらロープが張られ通行止めになっていました。この先に「天の岩戸」があるそうです。残念ながら先に進めないので、探索を諦めます。

大岩を右回りに回ると、こちら側もロープが張られ立入禁止になっており、先に進めないようになっています。
ロープの向こう側に、山頂で一番のパワーを放つと言われる、「願いが叶う赤い石」が見えます。

「願いが叶う赤い石」のクローズアップして撮影しました。

この赤い石を触ろうとして、滑落する事故が多発しているため、日立市役所で安全のためロープを張り立入禁止にしているそうです。

みんなが石を触るため赤く磨かれているとも言われています。
磐座の下にある赤い心臓のような石は、御岩山の心臓のようなものではないでしょうか。

私は「磐座の下の心臓石」と考え、この山に祀られている立速日男命の気が一番多く宿っている石ではないかと思いました。

この石も十分パワーが溢れていますので、手をかざすだけで十分パワーがもらえますので、直接触るのはやめましょう。

御岩神社御神体(石柱のあるお宮)

登ってきた参道方向に少し戻り、上の写真の人がいる方向に下ると、お宮と石柱があります。

石祠とその後ろの石柱は、「立石」と呼ばれているそうです。

東京都葛飾区の立石の地名になった「立石さま」という古代から伝わる石と同じ名前ですが、なにか繋がりがあるのでしょうか。

この石祠に常陸國風土記に書かれていた立速日男命が祀られています。 

この立石から放つ光が宇宙から見えると言われています。数年前にこの立石を触るとパワーが貰えるとか、抱きついて全身にパワーをもらおうとした人がいたそうです。

強力なパワースポットということだけを聞き、興味本位で訪れる人が多いとも聞きました。

神聖な御神宝に直接触れるという罰当たりの行為は、先に書いた小便をかけることとあまり変わらない行為と私は思います。

現在は、紙垂と注連縄で聖域を設け、立入禁止になっていますが、最低限、神様に対するマナーを理解され、祀られている神様をよく知り、その神様を敬い、心から感謝の気持ちで参拝したいと思います。

佐竹家墓所

山頂から下山し、表参道と裏参道の分岐を裏参道に下ります。
最初は、裏参道のほうが歩きやすいと思っていると、急斜面で、ぬかるんでいる山道になります。
登りもきつかったですが、下りも足元が滑り非常に歩きにくい道をひたすら下ります。

裏参道を下っていくと、右脇に小さな祠と多数の供養塔が見えてきます。

佐竹家の墓所です。

所々紙垂と新しい塔婆が見られ、多少なり供養されているようですが、長年に渡りこの地を納めてきた豪族の墓所としては、寂れている気がします。

関ヶ原の後、佐竹氏から徳川の支配下となり、忘れ去られた墓所のようです。

佐竹氏(さたけし)
武家・華族だった日本の氏族。清和源氏の源義光の孫昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称したのに始まる。平安時代末に平家に属して源頼朝に抵抗したので勢力を落としたが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復。戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国にまで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏や伊達氏と争った。豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで1602年に秋田20万石に減封された。戊辰戦争では官軍に属して戦い、維新後には侯爵に列せられた。
引用元:「佐竹氏」2023年11月28日 (火) 08:11『ウィキペディア日本語版』

三宝荒神

佐竹墓所の一番奥、三本の高木(御神木?)に囲まれるように「三宝荒神」の祠が設置されていました。

祠はまだ新しく、建立後数年といった所でしょうか。

多分古い祠から新しい祠に建て替えられたと思います。

佐竹家墓所を鎮めるように祀られているのは、古に隠された何かを思い、「三宝荒神」そして佐竹家の供養塔に手を合わせました。(合掌)

三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)
日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神である。
像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。日本古来の荒魂(あらみたま)に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道、密教、山岳信仰などのさまざまな要素が混交して成立した。
神格化された聖徳太子であり、十七条憲法の「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧これなり」に基づいたもの。仏法僧の三宝を守護されている神とある。
引用元:「三宝荒神」2024年2月16日 (金) 00:29『ウィキペディア日本語版』より抜粋

薩都神社(中宮)

佐竹家墓所への参道を出て少し行くと薩都神社の鳥居があります。

薩都神社(中宮)は、御岩山に祀られている立速日男命が祀られています。

鳥居はまだ建立されたばかりでしょうか、ピカピカに輝いていました。

小さいながらも、なかなか立派な祠です。この祠も建立後まだ10年は経っていないと思われます。

この祠は中宮と言われています。奥宮が山中にあると言われていますが、今回、見つけることは出来ませんでした。

参考 薩都神社は下記にもあります。
賀毘礼の峰(御岩山)は険しく、参拝するのが困難なため、大同元年(806年)に現在の鎮座地の近くに遷座されたそうです。
そして永正年間(1500年頃)、里川沿岸の佐都郷旧33ケ村の総鎮守として広く信仰され、大永2年(1522年頃)に現在地に移されたと社伝に記載されています。
延喜式内常陸国28社の1つ、久慈郡7座の内2の宮と称えられ、明治6年郷社に列格されました。

現在、薩都神社は上記地図の位置にあり、今でも多くの参拝者があるそうです。
常陸國風土記に書かれていた、立速日男命が降臨された松沢の松の木があった場所は、薩都神社の南「松崎」という地域だそうです。


薩都神社の参拝を終えて、裏参道を下ると御岩山の拝殿まではもうすぐです。

大変お疲れ様でした。思っていた以上に厳しい登山ルートでしたが、御岩山からパワーを頂いたため、あまり苦しむことなく登山し降りてこれました。

翔びくらげ
翔びくらげ

コロナ過で訛った身体で、厳しい御岩山を登れるか心配していましたが、御岩山からパワーを頂き無事に登山出来ました。翌日の筋肉痛もあまり感じることなく、神秘なパワーに感謝しています。

【参考文献】

御岩神社公式ホームページ
「常陸国風土記」2021年6月20日 (日) 03:58『ウィキペディア日本語版』
久慈地方神社総代会ホームページ

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