戦国時代、四国の覇者として名を轟かせた男がいます。
土佐の小大名から身を起こし、わずか一代で四国統一を果たした戦国武将――長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)です。
静かで学問好きの青年が、やがて「鬼若子」と呼ばれるほどの武勇を発揮し、織田信長や豊臣秀吉にも一目置かれる存在となりました。本記事では、元親の生涯を「生い立ち」「戦での活躍」「関ヶ原の敗北後」までたどり、その波乱の人生を紹介します。
生い立ちと「姫若子」と呼ばれた少年時代
長宗我部元親は、1539年(天文8年)に土佐の岡豊城(現在の高知県南国市)で生まれました。
父は土佐の国人領主・長宗我部国親(くにちか)、母は美濃の出身、本山氏の娘など諸説あります。
幼い頃の元親はおっとりとした性格で、軟弱ともうつけ者とも評され、家臣たちから「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれていました。
しかしその穏やかな外見の裏には、静かな闘志と観察力を秘めていました。成長するにつれて剣術・馬術・槍術に秀で、特に槍の扱いにおいては家中随一の腕前となります。
元親が生きた土佐は、当時いくつもの勢力が割拠していました。父・国親は周辺の国人衆と争いながらも、家の再興を成し遂げた人物です。元親はその背中を見て育ち、やがて「土佐をまとめたい」という大志を胸に抱くようになりました。
槍の名手として覚醒 ― 長浜の戦いと「鬼若子」の名

元親の転機は、1560年(永禄3年)に訪れます。22歳のとき、土佐の長浜で初陣を迎えたのです。
この戦いは、宿敵・本山氏との激戦でした。
「元親記」によると、元親は、初陣に際し家臣の秦泉寺豊後より槍の使い方と大将の行動を授かります。
「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」
元親は白い甲冑に身を包み、元親はその通りに行動し、敵兵を見事に突き崩し長槍を振るって敵陣に突入します。
その勇猛な戦いぶりに家臣たちは驚き、かつての「姫若子」は一夜にして「鬼若子(おにわこ)」と呼ばれるようになりました。
この初陣での勝利を機に、元親は家中の信頼を一身に集め、父の跡を継ぐ準備を整えます。
土佐統一への道と四国制覇
永禄8年(1565年)、父・国親が亡くなり、元親は家督を継ぎます。
当時の土佐では、本山氏や一条氏など複数の勢力が競い合っており、情勢は混沌としていました。
元親はまず本山氏を攻略し、次いで土佐西部の一条氏を滅ぼします。元亀元年(1570年)頃には、ついに土佐一国の統一を達成しました。
さらに元親は勢力を四国全域へと拡大。阿波(徳島県)の三好氏、讃岐(香川県)の十河氏、伊予(愛媛県)の河野氏など、四国の有力大名たちを次々と圧倒します。

その過程で彼は武勇だけでなく、政治家としての手腕も発揮しました。
検地を行い、軍役や年貢の制度を整備し、農民保護の法度を定めて民政を安定させます。
これらの施策は後世「長宗我部地検帳」として知られ、今なお歴史資料として高く評価されています。
織田信長との対立と豊臣秀吉の四国征伐
四国制覇を目前にした元親の前に現れたのが、天下統一を進める織田信長です。
当初、信長は元親と友好関係を保ち、土佐・阿波の領有を認めていました。
しかし、元親が勢力を讃岐・伊予へ広げると状況が一変。信長は四国征伐を決定し、羽柴秀吉・明智光秀らに討伐を命じます。
ところが、1582年(天正10年)、本能寺の変によって信長は明智光秀に討たれます。
これにより一時的に元親は安堵しますが、後に天下人となった豊臣秀吉が再び「四国征伐」を断行します。
1585年(天正13年)、秀吉軍15万が四国に上陸します。
元親はわずか2万の兵で抗戦しましたが、多勢に無勢。
ついに降伏し、土佐一国のみの支配を許されることとなりました。
ここに、元親の四国統一の夢は潰えたのです。
豊臣政権下での苦悩と長宗我部信親の死
秀吉に臣従した後、元親は土佐一国の領主として存続を許されましたが、豊臣政権の命令には従わざるを得ませんでした。九州征伐や朝鮮出兵にも兵を派遣し、領国経営に苦しみます。
最も大きな悲劇は、嫡男・長宗我部信親の戦死でした。
信親は聡明で武勇にも優れ、元親が心から信頼する跡継ぎでしたが、1586年(天正14年)の豊後戸次川の戦いで戦死してしまいます。
元親は信親の戦死を悲しみ、島津の陣に家臣を遣わし、信親の遺骸を乞い受けて、高野山の奥の院に埋葬したそうです。
信親への期待が大きかったため、戦死したことの打撃も大きく、岡豊城に帰った元親は、優しく寛大な武将から、猜疑心の強い武将と性格が一変したそうです。
以後、家中の統制も乱れ、四男・盛親の後継問題などで家臣団の分裂も起こりました。
関ヶ原の戦いと長宗我部家の滅亡
1600年(慶長5年)、天下を二分する関ヶ原の戦いが勃発します。
元親の次男・長宗我部盛親は、西軍の石田三成方に加わりますが、戦は東軍・徳川家康の勝利に終わりました。
敗北後、長宗我部家は改易の処分を受け、領地である土佐は没収されます。
このとき、元親はすでに隠居しており、戦の結末を知ると深く嘆いたといわれています。
「我が家の運も尽きたか」――それが元親の最後の言葉だったとも伝わります。
最期と「土佐の英雄」としての遺徳
慶長4年(1599年)、長宗我部元親は京都伏見邸で病没しました。享年61。
生涯を通じて戦い続けた元親でしたが、最期は床の上で静かに息を引き取ったといいます。


彼が残した「長宗我部地検帳」は、日本史上でも極めて貴重な土地制度の記録であり、彼の政治的才能を示す遺産です。
また、百姓や民を守る政治姿勢は、後の土佐藩にも受け継がれました。
やがて土佐は山内一豊の領地となり、長宗我部家は一時表舞台を去りますが、元親の名は今なお「土佐の英雄」として語り継がれています。
まとめ ― 土佐の雄、長宗我部元親が遺したもの
長宗我部元親の生涯は、まさに戦国の縮図といえるものでした。
小さな国から始まり、槍一本で四国を制し、天下人と渡り合った土佐の武将。
敗北も裏切りも味わいましたが、彼が見つめ続けたのは「家の存続」と「民の安寧」でした。
その生き様は、現代にも通じる信念と誇りの象徴といえるでしょう。
今も高知県には、元親ゆかりの地が多く残されています。
もし高知を訪れることがあれば、「土佐の風雲児」長宗我部元親の足跡をたどってみるのも良いかもしれません。

私も2020年に高知を訪問して、元親公のお墓に参拝してきました。
嫡男・信親の戦死により、名将として名高い元親公の性格が一変してしまったことは
とても残念ですが、信親への期待は尋常ではなかったのでしょう。
もし信親が生きていたら、日本の歴史はかなり変わっていたのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「長宗我部元親」2025年10月1日 (水) 14:00 『ウィキペディア日本語版』
「長宗我部信親」2025年10月1日 (水) 13:32『ウィキペディア日本語版』
「元親記」長曾我部元親記 国会データベース
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