増田敬太郎は、明治時代に流行した、コレラの防疫に懸命に尽くした唐津警察署の巡査です。
敬太郎がどのようにして佐賀県で肥前町高串地区での初任務を行い、コレラから村を救ったのでしょうか!?
世の中のためになる仕事
1869年(明治2年)8月10日、熊本県合志郡泗水村大字吉富字田中(現・菊池市泗水町)の豪農 増田家の長男として生まれました。
幼少の頃より体格は立派であり、温厚な性格と誰からも好かれる人物でした。
1874年(明治7年)4月に泗水村尋常小学校及び永島益男塾に入り普通学と漢学を、1882年(明治15年)に泗水村の後藤官平塾で数学や測量学を学んでおり、特に数学が得意でした。
1888年(明治21年)に東京へ遊学して法律学、鉱山学、英語、速記術を学びます。
1890年(明治23年)2月、徴兵検査のため帰郷しますが長男であることから免除されます。
その後、 熊本県阿蘇郡馬見原(現・山都町)の用水路整備や北海道開拓事業、地元泗水村での養蚕業などを経て、1895年(明治28年)7月に佐賀県巡査教習所(現在の佐賀県警察学校)へ入所します。
敬太郎は上記の私塾で学業を修めていたことから、一般教養に秀でており、本来3か月かかる巡査教習所の教習課程をわずか10日で習得し卒業します。
そして、世のためになる仕事として選んだのが警察官です。1895年(明治28年)7月17日に佐賀県巡査を拝命し、19日には唐津警察署へ配属されることになりました。
コレラの発生と大流行
1895年(明治28年)、日清戦争終結に伴い外地から兵士が帰還すると全国的にコレラが流行します。この年の患者数は全国で約6万人、死者は約4万人になっていました。
唐津警察署管内でもコレラが発生し猛威を奮っていました。当時、担当していた巡査は病気がちであったため、後任者を警察本部から探していたところ、当時27歳で巡査を拝命したばかりの増田敬太郎が派遣されることになりました。
新人巡査である敬太郎が防疫という大役に抜擢された理由として、通常3ヶ月かかる研修をわずか10日で卒業した優秀さ、伝染病対策に必要な衛生面の知識を有していたこともあり、抜擢されたそうです。
交番赴任の辞令が出された際には、ある警部から「佐賀県警察界にこれ以上の適任者はいない。どうかこの危機を救ってくれないだろうか」と言われたとされています。
敬太郎は巡査を拝命後、交通手段のない山道をひたすら歩き通し、4日後の7月21日に佐賀県東松浦郡入野村高串(現・佐賀県唐津市肥前町高串)へ到着します。
現在の地図を見ても鉄道駅から遠く、バスに2回の乗り換えが必要です!
初仕事はコレラとの死闘
敬太郎は区長と相談の上で「コレラ感染を防ぐには、一刻も早く患者と健康な人との接触を断たなければならない」と対策を講じ、発症者の家には縄を張り巡らせて消毒の上で人の往来を禁じました。
また、住民には生水を飲まない、生で魚介類を食べないなど厳しく指導して回りました。
中には薬を飲んでから亡くなった発症者もいたことから患者に毒を飲ましていると誤解して「毒薬なんか飲まない」と言う発症者もいましたが、敬太郎はその患者にも根気よく説得し続けました。
感染を恐れて発症者の遺体運搬が拒まれていることを見かねて、敬太郎自身で遺体を消毒し、むしろで巻き、海岸から船で対岸まで運び、遺体を背負いきつい傾斜の坂道を上り、丘の上の墓地に埋葬しました。
敬太郎の手厚い看病や感染予防活動に全身全霊で取り組む姿に、人々は次第に心を打たれました。
命を賭した4日間の勤務
高串に赴任して3日目、不眠不休で働いたためか、敬太郎の疲れ切った体にコレラが容赦なく襲います。
4日目には敬太郎の身体は衰弱していました、看病に出向いた老人に「絶対に私には近づかないように。」と伝え、気づかいを怠りませんでした。
村の評議員が見舞いに出向いた時には「私はもう回復する見込みはありません。高串のコレラは私が背負っていきますから御安心下さい。十分にお世話せねばならぬ私が大変御厄介になりました。人々には私が指導したように看病と予防を怠らずに続けるように伝えてください。」と依頼します。この言葉が敬太郎の遺言となりました。
7月24日午後3時 わずか勤務4日目で敬太郎はコレラに感染し亡くなります。
敬太郎の遺言通りに、猛威を振るっていたコレラは終息し、再び発症する村人はいませんでした。
村に到着してわずか4日で亡くなってしまいますが、その4日間で村人に絶大な信頼を得る敬太郎さん。何十年も政治家をしても信頼が得られない多くの政治家がいますが、現在の新型コロナ感染時、このような人がいたらコロナ感染はどうなっていたでしょうか。
7月26日、高串港からそれほど遠くない小松島で敬太郎の亡骸は荼毘に付され、翌27日に唐津近松寺で唐津警察葬が行われました。
神になった増田敬太郎
敬太郎が亡くなった2日後、コレラに罹患した2人の子供の看病していた、中村幾治に増田敬太郎巡査が夢枕に立ったそうです。
敬太郎は、白シャツ姿に剣を抜いた大男の姿で現れ「余はこの世になき増田敬太郎なるぞ、高串のコレラはわが仇敵にして冥府へ伴い行きれば安んじて子らの回復を待て、ゆめ看護を怠りそ」と厳かに言って消えたそうです。
翌日には敬太郎の死とその最後の言葉を聞いた幾治は夢枕の内容との一致に驚き、子供を懸命に看病した結果、子供2人は無事に回復したそうです。
幾治のほか同様の夢枕を見た住民が他に2件あり、伝え聞いた住民の間で、敬太郎は神様として認識されるようになります。
荼毘に付された敬太郎の遺骨は遺族によって故郷の泗水に埋葬されますが、一部は恩義を感じた高串の村人によって分骨してもらい、地区の中にあった秋葉神社の一角に埋葬されたそうです。
死後1ケ月経過したころには埋葬されていた場所に「故 佐賀県巡査増田氏碑」が建立され、同年10月に石造の小祠が建立されました。
当初は高さ40センチメートルほどの小祠でしたが、人づてに信仰が広まったいき、本格的に神社の体裁を取るようになり、敬太郎が亡くなった1年後の1896年(明治29年)9月には「各村よりの参詣絶ゆる間もなき有り様となりては、御碑を雨露に曝しまいらせ置くは恐れあり」と言う理由から、その小祠の前にに瓦葺きの拝殿(2間×2間半)が建立されました。
そして、元々春分・秋分の日に行う「大祭日」として秋葉神社の祭りとして明治初期から行われていた「お籠り」が祭礼として行われるようになり、地元の高串から唐津や伊万里まで、遠くは福岡や長崎からも参拝者が訪れたそうです。
1905年(明治38年)には社殿を増築して10坪程度の広さになります。
増築時には日露戦争の凱旋記念として2本の鳥居が建てられ、社殿に近い鳥居は扁額に「増田神社」、次の鳥居は扁額に「秋葉神社」が掲げられるようになります。
なお、増田神社創立の時代背景として、国威発揚のために軍人が神社に祀られて神格化された日清・日露戦争当時の時代背景が関係していると指摘されています。また、1913年(大正2年)には再増築されて、玉垣や狛犬も新たに整備されていきました。
増田神社(ますだじんじゃ)は、佐賀県唐津市肥前町高串地区にある神社。旧社格は無格社。警察官を祭神とする日本で唯一の神社として知られる。御神体は、増田敬太郎巡査の木像。コレラ防疫活動に従事し、1895年(明治28年)7月24日に27歳の若さで病死した増田の遺骨を住民が祀った。
引用元:「増田神社 (唐津市)」(2022年11月24日 (木) 05:04 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
警神としての顕彰
増田神社は、地元の守り神として祀られていましたが、1923年(大正12年)頃、唐津署の警部補が祭礼に参加してから、警察関係者が注目するようになったといわれています。
今なお、増田巡査の命日である7月26日には毎年夏祭りが行われ、白馬にまたがる増田巡査の山車が出るそうです。
今日では警察音楽隊、海上警備艇もパレード参加しているそうです。日本で唯一の警神として、全国から警察官が足を運んでいるそうです。また、熊本県菊池市泗水町の生家の入り口横に顕彰碑があります。
毎年、春分秋分の日を例祭日としていましたが、昭和48年から7月26日を増田神社夏祭りと改め、白馬に乗った増田巡査の人形を載せた山車が地区内を練り歩き、大漁旗で飾った漁船が海上パレードを行うなど、盛大に行われるようになりました。
近年では、新型コロナウイルス感染症流行を受けて参拝する人も多くいるそうです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。