世界で初めて人力飛行に成功したのは、ライト兄弟ではなく、なんと江戸時代に岡山県に住んでいた浮田幸吉さんです。
今回は、鳥人「浮田幸吉」の生涯について、静岡県の磐田市を訪問し調べてきました。
おいたち
浮田幸吉(うきた こうきち)は、1757年(宝暦7年)に備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市)で生まれました。父は旅館「櫻谷」を営んでいた浮田清兵衛で、幸吉はその次男として生まれましたが、7歳の時に父を亡くしました。
その後、幸吉は親族の傘屋や紙屋に奉公し、表具師としての修業を積みました。
また、歯医者であった客先へ出入りするうちに、入歯の加工技術も習得しました。
これらの技術が、後に飛行機具の製作に役立つことになります。
幸吉は鳥に強い興味を持ち、ハトを捕まえて羽根の長さを計ったり、算術(数学)の本を買い求めて羽根と体の比重を計算するなど、鳥が飛ぶ仕組みの研究に打ち込みました。
鳥が空を飛ぶメカニズムを研究した幸吉は、1785年(天明5年)、岡山の旭川に架かる京橋で飛行実験を行い、約30メートルから50メートルの距離を飛びました。
しかし、京橋周辺では「鳥人が空から降りてきた」、「白い羽をつけた天狗が空高く飛び回った」と、幸吉の飛行を目撃した町の人々が大騒ぎをしました。
封建時代(ほうけんじだい)のこと、この実験で街中を騒がせたことで、すぐに駆けつけた侍に取り押さえられ、「奇行をもって人を騒がせた」と、打ち首になるところでしたが、岡山藩主、池田治政の温情により、翼は没収されてしまいますが、所払い(居住の藩・町村から追放し、立ち入りを禁止する刑)で許されました。
幸吉が初めて空を飛んだことは、米国のライト兄弟より110年以上も前のことでした。
静岡に移住
幸吉は、駿河府中藩(駿府藩)(現静岡)へ引っ越して雑貨商「備前屋」を開業します。
幸吉がかつて学んだ入れ歯作り、時計修理を副業として、備前屋は繁昌しました。
しかし、幸吉の空へのあこがれは尽きず、51歳のとき、最後のチャンスと安倍川の河原にて、家族や職人に綱を引っ張ってもらい空中散歩を行いました。
こうして幸吉は再び藩に捕まってしまいます。
府中藩(現静岡)を追放となった幸吉は、大和田友蔵の世話になり、遠江国見附(現 静岡県磐田市見付)に引っ越した幸吉は、飯屋を営み、1847年(弘化四年)8月21日91歳で波乱の人生を終えました。
磐田市の大見寺の墓地に埋葬されました。
大和田友蔵
静岡県磐田市見付の人。
遠江国大和田(現在の静岡県磐田市大原)の農民庄兵衛の次男と伝わる。
相撲取りのような体格で米二表を両手にぶら下げる程の力持ちでありながら、人間ができていた。
喧嘩を嫌い、土地の紛争をよく解決した。中泉代官所が近くにあったことから十手を預かり、清水次郎長も兄貴分として敬っていた。
引用元:任侠大辞典 YAKUZA WIKI
日照山 大見寺
磐田市の大見寺の墓地に埋葬されました。
大見寺に訪問し、浮田幸吉さんのお墓にお線香をあげさせていただきました。(合掌)
大見寺の境内には幸吉が作った飛行機の模型が展示されていました。
幸吉が初めて空を飛んだ1785年から約210年後の1997年(平成9年)、旧岡山藩主の池田家、第16代当主、池田隆政氏より、浮田幸吉の岡山所払いが赦免(罪を許し、 刑罰 を免除すること。 また、課せられるべき 責務 などを免除すること。)されたそうです。
池田 隆政(いけだ たかまさ)
1926年(大正15年)10月21日 – 2012年(平成24年)7月21日)は、日本の実業家。昭和天皇と香淳皇后の第4皇女・池田厚子(順宮厚子内親王)の夫。旧岡山藩主池田侯爵家の第16代当主。
ライト兄弟の初飛行より100年以上も前に空を飛んだ日本人がいたことに驚愕し、今回調べて見てなんで大きく報じられないのだろうと疑問を感じました。
今回、大見寺の浮田幸吉さんの墓前に参拝させていただきましたが、残念ながら浮田幸吉さんの墓を示す看板もなく、お寺の方にお聞きしてお墓が確認できた次第です。
一人でも多くの方に浮田幸吉さんの偉大さを語り継いで欲しいと切に思いました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。