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仲間のために山中を激走!! 命をかけて援軍の到着を伝えた忠義心 鳥居強右衛門の壮絶な最後!!鈴木金七郎も同行していた新事実! 24年7月現地調査追記!

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英雄伝

天正3年(1575年)、長篠城武田勝頼の大軍に囲まれ、落城寸前でした。

足軽の鳥居強右衛門は城を抜け出し野山を走り、岡崎城信長家康援軍を要請に向います。このときに鈴木金七郎も同行していたそうです。

そして再び味方が守る長篠城へ帰城するためひたすら走ります。
しかし武田軍に見つかり捉えられてしまいました。

24年7月、長篠城へ現地調査に出向きました。

鳥居強右衛門揚州周延
鳥居強右衛門 揚州周延作
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城から決死の脱出

強右衛門は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、三河長篠城主 奥平信昌の足軽でした。
長篠の戦いに参戦していた時は36歳だったそうです。

奥平 信昌(おくだいら のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。初名は貞昌(さだまさ)。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された。亀姫との間に家昌など4男1女をもうけた。
引用元:「奥平信昌」(2024年1月31日 (水) 17:28 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』


奥平氏はもともと武田家の傘下に従属していました。ところが、武田家の当主であった武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死亡し、奥平氏は再び松平氏(徳川氏)に寝返ったため、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買ってしまいました。

天正3年(1575年)5月、勝頼は1万5000の兵を従え長篠城攻囲しました。奥平氏は僅か500ほどの兵力しかありません。奥平勢は苦戦しながらもなんとか長篠城の死守していましたが、北側の兵糧庫を焼かれ、このままではあと数日しか持たない状況に追い込まれてしまいました。

最後の手段として、家康のいる岡崎城使者を送り、援軍の要請することを計画しますが、すでに多勢の武田軍に取り囲まれている状況で城を抜け出すことは、ほぼ不可能と思えました。

しかし、決して行きて帰れないと思われる、援軍要請の使者に名乗り出たのが鳥居強右衛門です。
この時、信昌は、強右衛門の強い決意を認めましたが、1人では心もとないとして、鈴木金七郎に同行を命じました。

当時の記録『長篠日記』によれば、「水練上手なり。その上、物馴れし者」だったことが選ばれた理由と記載されています。

引用元:鈴木金七郎の業績を見直す会のホームページより

「水練」、つまり泳ぎが達者で、加えて「物馴れし者」ということより、何事の物事に慣れている、土地勘に優れ、更には狼煙(のろし)などの手筈に慣れていたことから選ばれたと考えられます。

牛窪橋から長篠城を見た景観です。籠城当時は、この橋の下の川には鳴子網が張られ、武田軍の見張りがいました。

撮影先:長篠城址史跡保存館
撮影先:長篠城址史跡保存館

強右衛門と金七郎は小刀で網を切り、人が通れるようにして鳴子網を掻い潜り通過したそうです。

原生林の山中を大激走

撮影先:長篠城址史跡保存館 黒い線が援軍を依頼するため突き進んだルート

長篠城を無事に脱出した二人は、そのまま豊川を泳いで下り、「広瀬」の浅瀬で上陸、川上村の鈴木金七郎の家へ行き、着物に着替えて、狼煙をあげるために雁峰山へ向いました。

引用元:OpenStreetMap

強右衛門金七郎は武田勢に見つからないように山中深くを走り抜けたそうです。

現在の舗装された道でさえ、歩いて約10時間以上かかる約65km距離を、強右衛門は草木の生い茂る山中を走り抜け、午後には岡崎に到着しています。

二人は強靭な足腰と使命感そして忍耐力を持ち備えていたに違いないでしょう。

翔びくらげ
翔びくらげ

朝、雁峰山から狼煙を上げ、当日の午後に岡崎城にたどり着いたそうです!。ものすごいスピードですね!

岡崎城に着くと、家康に面会し援軍を頼みました。
織田・徳川連合軍3万8千は、翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となり、ちょうど出陣の準備をしていたところでした。

家康より少し休んで一緒に行くように話がありましたが、援軍の返答を受け、喜んだ強右衛門はこの朗報を一刻も早く味方に伝えようと、今来た道を長篠城へ向かってすぐに引き返しました

このとき金七郎は岡崎城に残ったという説と、涼み松で狼煙をあげた後、岡崎城に戻った説があります。

強右衛門は約1日で4kmの川を泳ぎ130kmの山中を走ったことになります!。
多少脚色されていると思いますが、戦で疲労困憊の上、たとえ2日かけても130km山中を走るのは大変のことと思います。

武田軍に囚われ 勝頼と取引!

16日の早朝、強右衛門は長篠城の北西1キロほどのところに位置する涼み松という松林に入り、長篠城下の人々の目に触れることを祈りながら、「援軍来る」の狼煙を上げました。

狼煙を掲げた後、城に向かい、城の近く有海村豊川西側にて再び川を泳ごうとしていたところを、武田軍に見つかり捕らえられてしまったのです。

士気が下がることなく城内で歓声が上がるのを不審に思う武田軍警戒を強めていました

捕らえた強右衛門を拷問にかけ、織田・徳川の援軍が長篠に向かっていることを知った武田勝頼は、援軍が到着する前に長篠城を落とす方法を考えました。

そして勝頼は、強右衛門に、「城に援軍は来ない!、あきらめて城を明け渡せ」と言え、従えば強右衛門命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に強右衛門命令したそうです。

強右衛門に嘘を言わせれば城兵の士気は急落し、すぐに落城すると考えたのでした。
強右衛門勝頼の命令承諾し、長篠城西岸の見通しのきく場所へと引き立てられました。

武田勝頼(たけだ かつより)
戦国時代の武将で、武田信玄の嫡男にあたります。生年は永禄3年(1560年)とされています。

勝頼は、父・信玄の死後、家督を継いで武田家の当主となりました。しかし、父の死後に勃発した甲州征伐では、家臣団の不和や援軍の不足などで苦戦を強いられ、ついには甲斐国内に逃れることを余儀なくされました。その後、天正10年(1582年)には、織田や徳川の攻撃によって、嫡男・信勝とともに天目山で自害しました。

これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡しました。勝頼は、若くして家督を継いだこともあり、父信玄と比較されることが多いです。父と同様に、武田家の領土拡大や勢力強化に尽力しましたが、武田家の没落を招く要因となったそうです、家臣団の不和や、甲州征伐の失敗など、彼自身の能力不足も否定できません。

勝頼は、その若さゆえに、武田家の最後を看取ることはできませんでしたが、彼の生涯は、武田家の歴史においても重要な役割を果たしました。
引用元:「武田勝頼」(2024年1月25日 (木) 10:09 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

命を賭した最期の叫び

強右衛門は、長篠城の脇を流れる豊川の対岸にて磔にされます。

撮影先:長篠城址史跡保存館

強右衛門は、武田軍の指示を無視し「援軍は必ず来る!」と城に向かって叫びました。

これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じて強右衛門を切るように命じます

強右衛門厳しい任務を無事に達成し、達成感から笑顔死んでいったそうです

長篠城野対岸に建立された鳥居強右衛門磔死之阯

当初は磔された地に建立されたそうですが、鉄道工事や圃場(ほじょう)(農作物を栽培するための場所)の整備のため、過去に二度移設され、現在の場所に建てられているそうです。

鳥居強右衛門磔死之阯の隣に設置されている看板
現在の位置関係
撮影先:長篠城址の掲示より

長篠城の

長篠城内からの説明 赤丸は対岸の鳥居強右衛門磔死之阯の石碑

長篠城で一部始終を見ていた城兵達は、強右衛門が命をかけて報告した「援軍近し」の吉報を得て、
強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ湧きあがりました。

援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功しました。

援軍の総大将であった織田信長も、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門最期を知り大いに感銘を受けたそうです、そして強右衛門忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられています。

新昌寺内 鳥居強右衛門の墓(胴塚)
新昌寺内 鳥居強右衛門の墓の脇に建つ説明看板
いぱっち – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22212676による

上の写真は、愛知県新城市作手鴨ヶ谷門前23にある鳥居強右衛門の墓(首塚)

鳥居強右衛門 1575年(天正3年)5月16日 没 36歳。

鳥居強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、長篠の戦いだけで、それまでの人生についてはほとんど知られていません。
現存する数少ない資料によると、彼は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われています。

強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いだそうです。
強右衛門の子・鳥居信商は、父の功により100石を与えられ、信昌の子・松平家治に付属したそうです。

家治が早世すると信昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増されました。

その後、信昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、鳥居信商を家臣にもらい受けたそうです。
さらに、13代目の鳥居商次家老になるなど、子孫は家中で厚遇されました。
そして、強右衛門の家系は、現在も存続しているそうです。

翔びくらげ
翔びくらげ

今回、念願のお墓参りと長篠城の取材見学に行くことができました。地元の方々の日々整備されており、お墓や石碑、城趾などは整備されていました。
今回、鳥居強右衛門と一緒に行動された鈴木金七郎が確認され驚いています。
歴史は本当に奥が深いと思いました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

「鳥居強右衛門」(2023年12月5日 (火) 15:16 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
「長篠の戦い」(2024年1月26日 (金) 07:39 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
桑名市HP
奥三河観光ナビ(鳥居強右衛門の墓、甘泉寺)
note レコの館(やかた)鳥居強右衛門と鈴木金七郎
鈴木金七郎の業績を見直す会のホームページ
引用先のない写真は翔びくらげが撮影しました。

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