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スミルナの街が戦火に包まれるなか、日本人だけが見捨てなかった! ギリシャ・アルメニアの難民800人を救助した「ココロイタイ」日本人船員の心意気!!

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日の丸を掲げる商船 歴史

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希土戦争

ギリシア軍のイズミルへの上陸 引用元:「希土戦争」(2023年11月21日 (火) 01:48 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

第1次世界大戦(1914~18年)で、現在のトルコを支配していたオスマン帝国が敗北しました。

戦勝国となったギリシャはトルコ西部の港湾都市・イズミル(ギリシャ名・スミルナ)を占領し、ギリシャ・トルコ戦争が勃発します。

ギリシャ軍はイズミル周囲に防御線を築き、外交での解決も模索する構えを見せていましたが、トルコ軍は実力行使でイズミルを奪還する作戦に出ます。

1922年8月26日、トルコ軍はイズミル周囲100kmにわたって全面攻勢に出て、数日のうちにギリシャ軍は総崩れとなり追い込まれてしまいます。

1922年9月、ギリシャ軍はムスタファ・ケマル率いるトルコ革命政府の反撃にあい、イズミルはトルコ軍によって奪還されてしまいます。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク 引用元:「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」
(2024年1月23日 (火) 11:15 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導してトルコ共和国を樹立。宗教(イスラム教)と政治を分離しなければトルコ共和国の発展はないと考え、新国家の根幹原理として政教分離(世俗主義)を断行。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、トルコ語表記をアラビア文字からラテンアルファベットへ変更、一夫多妻禁止や女性参政権導入、スルタン制廃止などトルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。現代トルコの国父(建国の父)とも呼ばれる。トルコ共和国の元帥、初代大統領。
引用元:「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」(2024年1月23日 (火) 11:15 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

イズミルの街が戦火に包まれる中、ギリシャ軍の人やアルメニア人が窮地に陥り、イズミルの岸壁に殺到します。

イズミルに停泊していた各国の船は、それぞれ自国民を優先して乗船させるとイズミルを出向していきました。

取り残された難民は、トルコ軍に追われ、混乱し逃げ惑いますが、彼らを乗せ助ける船はありませんでした。

その時、イズミルの港に日の丸を掲げて停泊していた日本の商船がありました。

日の丸から「Tokei  Maru」東慶丸と考えられる船 引用元:Μουσείο Μπενάκη


「Tokei Maru」( 東 慶 丸 )です。

日本はこの戦争では中立の立場でした。

しかし、船の上からこの難民らの苦境を見かねた船長日比左三は、日本へ持ち帰る為に船へ満載に積み込まれていた絹やレースなど、当時はとても貴重であった積荷を海へ投げ捨てるように命じます。

そして、逃げ場を失っていた、ギリシャ人とアルメニア人の難民、約800人を救助し東慶丸に乗船させます。

難民を追ってきたトルコ軍の指揮官は難民たちの引き渡しを要求してきました。

しかし、日比船長は怯むことなく「この船に乗った難民の、たとえ髪の毛一本にでも触れれば日本への侮辱と見なす」と言い放ち、逆にトルコ軍の指揮官を威嚇しました。

ギリシャやアルメニアの人達を攻撃していたトルコ軍はなぜか指揮官だけでなく兵まで、日比船長を始めとする日本人船員に対抗し攻撃するトルコ兵はいませんでした。

エルトゥールル号遭難事件
1890年に日本に来たトルコの軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本町沖で遭難し、船員500人以上が死亡、わずか69名のみが生存するという大惨事が生じました。

この事故で、村民達が何週間も休むことなく懸命な救助活動と手厚い看護を行い、日本全国からも多くの義援金や物資が運び込まれました。

至れり尽くせりの看護のあと日本海軍の船で生存者を無事にトルコのイスタンブールまで送り届けました。

このニュースはあっという間にトルコ国民に伝わります。はるか東の日本という国で遭難したトルコ人を懸命に助けてくれた日本人という情報はトルコ人伝説として残り、多くのトルコ人は日本人に親しみを感じているそうです。
この話はまた整理して記事にしたいと考えています。

このエルトゥールル号遭難からトルコ人は、日本人に対する特別な感情があり、突然現れた伝説の日本人に対し、トルコ人率いる軍隊は感情が混乱してしまい、日本人には手が出せなかったと考えられます。

こうして、女性や子どもを含むギリシャ人・アルメニア人をトルコ軍から守り通した日比船長の東慶丸は、難民達を乗せ、無事にギリシャの港まで送り届けることに成功しました。

日比船長

この日本人船長の勇気ある決断により、800人の命を救われた。救われた難民の証言の数々は船上での日本人の礼儀正しさや、優しさを非常に鮮明に表している。ギリシャでは100年近く前の出来事ながら、この出来事が記憶されている。世代から世代へと語り継がれている。ギリシャ人のなかには「ココロイタイ」という日本語を知っている人が多くいる。あの時、日本の船に救助されたギリシャ人が日本人船員の話した「心が痛い」という表現が口伝えに今のギリシャ人に伝わっている。

ギリシャ、アルメニア両国では東慶丸の船長を「民族の恩人」として英雄視する声が高まっている。アルメニアの首都エレバンの日本学者アンナ・バルダニャンさんは「戦時中、難民の救助は命懸けだったはず」と述べ、「日本人船長の人道的偉業は永く称えられるべき」と語る。また現地報道によると、難民の子孫らの団体は2016年、在ギリシャ日本大使館に謝意を伝えた。同大使館も東慶丸の物語を公式サイトで紹介している。救出劇はアニメとなり、ギリシャとアルメニアで放送された。
引用元:ギリシャとアルメニア難民を命がけで救出した「東慶丸船長」俊平の雑学研究所 アメブロ

この救出劇は、多くのギリシャ人の間で語り継がれてきました。

2017年にはザホス・サモラダスによって「Tokei Maru」という名前の短編アニメ映画が制作されました。

しかし、「Tokeimaru」に関する具体的な記録は残っておらず、助けられた人達の記憶からの伝承は、不確定な所や人によっては異なる記憶などもあり、決定的な確証は得られていません。

ギリシャ近現代史の研究者である東洋大学の村田奈々子教授は、過去の船の記録を調べたり、船会社への聞き取り調査を行ったりした結果、1922年、東地中海に「Tokeimaru」と響きが似た、神戸の東和汽船関連の大連東和汽船の「東慶丸」と判明させます。

また、当時の船長が現在の南知多町出身の「日比左三」という人物だったことも突き止めました。
更に、知多半島に住む日比左三の親族と接触し、左三の母親が熱心なキリスト教の正教会の信者だったことも突き止めたそうです。
なお、村田教授は、東慶丸や日比船長に関する資料について更に有力な情報を探しているそうです。

翔びくらげ
翔びくらげ

世界中で買い求めた高価な商品を海に投げ捨て、800人もの難民を救助した日比船長。ここで捨てた商品の価値はわかりませんが、今でも多くのギリシャ人・アルメニア人に子々孫々と永遠の感謝をされています。このような感謝の気持ちは、お金では決して買えません。
日比船長を始めとする日本人船員の心意気。皆さんに盛大な拍手をしたいと思います。

【参考文献】

「希土戦争」(2023年11月21日 (火) 01:48 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」(2024年1月23日 (火) 11:15 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
東洋大学 村田奈々子教授 調査資料
ギリシャとアルメニア難民を命がけで救出した「東慶丸船長」俊平の雑学研究所 アメブロ
「エルトゥールル号遭難事件」(2024年2月1日 (木) 08:29 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

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