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関東大震災と人間の光と影――英雄と悲劇の記録

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関東大震災被害 歴史

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東地方を襲ったマグニチュード7.9の大地震

東京・横浜を中心に都市を壊滅させました。地震による死者・行方不明者は10万5千人以上にのぼり、その多くが「火災による焼死」であったといわれています。

今回は、「防災の日」を迎え、震災にまつわる「英雄」と「悲劇」を、当時の新聞記事や証言を交えながら描き出し、人間社会に残した教訓を考えてみたいと思います。
※ご注意:この記事では震災後の激しい被害の絵、写真、津波に係る記事、朝鮮の人々に対する残忍な出来事を掲載しています。私達はこれらの出来事を隠すこと無く伝えていかなければならないと思い記事にしています。

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防災の日 関東大震災

1923年(大正12年)9月1日11時58分に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害です。
190万人が被災し、犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占め死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の災害です。

引用元:ウィキペディア日本語版

本所被服廠跡地を襲った火災旋風の悲劇

地震が、午前11時58分32秒という時間に発生したため、昼食の準備をしているところが多く、かまどや七輪に火を起こしている家庭も多かったそうです。
かまどや七輪では、いざというときにすぐに火を消すことができないため、火災の要因となりました。

1923年 家財道具を積んで竹橋付近の内濠に避難した住民 関東大震災 引用元:The Asahi Shimbun/Artefactory

また、可燃物の家財道具(箪笥や布団)を大八車(だいはちぐるま)に載せて避難しようとした者が多くおられて、こうした大量の荷物が人の避難を妨げるとともに、火の粉による延焼の原因となったとされています。

関東大震災を語るとき、最も悲惨な出来事のひとつとして記録されているのが、東京・本所区(現在の墨田区横網)にあった 陸軍被服廠跡地 での惨劇です。ここは当時、広大な空き地で安全だと考えられ、多くの住民が避難していました。その数は約4万人とも言われています。

引用元:ウィキペディア日本語版

しかし、周囲の町から迫ってきた火災と強風が重なり、午後4時頃に突如として「火災旋風」が発生しました。高さ数十メートルに達する炎の竜巻が人々を襲い、逃げ場を失った避難民は一瞬にして炎に包まれました。

その結果、 3万8千人以上が死亡 し、わずか数千人しか生き延びることができなかったと伝えられています。単一地点での犠牲者としては、世界史的にも類を見ない規模の惨事でした。

このとき、現場にいた消防団や青年団の一部は、必死に人々を誘導しようと声を張り上げていました。
記録によれば、「風上に逃げろ!」と叫びながら人々を導いた青年の存在が証言されています。彼自身は炎に呑まれて亡くなりましたが、その呼びかけで数十人が救われたといいます。

生存者の証言は、当時の凄惨な状況を生々しく伝えています。
ある母親は「子どもを抱きしめてうずくまりました。気がついた時には、周囲は遺体の山で、声を上げられる人はほとんどいませんでした」と語っています。

別の証言では、「空から火の玉が降り注ぎ、衣服が燃え上がる人が次々と倒れた。地面に顔を伏せても、熱風で息ができなかった」とも残されています。

こうした証言からも分かるように、被服廠跡地の光景は、まさに地獄そのものでした。
後に、この場所は 横網町公園・東京都慰霊堂 として整備され、毎年の慰霊祭で多くの人々が犠牲者を追悼しています。

横網町公園・東京都慰霊堂  引用元:横綱町公園震災、戦災の記憶HPより
慰霊堂内部  引用元:横綱町公園震災、戦災の記憶HPより

この悲劇は、「広い場所が必ずしも安全ではない」という防災上の教訓を残しました。
火災や風の状況によっては、むしろ危険が集中し、大規模な犠牲を招くことを私たちに教えています。
そして同時に、最後まで声を上げ続けた名もなき救助者の存在も忘れてはなりません。

関東大震災における津波の記録――東日本大震災との比較から

関東大震災では火災や建物倒壊の被害が注目されがちですが、実は 大規模な津波 も発生していました。震源が相模湾北西部の海域であったため、海底地殻の変動によって津波が生じたのです。

記録によれば

・静岡県下田では 約12メートル
・神奈川県三崎では 約9メートル
・房総半島や伊豆諸島の各地でも数メートル規模の津波

が観測されました。津波により漁村は壊滅し、船舶や家屋が流出、多くの人命が奪われました。犠牲者は200〜300人規模と推計されています。

当時の新聞記事には「伊豆大島に大波襲来」「相模湾沿岸の漁村全滅」といった見出しが並び、火災旋風と同様に自然の猛威を伝えていました。

その後の東日本大震災と比較すると、関東大震災の津波は規模や犠牲者数こそ小さいものの、「海域地震の恐ろしさ」を突きつけた事例であったことに変わりはありません。

由比ヶ浜の津波被害の様子 引用元:NHKアーカイブス

この津波により、相模湾や駿河湾、房総半島の漁村が壊滅的被害を受け、多くの船舶や家屋が流されました。
犠牲者数は数百人規模とされますが、正確な数は把握されていません。
東京湾の奥にあたる都心部では、湾口が狭かったこともあり津波の影響は比較的小さく、大規模被害には至りませんでした。

しかし、この津波は「海に近い町では、揺れが収まった直後にも新たな危険が迫る」ことを人々に突きつけました。当時の新聞でも「伊豆大島に大波襲来」「相模湾沿岸の漁村全滅」などの見出しが見られ、火災旋風とともに津波被害も報じられています。

東日本大震災との比較

2011年の東日本大震災(M9.0)でも津波は壊滅的被害をもたらし、死者・行方不明者の大半が津波によるものでした。これに対し、関東大震災では 死者の大部分は火災や建物倒壊 によるもので、津波による犠牲は全体の一部にとどまっています。

それでも、相模湾・駿河湾・房総沿岸の漁村に住む人々にとっては、この津波は生活の場を根こそぎ奪う災厄であり、「火と水」という二重の災害に見舞われたことになります。

津波の教訓

関東大震災の津波は、現在の私たちに重要な教訓を残しています。大規模な地震が海域で発生した場合、火災や倒壊に加え「津波避難」を同時に考える必要があること。そして、震源地や地形によって被害が局所的に集中するため、地震の揺れが収まったからといって安心できないという現実です。


流言と朝鮮人虐殺――恐怖がもたらした人間の闇

震災直後、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火している」といった根拠のない流言が広まりました。
これにより自警団や一部市民が暴走し、多くの朝鮮人や中国人が虐殺されるという痛ましい事件が起こりました。犠牲者は数千人に及んだと考えられています。

千葉県・検見川事件
秋田県出身、三重県出身、沖縄県出身の3人の青年が、震災の被害が大きい東京から逃げてきたところ、京成線検見川停留所近くで自警団に「言葉が違う」と疑われ、拘束されました。
三人の青年は地方出身ということで方言で話し、標準語が話せないということで、警察署の身元証明書を出して哀訴嘆願しても民衆の怒りは収まらず、一度は付近の駐在所が保護したものの、暴徒化した群衆が駐在所から3人を引っ張り出し、日本刀などで殺害され、遺体は川に突き落とされたという凄惨な事件です。
遺族による訴訟も起こされましたが、逮捕者には恩赦が適用され、事件は闇に葬られました。

神奈川県による報告文書
震災後2ヶ月にあたる1923年11月に神奈川県が作成した文書には、57件、計145人の朝鮮人が「犯行の朝鮮人と思い込んで」殺害された事例が記録されています。その中には14名の名前、年齢、職業など詳細もあり、官製文書として非常に重要です。

軍・警察による殺害記録
当時の戒厳司令部がまとめた報告書によれば、軍によって11件・53名の朝鮮人が殺害された記録があります。また、警察による殺傷事例では、逃走した朝鮮人約30名のうち17名が射殺され、その他多数が打ち殺されたと記述されています。軍と警察が共同で殺害行為にかかわったことが明らかになっています。

しかし一方で、暴徒化に抗して犯行を止めようとした日本人の存在もありました。
朝鮮人を匿ったり、僧侶が「同じ仏の子である」と説いて暴力を止めようとした事例も残されており、恐怖と狂気の中に人間らしい良心も確かに存在しました。

鶴見署長による行動
横浜の鶴見警察署長は、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という噂を否定するため、当人たちの前で実際に井戸水を飲んで“毒がないこと”を示しました。
さらに、1000人を超える群衆から多くの朝鮮人や中国人を保護し匿いました。

翔びくらげ
翔びくらげ

これらの事件は、二度と悲劇を起こさないためにも、しっかりと多くの子孫に伝え残していかなければならないと思います。まだデマやフェイクによる情報操作に騙されない、強い意志を持ちましょう。


避難と支援――地方に広がる善意

埼玉・千葉・神奈川の地方での避難支援

震災後、東京・横浜から避難した人々は100万人以上にのぼり、地方への移動や受け入れは地方自治体による行政の支援と、国民による義援金・善意の賜物でした
関西学院大学
。地方へ逃れた避難者は親戚宅や実家に身を寄せ、人々の善意が社会の混乱を緩和しました。このような広域にわたる避難支援の仕組みは、今あらためて見直す価値があります。


名もなき英雄たち

地方自治体や学校などの地域現場で、具体的な名前は記録されていないものの、被災児童を抱えて逃した教師、地域住民を避難させた主婦や青年団など、「名もなき英雄」が多数存在しました。それらの物語は、断片的に地元の体験記や市史に残されており、後の世に伝える価値があります。
教科書やネットで取り上げられることはない「名もなき英雄」に心から感謝したいと思います。


終わりに――未来への教訓

関東大震災は、自然災害が人間社会に及ぼす甚大な影響を如実に示しました。しかし同時に、人間の勇気・利他の心・そして残酷さをも浮かび上がらせました。

被服廠跡地の炎の竜巻で犠牲となった数万人、子どもを守り抜いた教師、地域に支援を差し伸べた住民、そして流言に踊らされ人を傷つけた群衆――これらすべてが「関東大震災の真実」です。

私たちは今、災害大国に生きています。未来の震災に備える上で大切なのは、単に避難所や備蓄を整えることだけではありません。「恐怖が人を狂気に変える」ことを理解し、「他者を思いやる勇気」が社会を救うことを学ぶことです。

関東大震災から100余年。亡くなった人々の魂に祈りを捧げつつ、私たちはその教訓を未来へ語り継いでいかねばなりません。

翔びくらげ
翔びくらげ

南海トラフ巨大地震、首都直下地震などがいつ生じてもおかしくないと言われています。
現在、多くの外国人観光客が日本を訪れています。関東大震災での教訓。東日本大地震での教訓。二度と犯してはならないことを常に心にふまえ地震の対策、避難や助け合いの心得を生かしていきたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

「関東大震災」2025年8月13日 (水) 02:15 『ウィキペディア日本語版』
「関東地震」2025年4月2日 (水) 02:50 『ウィキペディア日本語版』
NHKアーカイブス
朝日新聞 デマ・差別 忘れることこそ「恥」 虐殺事件伝える人の思いは

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