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空海はなぜ高野山開山したのか~高野山開創1200年のはじまり

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松の木に引っかかる三鈷杵 備忘録

高野山は、和歌山県に位置する日本有数の仏教の聖地で、真言宗の開祖である空海(弘法大師)によって816年に開かれました。標高約1,000メートルの山上に広がるこの地は、1200年以上にわたり多くの人々の信仰を集めています

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空海

佐伯眞魚 引用元:ウィキペディア日本語版より

空海(くうかい)幼名は佐伯眞魚(さえきのまお)は、774年に讃岐国(現在の香川県)で三男として生まれました。
幼い頃から聡明で、学問に励み、18歳になると京の大学寮に入ります。

大学寮では儒教や道教、仏教を学びますが飽き足りず、19歳になると大学寮を辞め、奈良吉野金剛山や伊予の石鎚山などで修行に励み、土佐の室戸岬にある御厨人窟(みくろど)で修行に励みました。

この時に御厨人窟から見える景色が空と海だけだったので、後に空海と名乗ることになったと云われています。
空海は大学寮を辞めた後、31歳までの期間、どこでどんな修行したのか詳しい足跡がわかりません。
空海について新たにまとめて記事にしたいと考えています。

804年 31歳になった空海は無名の留学僧として遣唐使として唐(中国)に渡ります。
そして長安の西明寺。さらに西安の青龍寺恵果和尚に師事し、密教の奥義を学びました。

恵果和尚 引用元:ウィキペディア日本語版より


日本で厳しい修行を続けてきた空海は、すでに多くの奥義や知識を得ていたそうです。
西安市南郊にある青龍寺の恵果和尚は、空海が知識と修行を十分積んでいることを見抜き、密教の奥義を授けます。
そして空海は、恵果和尚より正統な継承者として認められ、継承儀式が執り行われました。

8月には伝法阿闍梨位灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。この名は現在まで、空海を尊崇するご宝号として、唱えられることになります。
弘法大師を拝む際、南無大師遍照金剛なむたいしへんじょうこんごう)と唱えるのは、ここからきています。

恵果和尚が60歳で入寂されると、空海は日本へ帰国する準備を始めます。

遣唐使(けんとうし)

日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。

舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は承和5年(838年)。さらにその後、寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣の再開が計画されたが、菅原道真が遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」を提出して中止になり、そのまま遣唐使は再開されないまま、907年に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった。

遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。山上憶良(歌人)吉備真備(右大臣)最澄(天台宗開祖)空海(真言宗開祖)などが名高い。

引用元:「遣唐使」2025年1月8日 (水) 06:49『ウィキペディア日本語版』

806年 10月、空海遣唐使の帰りの船に乗船し無事、博多 津に帰着します。

空海は日本へ帰国途中、明州(現在の寧波の港)の浜辺で、「密教にふさわしい土地があれば、早く帰って示したまえ」と祈願しながら、日本の方向に向かって三鈷杵(さんこしょ)を投げました。

三鈷杵を投げる空海 引用元:「瀬戸の島から」空海の入唐求法 寧波の港で投げた三鈷法は、高野山で見つかった。様より

布教の地を求めて

日本へ帰国した空海は、恵果和尚と約束した真言密教を布教する道場を求め旅をしていました。

大和の宇智郡(奈良)の山中を歩いていると、白と黒の2匹の犬を連れた猟師に出会います。

狩場明神と犬に出会う イメージ画像

空海は猟師に布教に良い場所はないかと尋ねます、すると猟師は「この犬に案内をさせましょう」と言い、その犬に先導させ歩き始めました。

犬が嶮しい山中に導くと、そこでまた一人の美しい女性に出会いました。
「わたしはこの山に住む娘です。この山をよく知っているので、あなたに協力しましょう」と空海をさらに山奥に案内しました。

空海は、以前、唐(現在の中国)から目的の地へ三鈷杵(さんこしょ)を投げた事を山の娘に話しました。

すると山の娘は、「夜な夜な不思議光を放つな松がある所を知っています」。と更に山の奥へ案内しました。

「山の上とは思われない広い野原があり、周囲の山々はまるで蓮の花びらのようにそびえ、これこそ真言密教を広めるのに適したところだ」
引用元:高野山真言宗 総本山金剛峯寺

空海は喜ばれたそうです。

更に、大きな松がそびえ立っていました。空海は松の枝に、光り輝いている三鈷杵が引っかかりっているのを発見しました。

「この地こそ求めていた場所だ」と喜んで、真言密教の開山を決意されたそうです。

高野山へ導いた、この山の娘は、丹生都比売大神でした。
そして、空海が出会った猟師は狩場明神だったのです。

三鈷の松(さんこのまつ)

空海明州(現在の寧波の港)の浜辺で投げた三鈷杵(さんこしょ)は高野山の松まで飛んできました。
三鈷の松の周辺で、下を向いて探し物をしている人がたくさんおられます、これは三本葉の松の葉を探している人達です。

一般的に寺院の境内にある植物や花、木、石などの持ち帰りは厳禁です。
しかし、ここでは落ちている松の葉に限って、持ち帰りお守りにすることが許されているそうです。

現在の三鈷の松は、空海の当初の松から七代目であると言われています。

三鈷杵
三鈷の松 撮影:翔びくらげ
松の葉が3葉になっている 撮影:翔びくらげ
撮影:翔びくらげ

金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた松の木があります。この松の木にこのようなエピソードが残っています。弘法大師が唐より帰国される折、明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲(しうん)たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行きました。後にお大師さまが高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があるとのこと。早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教をひろめるにふさわしい土地であると決心されたそうです。その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」としてまつられるようになりました。現在では参詣者の方々が、縁起物として松の葉の落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされています。
引用元:高野山真言宗 総本山金剛峯寺

高野山開創

高野山は、以前は御社山(みやしろやま)と呼ばれていました。周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの山上盆地にあります。

諸説ありますが、空海は、猟師へ変化した狩場明神と、山の娘に変化した丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)によって導かれ、神領高野山を弘法大師へ授けられました。

当時の日本は、まだ多くの民には仏教は浸透しておらず。多くの民は八百万の神をお祀りしており、神聖な神々が住まう高野山に、異国の仏教を祀り、布教と修行の道場を建てることを、丹生都比売大神の山神様の許可を得たということを示しているのかもしれません。

高野山では狩場明神(高野明神)と丹生都比売大神とを開創に関わる神として尊崇し、壇上伽藍の御社(明神社)においてお祀りされています。
816年(弘仁7年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を嵯峨天皇に願い求めます。
そして7月8日に、高野山を下賜する旨、嵯峨天皇より許可が下りました。

嵯峨天皇 引用元:ウィキペディア(Wikipedia)

高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。
引用元:高野山真言宗 総本山金剛峯寺

総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。
普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。

「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。
山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金剛峯寺)に見立て、山内に建てられた子院のことです。現在では117ヶ寺が存在し、そのうち51ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供しています。
引用元:高野山真言宗 総本山金剛峯寺

壇上伽藍

(一社)高野山宿坊協会・高野山参詣講 高野山パンフレットより

817年(弘仁 8年) 空海がまず最初に整備した場所は、壇上伽藍を建設する地域です。
開創当時は山奥の木々が生い茂る樹海だったと思います。木々を伐採し寺院を建立するための敷地作りは、相当な困難な作業だったことが伺えます。

実恵円明など京都東寺にいた弟子達を招集し、高野山に草堂(草木で作った簡単な小屋)を建て道場開設の準備を進めます。

空海が土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれました。その壇上伽藍は、胎蔵曼荼羅の世界を表しているといわれています。
高野山全体金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の中心核にあたる場所で、壇上伽藍は、多くの人々に密教の世界を目で見てわかるように考え作られたそうです。

聖地に結界を張るイメージ

819年(弘仁10年) 空海は東西、南北にそれぞれ七里の結界を張り、俗世と聖地高野山との境界を作りました。

高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所であったそうで、それを人々へ承知させ、結界内に不浄なものを入れないために、高野山を囲む山々の峰をつなぐ線として、密教の法により結界を張ったそうです。

また高野山全域の結界の中に、更に二重の結界を張り、その二重の結界内部は、のちに信仰の中心となる壇上伽藍を建立する場所としました。

こうして、結界を張り、聖地として張った結界の中に、壇上伽藍を配置できるよう計画し、道場建設に着手しました。

また、高野山開創以来、結界内には次のことも禁止されたそうです。

  1. 肉や魚を持ち込まない。食べない。
  2. 女人禁制。
  3. 遊芸に関わる鳴り物をしない。
  4. 鶏と猫を飼わない。

4つの禁止事項は明治時代まで続きますが、1度だけ天下を治めた豊臣秀吉が、母の3回忌に母を弔う為、笛太鼓や鼓を用いた演芸を聖地で開催した所、空がたちまち暗くなり激しい雷雨となったそうです。

空海日本の神道を尊びながら、真言密教の核、守護神として崇拝していたと思われます。このことは、神仏習合思想の原点になったと考えられます。

高野山は、当初より国の援助は求めず、人々からのお布施や寄付により真言密教私寺建立を目指していたこともあり、常に資金不足が生じていたそうです。

更に標高800mの山頂となる高野山での工事は、人の移動や資機材の運搬に時間と手間、費用が嵩み、大きな足かせとなります。

更に、朝廷から空海香川県満濃池の修築。京都の寺院の開設などの依頼もあり、空海は多忙となってしまい、
高野山の工事に立ち会うことが難しくなってしまいました。

最初に、御社山(高野山)に導いてくれた丹生都比売大神や山の神々を祀る御社(明神社)の建設を始めました。
しかし、空海高野山での建設に直接関わることができたのは、約20年間でした。

御社(みやしろ)明神社

社殿は三つあり、一宮は丹生都比売大神、二宮は狩場明神(高野明神)、三宮は総社として十二王子・百二十伴神(高野山の八百万の神々)が祀られています。

空海を高野山へ導いた、丹生都比売大神狩場明神、そして山の神八百万の神に感謝し、お祀りする神社です。

壇上伽藍の一番西側に配置され周囲は深い森林に覆われ、禁足地になっているそうです。

高野山壇上伽藍の一番大事な場所でありながら、根本大塔などと異なり派手さがないため、多くの参拝者は金堂ののち、根本大塔の方へ足が向いてしまい、参拝される方はほとんどおられないのが残念です。

御社正面 石段の下に賽銭箱が置かれており、ここで祈願するようです。 撮影:翔びくらげ
撮影:翔びくらげ

右から一宮には丹生都比売大神、中央、二宮は高野明神、左側、三宮は十二王子・百二十伴神がそれぞれ祀られています。

撮影:翔びくらげ

社殿は1521年(大永元年)に残念ながら火災で消失してしまいます。
その後、再建されたと思われますが、何らかの原因で再度消失、現在の社殿は1594年(文禄3年)に再建されたものです。

山王院

山王院は御社の拝殿として創建当初より建立された、両側面向拝付入母屋造りです。

社額には「創建は一千年以上遡るが、現在の建物は弘化ニ年(1845年)の再建である」と記載されています。詳細に創建年数が記載されたそのため、空海が生存中に完成が間に合わなかったことも考えられますが、御社への拝殿という重要性を考えると、空海が心血注いで建立し完成させたと考えます。

山王院の山王という名称は、丹生都比売大神を「山の神」として礼拝する場所の意味だそうで「山王」→「山王院」となったと云われています。

御社(明神社)の拝殿として建てられたものです。
毎年このお堂で、1177年(承安三年)から続く御最勝講(みさいしょうこう)。1406年(応永十三年)から続く山王院竪精(りっせい)など重要行事が行われています。

御最勝講(みさいしょうこう)
元々宮中にて『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうぎょう)』という経典を講讃し、国家安穏等を祈る行事でした。高野山では承安3年(1177年)に始まりました。最初はやはり『金光明最勝王経』を講讃していましたが、文永11年(1274年)以降、問答論議に変更され江戸末期までは5日間10座の講席を勤仕されました。現在では2日4座に成りましたが、現在でも厳重に執行されています。

山王院竪精(さんのういんりっせい)
高野山には古来より「学道」として様々な経典や論疏を勉強する習わしになっています。この山王院堅精は高野山に伝わる学道に関する儀式で、当日の夕方から翌日に掛け、密教に関する問答を繰り広げる儀式で、高野山の住職にとっては非常に大切な法会(論議)の一つです。

元の始まりは、山王院の前にございます「明神様(みょうじんさま)」へ奉納する儀式でありました。ある時期、高野山に荒廃期があり、そのころはお坊さんも勉強どころではなく、次第に怠けるようになりました。ところがそれを見守っていた明神様はとうとう堪忍袋の緒がきれて、神世の世界に帰るとおっしゃいました。それを聞いたお坊さんたちは大変だとばかりに早速南都へ二人のお坊さんを使わし、当時行われておりました問答を学んで帰山し、早速明神様の御前で密教問答を繰り広げました。これを見た明神様はいたくご満足なされ、「それならば帰るのはやめて今までどおり高野山を見守ろう。この儀式を行う際は必ず雨を降らせて私が聴聞していることを示そう」とのお言葉をいただき、それ以来この儀式の際に少しの雨が降るようになったとされております。現在でも、この儀式の時に雨が降ると、「明神様がいらっしゃった」と、高野山のお坊さんは益々神様への感謝の念を興さずにはいられないのです。

引用元: 高野山未来創造プラットフォーム もっと高野山 より

山王院への参道 鳥居と狛犬 撮影:翔びくらげ

        山王院の狛犬 とてもスリムでお顔が手塚おさむ調の凛々しいお顔でした。 撮影:翔びくらげ

山王院 撮影:翔びくらげ

参拝者は、金堂から根本大塔の方へ向かうため、山王院の境内は閑散としていました。
個人的には、神聖な雰囲気を満喫できて良いのですが、空海が精魂込めて建立した、素晴らしい壇上伽藍を多くの人に見ていただき、空海に感謝したいと思います。

講堂(金堂)

御社、山王院に次いで建設を始めましたが、残念ながら空海は完成を見ることなく入定されてしまいます。
その後、838年に完成したと云われています。

創建当時は講堂と呼ばれていたそうです。
平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきた建物です。
現在の建物は7度目の再建で、1932年(昭和7年)に完成しました。何度も火災にあうため、現在の構造は鉄筋コンクリート造で作られています。

金堂 引用元:ウィキペディア日本語版
金堂 撮影:翔びくらげ

空海の入定

空海の肖像 引用元:ウィキペディア(Wikipedia)

817年(弘仁 8年)に空海高野山の整備を始めましたが、人の住まない山奥、冬は厳寒の山上という過酷な環境条件の中で、伽藍建立は困難をきわめました。
更に慢性的な資金不足も加わって、工事は思うように進みませんでした。

空海は何度も勧進を行い、檀家や信者にお布施を願い、多くの人々に協力を集め、伽藍の建立・仏像等の制作に、心血を注ぎました。

空海は齢を重ね、老いていく体で朝廷、そして高野山を行脚する日々を送ります。
若い頃に修行し超人的な身体を得た空海にも老いが訪れ、病魔が襲います。

823年(弘仁14年)太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としていましたが、
832年(天長9年)空海は自分の死期を悟り、京都の東寺(とうじ)を去り、高野山(こうやさん)に隠棲します。
そして、穀物を断ち禅定を行い日々過ごしました。

また、高野山において万灯万華会(まんどうまんげえ)の法要を開きました。

835年(承和2年)3月15日 弟子たちを集め、寺院の運営管理や修行に対する心得や戒めを説いた「御遺告(ごゆいごう)」を示しました。

御遺告



更に弟子たちに「3月21日の寅の刻(午前3時から午前5時頃)に入定し、弥勒菩薩のいる場所へ往生して、56億7千万年後に、弥勒菩薩と共にこの世へ戻って来るだろう。それまでの間は、天より仏道に励む者たちを助けるであろう」という遺言を残しました。

3月21日の午前4時頃に空海は奥之院にてご入定されます。享年62歳でした。

御廟橋から奥の院 撮影:翔びくらげ



10世紀に書かれた伝真済撰空海僧都伝』によると、空海の死因は病死とされています。
詳しい病名については判明していませんが、記載内容の症状から、身体に悪性の腫れ物ができ、さらに肝臓障害水銀中毒)と思われる症状が生じ、歴史的背景より想定されるのは「水銀中毒」です。

吉野地方修験者の間で「陀羅尼助」という薬が流行っていたことがあり、この陀羅尼助は、一種の滋養強壮薬として原料に水銀を使用していたこともあったそうです。
また水銀は、仏像の装飾に使われる金メッキの原料になるため、その制作には不可欠で身近なものだったそうです。
空海は、倦怠感筋力の低下口の中の乾き悪心および嘔吐発熱などの症状に悩まされたと思われます。

まとめ

赤枠は空海が直接関わった壇上伽藍の建物 引用元:伽藍御供所 パンフレットより 一部着色
  • 空海は幼い頃から聡明で学問に励み、遣唐使の一員として唐に渡り恵果和尚より正統な継承者として認められる。そして日本での真言密教の布教を託されます。
  • 唐から日本へ帰国中、明州の浜辺から、日本で布教道場を開く場所について導くよう祈願し三鈷杵を投げました。
  • 日本に帰国した空海は道場を開く土地を求め日本中を旅します。奈良の山中で猟師に出会い、連れていた犬に案内してもらい、紀州の山中で丹生都比売大神が変化した娘と出会い、求めていた地に導かれ、明州から投げた三鈷杵を見つける。
  • 嵯峨天皇に願い出て高野山を下賜して頂く。
  • 壇上伽藍の位置に結界を張り、俗世と聖地高野山を区別する結界を築く。
  • 丹生都比売大神、狩場明神、高野山の八百万の神々に感謝し、御社から建立を始めるが慢性的な資金不足、人手不足に悩まさられ工事の進捗が思うようにできない。
  • 空海にいろいろな依頼がなされ、空海が忙しくなる。
  • 空海は齢を重ね、病に侵されてしまう。
  • 壇上伽藍の建設半ばにして、自分の死期を悟り奥の院へ入定する。

延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢(かんげん)の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)と桧皮色の御衣下賜の勅命が下された。その後、観賢とその弟子の淳祐(しゅんにゅう)は下賜伝達のため高野山御廟へ行った。
引用元:「空海」2025年1月12日 (日) 02:46『ウィキペディア日本語版』

翔びくらげ
翔びくらげ

日本を代表する弘法大師が、高野山を築いた足跡を記事にさせていただきました。翔びくらげが長い間、訪れてみたいと願っていた高野山を訪問してきました。壇上伽藍では、弘法大師が実際に土を踏みしめ、心血を注がれたことを思い、感無量の気持ちになりました。「南無大師遍照金剛」。
更に弘法大師に付いて記事を書いていきますのでご期待ください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

高野山真言宗 総本山金剛峯寺 ホームページ
「空海」2025年1月12日 (日) 02:46『ウィキペディア日本語版』
「金剛峯寺」2024年12月11日 (水) 23:11『ウィキペディア日本語版』
「瀬戸の島から」空海の入唐求法 寧波の港で投げた三鈷法は、高野山で見つかった

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