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肥沼信次 第二次大戦の中でチフスとの戦い ドイツに散った日本人医師の生涯~

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肥沼医師 英雄伝

先回、アフリカに生涯を捧げた谷垣雄三先生を紹介しました。
今回はドイツで医療活動を行った、肥沼信次先生を紹介します。
肥沼先生は約80年経過した現代でも、異国の地で尊敬を集めておられます。
肥沼先生はドイツでどの様な活動をされたのでしょうか。

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おいたち

1908年、東京の八王子町(八王子市)中町で医院を営む外科医・肥沼梅三郎とハツの次男として生まれました。(名前より次男と言われますが、長男として生まれた説もあります。)

信次は父を継ぐため、医師を目指し、尋常高等小学校、東京府立第二中学校(都立立川高等学校)に進学し、そして日本医科大学を卒業しました。

信次は、ドイツ語で書かれた高等数学の原書を読み、先生からも数学の質問を受けるほど数学が得意だったそうです。そんな信次のあだ名は「数学の鬼」だったそうです。

ドイツへの憧れ

信次は、ドイツ出身のアインシュタイン博士や、ポーランド出身のキュリー夫人に憧れ、「いつかドイツで研究をしたい」と思うようになりました。

当時のドイツは、世界に名だたる医学先進国。ドイツに留学して最先端の医学を学び、広く人類の役に立つ医学研究者になりたいと信次は考えていました。

信次は、25歳の時に東京帝国大学(現・東京大学)放射線医学教室に入学します。彼が大学で研究テーマとして選んだのは、放射線の医学的利用について取り扱う放射線医学です。
数学的思考が重要な放射線医学は、まさに「数学の鬼」にふさわしい研究テーマでした。

そして1937年の春、信次は日本政府の国費留学生として憧れのドイツに渡ることになります。
中学時代から抱いていた「ドイツで研究をしたい」という思いが、28歳になってようやく実を結びました。

ドイツへの旅立ち

1937年憧れのドイツへ渡航します。学んだのはアインシュタインが教鞭をとるベルリン大学(現:フンボルト大学)の、放射線医学研究所に客員研究員として加わりました。信次にとって憧れの研究場所でした。

ベルリン・フンボルト大学(ベルリン・フンボルトだいがく、Humboldt-Universität zu Berlin)は、ドイツの首都ベルリンに位置する国立の総合大学である。 2005年ドイツ国内におけるエクセレンス・イニシアティブ(Exzellenzinitiative)に指定された11の大学の一つ。東ドイツ時代に思想統制で一時衰退したが、東西ドイツ統一後に再び興隆し、最近ではTimes Higher Education (タイムズ・ハイアー・エデュケーション) の世界大学ランキングにおいて、2016年に49位となり、毎年100位以内にランクインする、ドイツおよびヨーロッパを代表する名門大学の一つである。

1810年、教育改革者で言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトによってフリードリヒ・ヴィルヘルム大学 (Friedrich-Wilhelms-Universität) として創立されたベルリンで最も古い大学である。東ドイツ支配下でフンボルト大学と改称され、ドイツ再統一後に現称フンボルト大学ベルリン(=通称ベルリン・フンボルト大学)となる。

ベルリン・フンボルト大学出身/所属のノーベル賞受賞者は55人にのぼる。ノーベル賞受賞者の大学別ランキングでは、世界で13位、ヨーロッパでは、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学に続き3位、ドイツ国内においては1位である。過去には、特に相対性理論で有名な理論物理学者、アルベルト・アインシュタインも10年以上に渡り同大学教授として働いていた。

日本からも新興国において範を垂れるべき大学として多くの人材が学び、森鷗外・北里柴三郎・高橋順太郎・寺田寅彦・肥沼信次・宮沢俊義といった日本の学術界を担う人材の留学が見られる。
引用元:「フンボルト大学ベルリン」(2023年10月27日 (金) 23:25 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

忍び寄る恐怖

ドイツで信次はひたむきに研究に取り組み、『生物学的的中理論および突然変異の発生』『生物学的な放射線の影響の論理について』『細胞核ないし遺伝子の倍化および核ないし染色体の遺伝子の総数について』などの論文を発表します。
1939年7月にはそれらの功績が認められ、ドイツと諸外国の研究者による協働サポートを目的とする、アレクサンダー・フォン・フンボルト(AVH)財団の研究奨学生に選ばれました。

研究奨学生に選ばれた後も信次は精力的に研究を続け、1944年、35歳でベルリン大学教授に推薦されました。それは、東洋人として初めて手に入れる名誉でした。

しかし、恐ろしい戦争の恐怖はひたひたと、近づいていました。

ナチス・ドイツに対する意地

信次が渡航したドイツの首相は独裁者として知られるアドルフ・ヒトラーでした。

1939年9月1日、ヒトラー率いるナチス独裁政権がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。

言論統制やユダヤ人の迫害が始まり、大学の教職志願者はナチスへの忠誠を誓う宣誓書をドイツ政府に提出するよう強いられました。

その宣誓書について、信次の勇敢な人柄を示すエピソードがあります。
彼は宣誓書に「私は純粋な日本人であり、日本国籍を有することをここに誓います」と書きました。当時のナチスは、優越民族と主張するゲルマン民族以外を認めない純血主義。その状況で自分が純粋な日本人だと断言するには、たいへんな度胸が必要でした。

また、1944年8月20日にフンボルトハウスで行った講演では、後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹博士などの優秀な研究成果を持つ日本人について取り上げ、「日本民族の優秀性」を主張。これも、ゲルマン民族至上主義の当時のドイツにおいて非常に勇気のある発言でした。

信次ベルリン大学教授に推薦された翌年の1945年3月、ドイツの戦況が悪化したため、日本大使館からベルリン在留日本人に対して帰国指示が出されます。多くの日本人は帰国するため同年3月18日に大使館に集合しましたが、そこに信次の姿はありませんでした。

ドイツに残る決意

信次は帰国を蹴ってエーヴェルスヴァルデに移住します。

1945年4月30日にヒトラー自害し、ナチス政権は事実上崩壊します。
敗戦後のドイツは連合国4か国軍(アメリカ合衆国イギリスフランスソビエト連邦)に占領されます。連合国軍は、管理目的のために1945年5月8日から1949年までの4年間、オーデル・ナイセ線の西でドイツを4つに分割占領して軍政を敷くことになります。

伝染病医療センターとして利用されていた施設 引用元:4travel

エーヴェルスヴァルデで暮らし始めた信次に、ほどなくしてソ連軍地区司令部シュバリング司令官から指令が届きます。その内容は、隣町のヴリーツェンに新設される「伝染病医療センター」の所長信次を任命するというものでした。

ヴリーツェンドイツポーランドの国境付近に位置する町。戦争の影響を大きく受け、水道施設や変電所などのあらゆるものが破壊されていました。不衛生な環境に陥ったヴリーツェンでは伝染病発疹チフスが大流行していましたが、当時、ドイツ人医師の多くは徴兵されていました。そこで、日本人信次に白羽の矢が立ったのです。

ヴリーツェンの町は、戦いに敗れた兵士や飢えに苦しむ多くの難民で溢れ、発疹チフスなどの伝染病が蔓延していました。着任した医療センターは、医療センターとは名ばかりで、医師は一人看護婦は二人だけ、その上衛生環境は悪く、薬や医療用品は不足しているという大変なところでした。

このような状況のもとで、信次は一人の医師として昼夜を問わず薬を手に入れる為に奔走し、治療に尽力して人々の命を救いました。献身的な治療を続けた信次は、疲労から、自らも発疹チフスに感染してしまいます。

チフスとは
高熱や発疹を伴う細菌感染症の一種で、腸チフスと発疹チフスの2種類があります。腸チフスは、サルモネラ菌によって引き起こされる感染症で、主に飲料水や食物から感染します。発疹チフスは、ノミによって媒介される感染症で、主に衛生状態の悪い場所で発生します。
引用元:「チフス」(2022年11月1日 (火) 14:40 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

肥沼先生の死

ヴリーツェン市の肥沼先生の墓、市民の花が絶えない 引用元:八王子市役所HP

昭和21年(1946)3月8日 信次は、異国の地で37歳の若さでその生涯を閉じました。

常日頃周囲の人に「日本の桜はとても美しく、皆に見せてあげたい」と話していたという肥沼博士は「日本の桜が見たい」と言いのこして亡くなったそうです。

憧れのドイツに渡航した信次。戦争というやむを得ない事情により研究を断念し、そのまま異国の地で命を落とすことになりました。

しかし、彼の治療に懸命に取り組む医師としての姿勢はリーツェンの人々の心に刻まれ、善意の輪として現代につながっています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

株式会社メディウェル エピロギ 肥沼信次の生涯 ~ドイツで語り継がれる日本人医師~より
多摩めぐりブログ 肥沼信次~伝染病と戦い命を捧げた医師~
八王子市役所 市民活動推進部多文化共生推進課
「肥沼信次」(2023年12月1日 (金) 01:30 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

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