建築家アントニオ・ガウディ 未完の建築物「サグラダ・ファミリア教会」をご存じでしょうか。
ここでも日本人が活躍しています。今回は主任彫刻家 外尾悦郎(そとお えつろう)さんを
紹介します。
サグラダ・ファミリアはバルセロナで140年前から建築中の教会です。
141年間も建築中のサグラダ・ファミリアは、カトリック団体が信者の喜捨(信者より喜んでお布施されたお金)で建設する教会として計画され、当時はまだ無名のアントニオ・ガウディの設計により取り組まれました。
奇跡の建築家アントニオ・ガウディは
1852年スペイン・カタルーニャ南の町で生まれました。 19~20世紀にかけてバルセロナを中心に多くの建物を作り、彼が築いた建物は世界中で高く評価され、1984年に「アントニオ・ガウディ作品群」として世界文化遺産に登録されています。
今回、紹介しますサグラダ・ファミリアを始め、エルカプリーチョ、グエル邸、グエル公園、カサ・ミラなど有名な多くの建物を創りました。
1926年ミサに向かう途中で路面電車に轢かれ、生涯独身のガウディは身寄りもなく、身なりも粗末であったため、浮浪者と間違われ満足に手当が受けることができず、73歳の生涯を遂げました。
ガウディの死後も建築が続くが試練も続く・・・
ガウディが他界した後、弟子に受け継がれサグラダ・ファミリアの建築は続きます。
しかし、スペイン市民戦争が始まり、その内戦で建物の中に保管していた、ガウディが遺した
貴重な図面や模型は破壊され、貴金属類はすべて盗まれてしまいました。
建築の中断が余儀なくされます。
しかし、ガウディの弟子たちは奮起します、財政難の中で建築を続けたのです。
亡きガウディに導かれた外尾悦郎
外尾は京都市立芸術大学美術学部彫刻科を卒業し、美術の非常勤講師として幼稚園から高校まで毎日忙しい講師生活を送っていました。ある日、外尾は彫刻がしたくてたまらない衝動が起きました。
1978年外尾はフランス パリに飛びました。しかし、パリでは外尾の心を熱くたぎらせるものは見つからなかったそうです。
外尾は行く当てもなくスペインに行こうと思ったそうです。駅でたまたま乗った電車は、バルセロナ行きだったのです。
ガウディが外尾をバルセロナのサグラダ・ファミリアへ導いたのでしょう。
厳しい人種差別のなか 認められて彫刻家として採用される!
知り合いになった日本人駐在員にサグラダ・ファミリア教会の建築家を紹介してもらいますが、何度も何度も門前払いされてしまいます。
しかし外尾はあきらめず何度も訪問しました。
約1か月が達ち、やっとアポイントが取れ、主任建築家と会うことができました。
あきらめず、粘り強い努力が実りました。
そして外尾が試しに掘った彫刻を見た主任建築家は、彫刻家として採用してくれました。
25歳になったばかりの駆け出し彫刻家、外尾悦郎が誕生しました。
当初、突然、日本からやってきた外尾に、スペイン人は人種差別的な偏見を持ち、バッシングをしてきました。
しかし、外尾は負けませんでした。少ない設計図を見てガウディの思いを込めて彫刻しました。
外尾が掘った彫刻は素晴らしい完成度で出来上がりました。
外尾の圧倒的な技術力は、次第に共に働く彫刻家や建築家たちに認められ、次第にバッシングはなくなり、外尾を信頼するようになります。
ガウディの遺志を受け継いだ彫刻家!
ガウディの資料は破壊され、僅かしか残っていません。
それでも外尾は壊れた彫刻や作り損じの欠片が集められている、廃材置き場へ行き、小さな欠片を見つけては推測し、縮小模型を作り、それをもとに植物図鑑で調べ、そっくりな形をした植物を見つけだします。
スペインでの植物の風習や特性(日本ではお正月に松飾りをするみたいな)を調べ、教会の彫刻として相応しいことを確信した上でその植物を彫刻していきました。
完成した彫刻は、ガウデイの思いが込められたそのものでした。そこで働いていた建築家達も外尾の高い技術力を認めます。
こうして外尾の信念は、ファミリア教会で働く多くの人に認められ、ガウディの遺志を受け継いだ彫刻家として認められました。
ペリカンの親子の像
サグラダ・ファミリアの東面、「生誕のファザード」には4本の鐘塔がそびえ、その中央部に「生命の木」と名付けられた装飾があります。この「生命の木」は糸スギを模したものでその根本にペリカンの彫刻があります。
犠牲を犠牲と思わない力がある。親は子のためなら、自らが傷つき、時には死ぬことさえ厭わないでしょう。 ガウディはそれを象徴するペリカンを、聖母載冠や受胎告知の場面より上に置きました。
破風の上、尖塔の上にある糸杉のモニュメントまでには6人の天使たちが舞い、その中央にJHSという文字が浮かんでいます。これは「JESUS HOMBRE SALVADOR (救世主イエス)」という意味の言葉の頭文字です。
この重要なアルファベットが、生誕の門の天地左右の中央に置かれています。
糸杉のモニュメントの下に、白いペリカンの親子が宿っています。なぜだろう?、と思われるのではないでしょうか。いつからペリカンがそんな大事なところに祀られる存在になったのか、と。
じつは今据えられているペリカンは、前に据えられていたペリカンの像が落ち、親ペリカンの像も傷んでいたために、私がつくったものですが、それを彫る前に私も疑問に思いました。それで、いろいろと調べてみたところ、面白いことが分かりました。
聖トーマスという聖人が残した言い伝えの中に、「母ペリカンは、食べ物がなく、子ペリカンが飢え死にしそうになると、自分のお腹をくちばしで裂いて血を飲ませた」という内容の話があります。
実際にそんなことをするのかどうかは分かりませんが、その光景を見て聖トーマスは、母親の愛情の強さを感じました。
つまり、この「ペリカンの親子」の像は、母子の愛情、もしくは親子の愛情のシンボルです。それが生誕の門の非常に重要な場所に置かれています。
ペリカンに限らず、あるいは聖家族に限らず、母子の愛情、親子の絆というのは何よりも強いものです。
つまり、イエスという奇跡の存在を生み出したのが愛情の力であるということを、ガウディは表現したかったのではないでしょうか。
あまり突っ込んだ宗教の話をこの本でするつもりはありませんが、キリスト教のテーマも、サグラダ・ファミリアの大きなテーマの一つも、ここに集約されていると私は思います。
しかし、このペリカンの親子、それほど大事なものでありながら、近くからはどうしても見えないようにできています。先ほどの写真は通りの向こうから望遠レンズを使って撮影したものですが、近寄っていくと、塔の膨らみや天使たちの陰になって、視界から消えてしまうことに気づきました。
なぜガウディは、この彫刻にそんな仕掛けをこらしたのか。
これは、本当に大事なものは近くにいるときには見えないということを暗示しているのではないかと思います。母親の愛情、神の愛情も、遠く離れたときに初めてありありと感じられる。そういう真理をも、ガウディはこの彫刻で表現したかったのかもしれません。
引用元:「ガウディの伝言」光文社新書
私は、外尾悦郎さんが日本に帰国された時、講演会でこの話を直接お聞きし、とても感動したことを覚えています。
いつかバルセロナに行き直接、建物を見てみたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。