はじめに
太平洋戦争末期、日本の上空には連日、連合軍のB29爆撃機が飛来し、都市を焼き尽くしていました。
戦争は、非武装の多くの市民も巻き込み、多数の犠牲者を出していきました。
その時、日本の迎撃で撃墜されたB29は日本に不時着、そしてパラシュートで着陸した連合軍の乗員。
連合軍のアメリカ人乗組員は迎撃や不時着の衝撃で怪我をし、多くの亡くなる乗員が生じました。
家族を戦地に送り、肉親が犠牲になっている日本人、多くの人は、鬼畜米英と教育を受けて、アメリカ人を憎んでおり、今まで東京を攻撃していたB29の爆撃機が墜落し、その乗組員が目の前に降りてきたらどう思うでしょうか。
しかし、アメリカ人乗組員を感情を抑え冷静に救助した多くの日本人たちがいたことをご存じでしょうか?
今回は、実際の史料や証言を基に、命を救った日本人たちの行動を振り返ります。
空からの侵略者、B29

B29はアメリカが開発した高性能爆撃機で、1944年以降、日本本土への空襲に投入されました。高高度からの爆撃は日本の迎撃を困難にし、多くの都市が被害を受けました。しかし、迎撃部隊の奮闘や高射砲により、いくつかのB29が撃墜されることもありました。

東京大空襲で空爆したB29 つくば市に墜落
約80年前の1945年3月10日、東京大空襲により東京の下町を中心に市民約10万人が亡くなりました。
この東京大空襲では、連合軍の爆撃機B29が約300機、東京上空に飛来し空爆しました。
東京大空襲
1945年3月9日、サイパン島、テニアン島、グアム島に設置された連合軍の飛行場より多数のB29が飛び立った。
目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。東京大空襲・戦災資料センターによれば、大型の軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標で、住民の大量殺害により戦争継続意思を削ぐことが主目的だったとしている。
日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された。
279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功。
当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。
死亡:83,793人
負傷者:40,918人
被災者:1,008,005人
被災家屋:268,358戸
人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。
引用元:「東京大空襲」2025年5月6日 (火) 03:29 『ウィキペディア日本語版』より抜粋

この東京を空爆したB29のうち14機が日本軍に迎撃され墜落、そのうち1機が茨城県板橋村(現在のつくば市)に墜落しました。
三月十日午前二時頃、火だるまとなったB29爆撃機が常盤線牛久駅付近の上空から大きく左右に揺れながらゆっくりと落下してきて、筑波郡板橋村の山林に墜落しました
墜落現場には、巨大な火柱がたち山林が燃えたため、深夜でしたが多くの村人が寝ていた布団から起きて、燃えている山林を見ていたそうです。
山林火災を消火するため板橋村消防団員が墜落現場に向かいました。
炎上するB29の尾翼部分に三人のアメリカ兵を見つけたそうです。

アメリカ兵達は、必死に白いものを振り、戦う意志が無いことを示し英語で叫んでいました。
I will give you this watch, so please help us.
(この腕時計をあげるからわれわれを助けてください)
板橋村消防団の副団長は、旧制中学時代英語学んでおり、アメリカ兵が懸命に叫んでいる言葉を理解できました。
遠巻きに見ていた大勢の村人達も、アメリカ兵が武器もなく戦う意志がないと判ると、だんだん近づいて来ました。

三人は丸腰だ、撃つな、殴るな、助けるんだ、助けるんだ!
副団長は大声で叫びます。
しかし、興奮した村人は、アメリカ兵に恨みを晴らそうと、殴りかかります。
丸腰の三人は身内と同じだ、殴るな!殴りたければ俺を殴れ!
副団長は懸命に叫びました。
副団長の心の声が村人に伝わり、しばらくして、村人は静まりました。
しかし、更に多くの人が集まって来たため、アメリカ兵を安全な場所へ移動させたそうです。
B29に搭乗していたアメリカ兵12人のうち9人は墜落により即死していたそうです。
こうして、3人のアメリカ兵は地元の消防団によって救助されました。
亡くなった9人のアメリカ兵は近くの共同墓地に丁重に埋葬され、村人たちにより木で作られた十字架が設置されたそうです。
救助された兵士たちのその後
救助された三人のアメリカ兵は、土浦憲兵隊に引き渡されたそうです。
そしてそのうち一人はアメリカ兵の将校で、すでに顔など体中に火傷をしており、重症だったそうです。
三人のアメリカ兵は東京に移送されましたが、重症だった将校は、日本陸軍の将校たちに殺害されてしまったそうです。

「生きて虜囚の辱を受けず」という戦時中の日本人精神を強く他人に押し付けた日本の将校たち、多くの若者を特攻隊として送り出し、責任を取ることなく、生き残った将校。
戦争の中で、地位や立場を利用して多くの日本人、アメリカ人を殺めた将校こそ国賊ではないでしょうか。
そして二人のアメリカ兵は麹町の捕虜収容所に収容されました。

1945年5月25日夜、連合軍の東京、山の手地域を攻撃する空爆が発生、麹町、渋谷などの地域も被害を受けます。
そして、捕虜収容所に収容されていたアメリカ兵など捕虜62人が戦火に巻き込まれ亡くなったそうです。
この中には、つくばへ墜落したB29の乗組員二人も含まれており非常に残念です。
おわりに――戦争の記憶を、未来へつなぐ
戦争は国家の命令で始まり、多くの市民の命が犠牲になり、人を殺めること、破壊することが戦果として評価されます。
戦時下、敵対国の人を助けることは、国家として評価してくれない行為かもしれません、その中で勇気を出して「敵を助ける」という選択をした人々は、まさに“もう一つの英雄”ではないでしょうか。あの時、命を救った日本人たちの行動は、私たちに語りかけてくれます。「敵にも家族がいる。命の重さに違いはない」と。この物語が、これからの世界を考えるきっかけになればと強く願ってやみません。

この記事は、実際の史料や証言に基づいて作成されました。戦争の記憶を風化させず、未来へと伝えていくことが、私たちの使命であると感じます。

太平洋戦争では、「お国のため、家族のため」、みんな自らの命を賭けて武器を持ち戦っていました。
そして多くの犠牲者を出し、戦争はおわりました。多くの人が戦争で肉親を失い、悲しみが残りました。戦後、日本人は過ちを心から反省し、今後は、絶対に戦争を起こさない、加わらないと心に決めたと思っています。
しかし、近年、過信というか自信に満ち溢れた一部の国の指導者たちが、再び武力で隣国を攻め、再び愚かな戦争を始めようと交戦が始まっています。
戦争で得るものは「悲しみ」と「憎しみ」だけです。絶対に戦争を拒否し、平和な世界を築いていきましょう。武器を取り合うと戦争になり、手と手を取り合えば平和になります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「B-29 (航空機)」2025年4月22日 (火) 01:56 『ウィキペディア日本語版』
B29墜落 米兵を救った日本人(増補版) 草間秀三郎 論創社刊
ABSニュース「アメリカ兵が語った“墜落”と“救助”」