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仲間のために山中を激走!! 命をかけて援軍の到着を伝えた忠義心 鳥居強右衛門の壮絶な最後!!

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英雄伝

天正3年(1575年)、長篠城武田勝頼の大軍に囲まれ、落城寸前でした。

足軽の鳥居強右衛門は城を抜け出し野山を走り、信長家康援軍を要請します。
そして再び味方が守る長篠城へ帰城するためひたすら走ります。
しかし武田軍に見つかり捉えられてしまいました。

鳥居強右衛門揚州周延
鳥居強右衛門 揚州周延作
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城から決死の脱出

強右衛門は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、三河長篠城主 奥平信昌の足軽です。
長篠の戦いに参戦していた時は36歳でした。

奥平 信昌(おくだいら のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。初名は貞昌(さだまさ)。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された。亀姫との間に家昌など4男1女をもうけた。
引用元:「奥平信昌」(2024年1月31日 (水) 17:28 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』


奥平氏はもともと武田家の傘下に従属していました。ところが、武田家の当主であった武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死亡し、奥平氏は再び松平氏(徳川氏)に寝返ったため、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買ってしまいました。

天正3年(1575年)5月、勝頼は1万5000の兵を従え長篠城攻囲しました。奥平氏は僅か500ほどの兵力しかありません。奥平勢は苦戦しながらもなんとか長篠城の死守していましたが、北側の兵糧庫を焼かれ、このままではあと数日しか持たない状況に追い込まれてしまいました。

最後の手段として、家康のいる岡崎城使者を送り、援軍を要請することを計画するのですが、多勢の武田軍に取り囲まれている状況で城を抜け出し家康のもとに赴き、援軍を要請することはほぼ不可能と思えました。

しかし、この生きて帰れないと思われる命がけの任務を鳥居強右衛門自ら志願したのです。

夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜り泳いで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破しました。
翌朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から脱出成功の狼煙を上げたのです。

山中を大激走

引用元:OpenStreetMap

強右衛門は敵に見つからないように山中深くを走り抜けた思います。

現在の舗装された道でさえ、歩いて約10時間以上かかる約65km距離を、強右衛門は草木の生い茂る山中を走り抜け、午後には岡崎に到着しています。

強右衛門は強靭な足腰と使命感そして忍耐力を持ち備えていたに違いないでしょう。

翔びくらげ
翔びくらげ

朝、雁峰山から狼煙を上げ、当日の午後に岡崎城にたどり着いたそうです!。ものすごいスピードですね!

強右衛門岡崎城に着くと、家康に面会し援軍を頼みました。
織田・徳川連合軍3万8千は、翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となり、ちょうど出陣の準備をしていたところでした。

家康より少し休んで一緒に行くように話がありましたが、援軍の返答を受け、喜んだ強右衛門はこの朗報を一刻も早く味方に伝えようと、今来た道を長篠城へ向かってすぐに引き返しました

強右衛門は約1日で4kmの川を泳ぎ130kmの山中を走ったことになります!。
多少脚色されていると思いますが、戦で疲労困憊の上、たとえ2日かけても130km山中を走るのは大変のことと思います。

武田軍に囚われ 勝頼と取引!

16日の早朝、往路と同じ鴈峰山で狼煙を掲げた後、城に向かい、城の近く有海村豊川西側にて再び川を泳ごうとしていたところで不覚にも武田軍に見つかり捕らえられてしまったのです。

士気が下がることなく城内で歓声が上がるのを不審に思う武田軍警戒を強めていました

捕らえた強右衛門を拷問にかけ、織田・徳川の援軍が長篠に向かっていることを知った武田勝頼は、援軍が到着する前に長篠城を落とす方法を考えました。

そして勝頼は、強右衛門に、「城に援軍は来ない!、あきらめて城を明け渡せ」と言え、従えば強右衛門命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に強右衛門命令したそうです。

強右衛門に嘘を言わせれば城兵の士気は急落し、すぐに落城すると考えたのでした。
強右衛門勝頼の命令承諾し、長篠城西岸の見通しのきく場所へと引き立てられました。

武田勝頼(たけだ かつより)
戦国時代の武将で、武田信玄の嫡男にあたります。生年は永禄3年(1560年)とされています。

勝頼は、父・信玄の死後、家督を継いで武田家の当主となりました。しかし、父の死後に勃発した甲州征伐では、家臣団の不和や援軍の不足などで苦戦を強いられ、ついには甲斐国内に逃れることを余儀なくされました。その後、天正10年(1582年)には、織田や徳川の攻撃によって、嫡男・信勝とともに天目山で自害しました。

これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡しました。勝頼は、若くして家督を継いだこともあり、父信玄と比較されることが多いです。父と同様に、武田家の領土拡大や勢力強化に尽力しましたが、武田家の没落を招く要因となったそうです、家臣団の不和や、甲州征伐の失敗など、彼自身の能力不足も否定できません。

勝頼は、その若さゆえに、武田家の最後を看取ることはできませんでしたが、彼の生涯は、武田家の歴史においても重要な役割を果たしました。
引用元:「武田勝頼」(2024年1月25日 (木) 10:09 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

最期の命を賭した魂の叫び

強右衛門は、「援軍はもうすぐ着くぞ!」
と城に向かって叫んだそうです。

これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じて強右衛門を切るように命じました

強右衛門厳しい任務達成し、達成感から笑顔死んでいったそうです

長篠城で一部始終を見ていた城兵達は、強右衛門が命をかけて報告した「援軍近し」の吉報を得て、
強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせわきあがりました。

援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功しました。

援軍の総大将であった織田信長も、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門最期を知り大いに感銘を受けたそうです、そして強右衛門忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられています。

今放送されている大河ドラマどうする家康」で、奥平信昌役が白洲迅さん、鳥居強右衛門役が岡崎体育さんに決まりました。

翔びくらげ
翔びくらげ

6月4日の大河ドラマを見ましたか、家康と信長の確執が延々と演じられ、岡崎城でダラダラしている強右衛門を見て、がっかりした方も多いのではないでしょうか。最期は亀姫とのつながりを描いて、違った意味で感動する結末となって描かれていました。皆さんはどのように感じられたでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

「鳥居強右衛門」(2023年12月5日 (火) 15:16 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
「長篠の戦い」(2024年1月26日 (金) 07:39 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
桑名市HP
奥三河観光ナビ(鳥居強右衛門の墓、甘泉寺)

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