息栖神社(いきすじんじゃ)は、茨城県神栖市息栖にある神社です。
茨城県神栖市にある神社で、鹿島神宮と香取神宮とともに関東以北の人々に知られる東国三社の一つです。
この神社は古くから信仰を集めており、岐神や天鳥船神を祀っています。
御由緒
御由緒・御祭神
息栖神社は鹿島神宮・香取神宮と共に東国三社の一つと称され、上下の信仰の篤い神社であります。
主神である久那斗神は古く国史にも見え、厄除招福・交通守護の神であり、井戸の神でもあります。また相殿神である天乃鳥船神は交通守護に、住吉三神は海上守護にご神徳が顕著であります。
息栖神社の創祀は応神天皇の御代と伝えられています。御祭神の御神格からして、神代時代に鹿島・香取の御祭神に従って東国に至り、鹿島・香取両神宮は其々台地に鎮座するものの、久那斗神と天乃鳥船神は海辺の日川(現在の神栖市日川)に姿を留め、やがて応神朝になって神社として祀られたと思われます。
かつて鹿島地方の丘陵地南端は今の鹿嶋市国末辺りまでで、やがて沖洲が陸続きとなり幾つかの集落が出来ました。このような中州に鎮座された祠を、大同二年(807年)、平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂により現在地の息栖に遷座したと伝承されています。
国史書『三代実録』にある「於岐都説神社」が現在の息栖神社です。仁和元年(1120年)の記には「授常陸国 正六位上 於岐都説神従五位下」とあり、於岐都説は於岐都州であり沖洲であり、息栖になったものであると考えられます。※別説あり。
社殿は享保八年(1723年)に建替えられましたが、それが昭和三十五年(1960年)十月焼失し、昭和三十八年(1963年)五月に新たに完成しました。
<末社>
高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮。
常陸利根川沿いにある一の鳥居の両脇には、小さな鳥居の建てられた二つの四角い井戸「忍潮井(おしおい)」があります。それぞれの井戸の中を覗くと、うっすらと瓶(かめ)が見え、白御影石で銚子の形をしているものを男瓶(おがめ)・やや小ぶりで土器の形をしているものを女瓶(めがめ)と呼んでいます。
忍潮井は194年に造られ、両瓶とも1000年以上もの間、清水を湧き出し続けてきたとされています。辺り一面が海水におおわれており、真水(淡水)の水脈を発見し噴出させたところ、辺りの海水を押しのけて真水が湧出したことから、忍潮井の名がつけられました。住民の生活の水として使われた、水と人類との関わりの中で最も古いかたちの井戸です。
また、女瓶の水を男性が、男瓶の水を女性が飲むと二人は結ばれるという言い伝えがあり、縁結びのご利益もあるとされています。現在忍潮井の水を直接飲むことはできませんが、境内の手水舎の奥にある湧き水は、忍潮井と同じ清水で、お水取りをすることができます。
忍潮井には次のような伝説があります。
≪息栖神社が日川から今の地に遷座した際、取り残された男女二つの瓶は神のあとを慕って三日三晩哭き続けたが、とうとう自力で川を遡り、一の鳥居の下にヒタリと据え付いた。この地に定着して後も、時々日川を恋しがり二つの瓶は泣いた。≫
日川地区には瓶の泣き声をそのままの「ボウボウ川」と、瓶との別れを惜んで名付けた「瓶立ち川」の地名が今も残されています。
引用元:息栖神社公式ホームページ
久那斗神(くなどのかみ)
古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ)
日本神話に登場する神であり、また、神が乗る船の名前である。
住吉三神(すみよしさんじん)
『日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される3神の総称である。
引用元:『ウィキペディア日本語版』
息栖神社境内
二の鳥居を入ると、左側に鎮座されています。
御神門は、1847年(弘化4年)に建て替えられたそうです。
社殿は1723年(享保八年)に建替えられました。それが1960年(昭和三十五年)十月焼失してしまいます。
1963年(昭和三十八年)五月に新たに建立されました。
精霊が宿ると云われている木です。幸運をもたらすそうです。近寄ってパワーをいただきました。
左側は四柱合祀されています。(鹿島神社、伊邪那岐神社、高房神社、奥宮)
右側に五柱合祀されています。(香取神社、手子后神社、八龍神社、江神社、若宮)
忍潮井
忍潮井
忍潮井は男瓶・女瓶と呼ばれる二つの井戸であり神功皇后の三年(一九四年)に造られたものと云われあたり一面海水におおわれていた頃真水淡水の水脈を発見しこれを噴出させ住民の生活の水としたもので海水をおしのけて清水が湧出しているところから、忍潮井の名が付けられたと伝えられている。水と人類とのかかわりの中で最も古いかたちの井戸であり日本三霊泉の一つと云われております。
「形状」
男瓶は経二米弱、白御影石で銚子の形をしている。女瓶はやや小振りで土器の形をしている。
「三霊泉」
常陸の忍潮井、伊勢の明星井、伏見の直井
「伝説」
その昔(平城天皇の御宇大同2年4月809年)数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際、とり 残されてしまった男・女二つの瓶は神のあとを慕って三日三晩哭き続けたが、とうとう自力で川を遡り一の鳥居の下にヒタリ据え付いたと云う此の地に定着して後もときどき日川を恋しがり二つの瓶は泣いたと云われている。
その後、時々日川を恋しがり二つの瓶は泣いたと言われる。日川地区には瓶の鳴き声をそのまゝの「ボウボウ川」と瓶との別れを惜しんで名付けた「瓶立ち川」の地名が今も残されている。
奉納
平成十年十二月
槽 谷 武 士
女瓶(めがめ)
男瓶(おがめ)
左側が男瓶、一の鳥居、右側が女瓶
息栖神社跡
忍潮井も昔は此の地に有ったのでしょうか。今は完全に埋め立てられ井戸の姿形は見いだせません。
東国三社と蝦夷との戦い、非常に想像力を掻き立てられます。これらについてはまたまとめて書きたいと思います。ご期待ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。