NHK大河ドラマの「どうする家康」が放送されています。(12月17日で最終回が放送されました。)
家康の家臣に音尾琢真さんが演ずる「鳥居元忠」という家臣がいます。
彼は主君 徳川家康を次の天下人にするため、僅かな手勢で伏見城に籠城し、大群で迫る石田三成と戦い、家康の後方から攻めるのを防いだのです。その結果元忠は伏見城で討ち死にしてしまいます。
その壮絶な最期を遂げた鳥居元忠を紹介します。
追記 2024年3月福島県いわき市にある長源寺に鳥居元忠の墓参りに行ってきました。
鳥居彦左衛門元忠
天文8年(1539年)、松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として三河国碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれます。父は岡崎奉行などを務めた岡崎譜代で、元忠も徳川家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれた今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、天文20年(1551年)から家康に仕えました。
NHK大河ドラマの「どうする家康」では、イッセー尾形が、鳥居忠吉として老齢の何を言っているのか、よくわからない元忠の父親役を演じています。
家康が三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦います。長兄の忠宗は天文16年(1547年)渡河内の戦いで戦死し、元亀3年(1572年)に父忠吉が死去すると家督を相続しました。
永禄元年(1558年)寺部城攻めをはじめ、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど多くの合戦に参加します。諏訪原城合戦では斥候として敵陣に潜入しますが、敵に発見されて銃撃で足を負傷してしまいます。歩行に多少の障害が出ますが三河武士の意地を通し、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいては石川数正とともに馬防柵の設置を担当して大きな戦果をあげます。
天正10年(1582年)の天正壬午の乱では、家康の背後を襲おうとした北条氏忠・氏勝軍の別働隊10,000を甥の三宅康貞・水野勝成らわずか2,000の兵で撃退し北条勢約300を討ち取り、家康より甲斐国都留郡(山梨県都留市)を与えられ、城持ち大名となります。
家康が関東に移封されると、下総国矢作城(現在の千葉県佐原市)4万石が与えられます。
元忠は、最初矢作城に入りますが、城の狭隘(きょうあい)を理由に、岩ヶ崎へ新城を築き移り住みます。岩ヶ崎城は佐原市岩ヶ崎字城山にあり、元忠は岩ヶ崎城を本格的に築城するため普請奉行を決め着手していましたが、残念ながら完成を見ることなく廃城となりました。
豊臣秀吉の死後
豊臣秀吉の死後、豊臣政権の政治は五大老と五奉行を中心に集団運営体制に移行しますが、次の天下を見据えた徳川家康は独断で行動するようになり、家康の行動を支持する武将は「徳川派」、対する秀吉の遺言を遵守する石田三成を中心に活動する「三成派」に分かれ対立してしまいます。
しかし、重鎮の前田利家はこの二派を仲裁し、なんとか政権運営は均衡を保ち運営されていました。
前田利家の逝去
1599年 前田利家が亡くなると、政権運営のバランスがついに崩れます。
家康の影響力がさらに大きくなり、徳川派と三成派の対立はますます激しくなり、関係は悪化します。
前田家を継いだ前田利長と浅野長政は、家康の暗殺を計画したという罪を着せられ、浅野長政は失脚、前田利長は利家の正室・芳春院(まつ)を人質として家康に取られてしまいます。
こうして家康はどんどん力を付け、秀吉死後、戦国大名の中で最も力を持つ存在となります。
芳春院
ほうしゅんいん、天文16年7月9日(1547年7月25日) – 元和3年7月16日(1617年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。
名はまつ。篠原一計の娘。戒名は芳春院殿花巖宗富大禅定尼。母(竹野氏)が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であったと伝わる。
引用元:「芳春院」(2023年8月16日 (水) 11:49 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
上杉景勝との対立
元五奉行の石田三成は、家康がどんどん力を付けていくことを見過ごせませんでした。
懇意にしていた五大老の上杉景勝と連携し景勝も軍事を増強し、家康に対抗する姿勢を見せたのです。家康は景勝に上洛するよう手紙を送りますが、景勝からの返事(直江状)は家康を茶化し怒らせる内容でした。
上杉景勝
うえすぎ かげかつ、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。山内上杉家17代目。
上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。
豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。
引用元:「上杉景勝」(2024年1月25日 (木) 00:08 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
直江状
なおえじょう、慶長5年(1600年)に上杉景勝の家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に送った書簡。関ヶ原の戦いのきっかけとなる会津征伐を家康に決意させたとされるが、偽文書ではないが後世に大幅に改竄されたとする説がある。
引用元:「直江状」(2024年1月29日 (月) 21:05 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
直江状の真偽については、諸説ありますが、一般的には、直江状は本物ではなく、後世に改竄された偽書であると考えられています。
直江状の原本は現存しておらず、すべて写しであること、直江兼続の筆跡と一致しないこと、直江兼続の人柄や立場と矛盾する内容であること、などが、偽書であるとする主な根拠です。
しかし、直江状が完全に偽物であるというのも難しく、一部には本物の書簡があったが、後に加筆や削除が行われたという説もあります。
直江状の真偽は、歴史学者や文化人の間でも議論が分かれており、決定的な証拠は見つかっていません。直江状の真偽については、まだまだ謎が多いようです。
徳川家康も涙! 最後の命令
上杉景勝の家老、直江兼続と石田三成は友人の付き合いでした、共謀して家康を倒す機会を狙っていました。(諸説あります) 家康を怒らせ会津におびき出すことに成功すれば、家康を討つ最大のチャンスです。
怒った家康は上杉景勝討伐のため会津へ出陣する準備を進めます。
しかし、家康は大阪を立った後、背後から三成の大群が攻めてくることを予測していました。
大阪を発った家康は、伏見城に立ち寄ります。伏見城の留守居役を務めていたのは鳥居元忠です。
家康と元忠は伏見城で対面します。
元忠は家康の会津征伐に同行できるものと思っていましたが
家康
「わしが会津へ向かえば、三成が必ず兵を挙げるだろう。・・・
諸大名を集め、大群でこの伏見城に攻め寄って来るであろう・・」
家康が大阪を立った後、背後から三成の大群が攻めてくることを予測していました。
家康が今川家に人質に取られていた時から50年も家康の側近をしていた元忠は、家康と以心伝心の関係です。家康言葉から心中を察します。
元忠は微笑みを浮かべ、何度も何度も頷きました。そして自分に課せられた役目を悟ったのです。
家康
「そなたには苦労をかけるな・・」
家康は元忠に深々と謝ります。
家康
「兵はどれくらい要るか、できるだけ多くの兵を置いて行こう・・」
元忠は感情がこみ上げ、涙をこぼし、声を震わしながら
元忠
「殿が天下をとるのため、これから一人でも多くの兵が要りましょう。
この城は落ちる城です。三成の大群が押し寄せたら、三河武士の意地、いかに玉砕するかを見せつけてやりましょう。私と松平近正で事足ります。他の家臣、兵はすべてお連れくださいませ。
これが彦左衛門元忠最期のお役目でございます。」
溢れ出る涙をこらえながら笑顔で答えます。
家康
「彦・・、酒を飲もうぞ・・」
家康は元忠に酒を注ぎ、懐かしい戦話をしたそうです。
元忠が準備をするため、席を立ったあと、家康は一人号泣したそうです。
かなり昔の話ですが、TBSテレビ開局30周年記念番組として、司馬遼太郎原作の「関ヶ原」をドラマ化した超大作の「関ケ原」は、石田三成を加藤剛が演じ、森繁久彌が徳川家康を演じています。他に三船敏郎、杉村春子、三田佳子、松坂慶子、栗原小巻、宇野重吉、三國連太郎、三浦友和、竹脇無我、丹波哲郎など、昭和の大スターが演じており、役者延べ120人、エキストラ延べ3500人を動員し撮影された超大作です。日本の歴史の分かれ目ともいえるこの合戦をめぐって繰り広げられた、人間と人間の相克、愛憎の姿を、空前のスケールで描かれています。
このドラマで、伏見城の元忠に家康が最期の命令を伝える場面が、実によく演じられています。涙なくしては見れません。レンタルDVDやパラビなどで放送しています。ぜひ一度御覧ください。
Youtubeで見つけました。上記二人の熱演、ご興味ある方は御覧ください。
【時代劇】『忠義者』~ドラマ関ヶ原逸話・伏見城の別れ~【字幕】
引用元リンク先:38みねちゃん様
先日、「どうする家康」で元忠と家康の別れのシーンが放映されました。皆さんはご覧になられたでしょうか。歴史について新解釈による脚本だそうです。
音尾琢真さんが演じた鳥居元忠は、松本潤の家康に、「伏見城を必ず守れ」と言明されていました。人それぞれ捉え方が違いますが、家康は伏見城を守りきれると信じていたのでしょうか。
私は、落ちる城と理解しながら、元忠に断腸の思いで命令する家康を演じてほしかったと少し残念な気持ちで見ました。
石田三成の挙兵
家康は豊臣秀頼より、金2万両と米2万石を受領し。これは、家康が秀頼の承認を得て会津の上杉景勝を攻めるという大義名分を得て会津に向かう準備を行っていました。
慶長5年6月18日に家康は会津征伐のため伏見を立ちました。大義名分を得た軍勢は軍は直属の家臣のほか、福島正則や池田輝政などの諸大名も加わり、軍勢5万5000余の大軍となり、江戸城へ向かいます。
一方、大坂城にいた前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放し、家康に対する13か条の弾劾状を発布しました。
そして毛利輝元を総大将として三成は家康討伐に向けて動き始めます。
これに先立つ7月15日の時点で元忠はじめ約1,800名の兵は籠城を開始しており、17日に大坂城西の丸から追放された500人を加えた約2300人が伏見城を守ります。
それに対する三成軍は総勢10万余と言われています。本格的な戦闘が19日から開始されます。
当初は双方で小競り合いが起こりますが、三成の軍が昼夜問わず大小の鉄砲を打ち続け、さらに宇喜多秀家勢が加勢し本格的な攻撃を行います。
十分に籠城の準備をし防御した城でしたが、応援が来ることのない孤立した城は、13日後の8月1日にとうとう落城してしまいます。
鳥居元忠が鈴木重朝との戦いに破れ、討ち死にし壮絶な最後を遂げます。
さらに内藤家長、内藤元長 父子・松平家忠・上林竹庵ら以下800人が三成の軍勢に破れ、桃山城は落城します。
鳥居元忠 享年62歳。
こうして、慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われる。関ヶ原の戦いが始まるのです。
福島県いわき市にある長源寺にお墓参りに行ってきました。
住宅街の中にあるひっそりと佇む寺院の奥に、鳥居元忠の墓所があります。
元忠の勇壮な戦い、最後を思い浮かべ、墓前に手を合わせました。合掌
将軍秀忠は慶長七年(一六〇二)、磐城平藩主となった忠政に父元忠の戦死を称えて、その菩提を弔うために平城郭内の地に長源寺を建立させた。寺領として中塩村のうち一〇〇石を永代供養料として与えた。現存する墓は、正徳六年(一七一六)三月に没した下野国壬生(みぶ)領主鳥居忠英の遺言に従って忠英の墓造立の際、元忠夫妻の墓を改修したものである。
元忠・忠英墓は、同一の砂岩積みの基壇上に、花崗岩(かこうがん)切石を用いた基礎を三段積み上げ、その上に墓石を置く。基礎の左右には三角形の裾石を置き、その景観は簡素でありながら大名家の墓に応しく、極めて重厚壮大である。元忠墓は自然石に額縁を刻み、清流院殿渕室長源大居士と刻む。忠英墓は基礎と同質の花崗岩を尖頭(せんとう)方柱とし、正面に浄泉院桃巖徹源鳥居候之墓と刻し、側面と背面には鳥居家の事跡が漢文体で刻まれている。銘文は京都の儒学者伊藤東涯の撰文である。
元忠夫人墓は、砂岩の切石積み基壇上に基礎一段を置き、その上に淡黄色の凝灰岩製の五輪塔が造立されている。地輪(じりん)の正面に松嶽院殿と刻む。慶長十八年(一六一三)に没したが、五輪塔(ごりんとう)の形式は江戸時代中期の様式である。風輪(ふうりん)が花弁状なのは、忠英墓造営時に元忠墓と共に改修されたためである。墓は元忠墓の東隣に接している。市内にのこる数少ない大名墓として貴重な遺構である。
元忠夫人墓は、砂岩の切石積み基壇上に基礎一段を置き、その上に淡黄色の凝灰岩製の五輪塔が造立されている。地輪(じりん)の正面に松嶽院殿と刻む。慶長十八年(一六一三)に没したが、五輪塔(ごりんとう)の形式は江戸時代中期の様式である。風輪(ふうりん)が花弁状なのは、忠英墓造営時に元忠墓と共に改修されたためである。墓は元忠墓の東隣に接している。市内にのこる数少ない大名墓として貴重な遺構である。
引用元:いわき市の文化財-201/239pageより
生涯家康に仕え、家康のため命を捨てて戦い抜いた元忠の生涯はいかがだったでしょうか。
私は赤い血が滾る三河武将の壮絶な生きざまに心が震えました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。