「ジョン万次郎」一度は聞いたことがある名前だと思います。
ジョン万次郎よりも昔に遭難の末、外国へ漂流された日本人がいます。彼は日本に帰る試みをしますが、当時、鎖国していた日本は、音吉の帰国を認めませんでした。
日本に帰国できなかった音吉!!
音吉は日本に帰れないことを逆恨みすることなく、外国から同じように漂流した多くの日本人を助け支援します。この素晴らしき日本魂を紹介します。
初めてイギリスへ帰化した日本人
音吉(おときち、文政2年(1819年) – 慶応3年(1867年)1月18日)は、江戸時代の水主・漂流民です。
後にはジョン・マシュー・オトソン (John Matthew Ottoson) と名乗り。イギリスのロンドンに初めて
上陸した日本人(1835年)とされています。
マカオで現存する最古とされる日本語訳の聖書の編纂に携わり、モリソン号事件では漂流民として船に乗り、日本への帰郷を試みましたが、江戸幕府は音吉が乗る船を敵とみなし砲撃をします。そのため音吉たちは帰郷はできませんでした。
音吉は仕方なく上海に戻ると、デント商会に勤めました。
そして1849年のイギリス船マリナー号の浦賀来航に際し、中国人「林阿多」(リン・アトウ)と名乗り
通訳として同行します。
更に1854年の日英和親条約締結の際に通訳としてイギリス側に同行しました。
初めてイギリスに帰化した日本人とされています。
私も三浦綾子さんの「海嶺」という本を読み、音吉のことを知りました。
こんなにも素晴らしい日本人が一部の地域を除いて、全くの無名でいることが許せませんでした。
一人でも多くの方に知ってもらいたく、ブログ書きを始めるきっかけになった人です。
難破・漂流
音吉は1819年(文政2年)尾張国知多郡小野浦(現・愛知県知多郡美浜町)に生まれました。
1832年(天保3年)10月、米や陶器を積んだ宝順丸(船頭:樋口重右衛門、乗組員船頭以下13名)で鳥羽を出航し江戸に向かいます。
しかし遠州灘で暴風に遭い難破してしまいます。帆を失った宝順丸は太平洋を漂流します。
アメリカに漂着!
漂流して14ヶ月、日本から約7800km先のアメリカ太平洋岸のオリンピック半島・フラッタリー岬付近に漂着しました。宝順丸の生存者は音吉を含め岩吉、久吉の3名だけでした。
フラッタリー岬(フラッタリーみさき、フラタリー岬、ケープ・フラッタリー、Cape Flattery)はアメリカ合衆国北西部、オリンピック半島の最果てにある岬である。ワシントン州の西部、クララム郡に位置し、北緯48度22分59秒、西経124度42分52秒で、ハワイ州とアラスカ州を除いたアメリカ本土の最北西端にあたる。ファンデフカ海峡がここで太平洋へと出る地点に当たる。ここは先住民マカー族(Makah)の保留地の中にあり、オリンピック海岸国立海洋保護区の北端になる。フラッタリー岬はボードウォークによる遊歩道を歩いてしばらく行った先にある。アメリカ本土の最西端はここからしばらく南へ行ったオリンピック国立公園内のアラヴァ岬(Cape Alava)になる。
引用元:「フラッタリー岬」(2021年10月8日 (金) 15:00 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
漂着した地にはアメリカ・インディアン(マカー族)が住む土地でした。音吉たちは無事に救助されますが、インディアン達は漂着した彼らを奴隷としてこき使いました(諸説あり)。
ある日、ハドソン湾会社のイギリス人発見され、高額の物品と交換にイギリス人に引き取られました。このことは音吉たちにとって不幸中の幸いでした。
日本の漂流者3人を引き取った情報はただちにロンドンへ届きます。イギリス人は日本を開国させるために利用できないか検討しますが、イギリス政府はまだ真剣に日本をどのようにするか決め兼ねていました。
当時のヨーロッパの諸外国は、植民地化していました。特にイギリスは植民地にした領土は世界一の広さを誇っていました。日本を除く東南アジアは殆どの国が植民地化されており、日本を植民地にしようとする思惑も少なからず有ったのです。
結局、音吉達3人は日本に帰される事となり、マカオ行きのゼネラル・パーマー号に乗船しました。途中、ロンドンに着いた彼らはテムズ川で10日間の船上にとどまっていましたが、1日だけ許されてロンドンに上陸して市内を見学しました。
確実に記録が残っている中では、音吉たちがイギリスの地に最初に上陸した日本人だそうです。
日本人として最初に世界一周をした津太夫、佐平、儀兵衛、太十郎の4人は、音吉達の訪れる前にイギリスのファルマスに寄航しているが、上陸が許可されておらず上陸はできなかった。そのため音吉ら3人が最初にイギリスへ上陸した日本人と言われています。
帰郷の試み
1835年12月、ゼネラル・パーマー号はマカオに着きます。
イギリス貿易監督庁を通じ、3人はドイツ人宣教師でイギリス貿易監督庁通訳官のチャールズ・ギュツラフに預けられます。
そして音吉ら3人はチャールズ・ギュツラフと協力し、現存する世界初の日本語訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させることになりますが、日本への帰国を望んでいたため、当初、キリスト教は禁止されていた日本の状況を考え「帰国後どんなお咎めを受けるかわかりません」と、聖書の翻訳を拒否していました。
その後、1837年3月、九州出身の漂流民である庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人が、マニラからスペイン船でマカオに到着し、日本人の漂流民たちと対面しました。
同年7月4日、アメリカ商社オリファント商会の商船モリソン号に乗って、合流した日本人7人は、マカオから琉球、そして江戸に向かいました。
7月30日、三浦半島の城ヶ島の南方着いた時、突然砲撃されてしまいます。幕府軍がモリソン号を攻撃をしたのです。
モリソン号の船長は交渉ができないと判断すると鹿児島へ向い、ここで乗船している日本人船員が日本側と交渉しましたが、聞き入れてもらえず再び砲撃を受けてしまいます。
日本の漂流民を日本へ返すためあらゆる試みをしましたが、受け入れてもらえず、モリソン号はマカオに引き返す決定をし、8月19日にマカオに帰りました。これがモリソン号事件となります。
当時、日本にはイギリスを始めとする外国船が頻繁に来航しており、これらの中には無許可での上陸や暴行事件を引き起こすものもあり、特にフェートン号事件以降、江戸幕府は異国船打払令を発令し、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃して追い返すという強硬姿勢をとっていました。
モリソン号もイギリスの軍艦と誤認されて砲撃されたのです。後にモリソン号は軍艦ではなく非武装の商船であり、さらに日本人漂流民をわざわざ送り届けに来たことが『オランダ風説書』によって判明すると、この事件に触発されて渡辺崋山、高野長英らが幕府の政策を批判する著書を記し、幕府によって逮捕される蛮社の獄が起こるのです。
上海での成功
仕方なしにマカオに戻った音吉達は、その後、上海へ渡り、阿片戦争に英国兵として従軍します。
その後、デント商会(清名:宝順洋行、英名:Dent & Beale Company)に勤めました。
同じ頃、同じデント商会に勤める英国人女性(マレー系女性の記述もあり)と最初の結婚をします。
この最初の妻との間には娘メアリーが生まれますが、娘は4歳9ヶ月で他界、妻もその後、他界してしまいます。このメアリーの墓は、晩年、音吉が住まいとしたシンガポールに残っています。
音吉はその後、1849年(嘉永2年)4月8日、イギリス東インド会社艦隊の帆船マリナー号で浦賀に来航します。この船に音吉は通訳として同行しますが、中国人「林阿多」と名乗りました。
なぜ音吉は中国人と嘘をついて同行したのでしょうか、モリソン号で来日した時のトラウマだったのでしょうか?
日本に帰郷できなかった音吉は、異国で戸惑う同朋達の救済活動に乗り出します。
1853年には、アメリカのペリー艦隊に同行予定だった日本人漂流民(仙太郎ら栄力丸船員)の脱走を手引きし、後に清国船で日本へと帰国させました。
1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングが長崎で日英交渉を開始したときに、再度来日し通訳を務めました。この時に福沢諭吉や著名な日本人と出会いました。
この時、長崎奉行より帰国しないかと申し出がありましたが、既に上海で地盤を固めていた音吉は断りました。
その時、音吉の気持ちは複雑であったと思います。
その後、シンガポール出身の女性、ルイーザと再婚します。彼女もまたデント商会の社員でした。
この2度目の妻との間には、一男二女がいました。この頃、音吉の住む上海では、太平天国の乱などにより、大混乱が始まりつつありました。
晩年~
1862年(文久2年)はじめ、音吉は上海を離れ妻ルイーザの故郷シンガポールへ移住します。
シンガポールでは、幕府の文久遣欧使節通訳の森山栄之助達に会っています。この使節団には福沢諭吉も参加しており、再会を果たします。
音吉のことを知らない日本人達は、流暢な英語を話す不思議な日本人に出会い驚きました。
音吉は福沢達使節団の人々を自宅に招き、清国がどのように植民地化されたのか、その現状を切々と説明し日本に注意するよう伝えたのです。
これらの記録は福澤の著した「西航記」に余すところなく書き残しています。
1864年、音吉は日本人として初めてイギリスに帰化しジョン・マシュー・オトソンと名乗ります。
1867年(慶応3年)、息子に自分の代わりに日本へ帰るよう遺言を残しシンガポールにて病死しました。享年49歳。長い異国での生活でしたが、日本人として最期まで日本の行く末を心配して亡くなりました。
音吉の体の中には日本人の血が最期まで流れていたのです。
音吉の息子
息子のジョン・W・オトソンは1879年(明治12年)に日本に帰りました。
そして横浜で日本人女性と結婚。「山本音吉」を名乗り、日本国籍を取得しました。
山本音吉はその後、妻子と共に台湾へ渡り、1926年8月に台北で亡くなりました。
シンガポールで亡くなった音吉の墓は後に記録で確認されますが、1970年に都市開発のため墓地全体が改葬され、その後の捜索は難航します。
しかし2004年になってようやく音吉の墓が発見され、遺骨の発掘に成功します。
遺骨は荼毘に付され、シンガポール日本人墓地公園に安置されます。その遺骨の一部が翌2005年に音吉顕彰会会長で美浜町長(1991年 – 2007年)の斉藤宏一らの手によって日本に帰郷しました。
漂流から実に173年ぶりに、祖国日本に戻ることができたのです。
現在、遺骨は美浜町の音吉の家の墓と、良参寺の宝順丸乗組員の墓に埋葬されています。
音吉は幕末の裏面史で活躍した名も無き英雄と言えるでしょう。
私もいつか良参寺へお墓参りに行きたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。