虚舟(うつろぶね)という伝説が、日本各地の民俗伝承に登場しています。
その中でも江戸時代に常陸国の海岸に漂着した虚舟の伝説が有名です。
今回は、その虚舟伝説について深堀りしてみました。
うつろ舟伝説
「小笠原越中守知行所着舟/常陸国舎ヶ浜と申所へ/図之如くの異舟漂着致候/年頃十八九か二十才/くらいに相見へ少し/青白き顔色にて/眉毛赤黒く髪も同断/歯は至て白く唇紅ニ/手は少しぶとうなれと/つまはつれきれい/風俗至て宜しく/髪乱て長し/図のことくの/箱にいか成大切/の品の由ニ候て/人寄セ不申候/音聲殊の/外かんば/しり/ものいゝ/不方/姿はじん/ぜうニして/器量至て/よろしく/日本ニテも/容顔美/麗といふ/方にて/彼国の/生れとも/いふべきか」「一 鋳物弐枚至て和らかな物/一 喰物菓子とも見へ亦肉ニ□/煉りたる物有之/喰物何といふ/事を不知/一 茶碗様の/もの一ツ/美敷もよふ/有之石とも/見へ/一 火鉢らしき物壱ツ/□明ホリ有鉄とも見/亦ヤキモノ共見/一 船中改候所如斯の文字有之/右之通訴出申候」
「小笠原越中守知行所着舟/常陸国舎ヶ浜と申所へ/図之如くの異舟漂着致候/年頃十八九か二十才/くらいに相見へ少し/青白き顔色にて/眉毛赤黒く髪も同断/歯は至て白く唇紅ニ/手は少しぶとうなれと/つまはつれきれい/風俗至て宜しく/髪乱て長し/図のことくの/箱にいか成大切/の品の由ニ候て/人寄セ不申候/音聲殊の/外かんば/しり/ものいゝ/不方/姿はじん/ぜうニして/器量至て/よろしく/日本ニテも/容顔美/麗といふ/方にて/彼国の/生れとも/いふべきか」「一 鋳物弐枚至て和らかな物/一 喰物菓子とも見へ亦肉ニ□/煉りたる物有之/喰物何といふ/事を不知/一 茶碗様の/もの一ツ/美敷もよふ/有之石とも/見へ/一 火鉢らしき物壱ツ/□明ホリ有鉄とも見/亦ヤキモノ共見/一 船中改候所如斯の文字有之/右之通訴出申候」
引用元:西尾市岩瀬文庫 漂流記集
流れ着いたのは常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の舎利浜と考えられます。
若く身なりのよい美女が乗っていたが、言葉は通じず、どこの国の人かは不明。
白木の箱を大切そうに抱え、人を寄せ付けようとしない。船の中には謎の文字があった―とあります。
星福寺に残る伝説
茨城県の舎利浜から車で約30分、距離が約20km離れたところに星福寺という真言宗智山派のお寺があります。
このお寺にうつろ船伝説に関連する秘宝が保管されています。
抜粋
縁起によれば、桑の宇津魚舟が塩路常陸なる豊良浦に漂流、時に欽明帝十三年(584)所の漁士権太夫
その浮流木を薪にせんと打破り見れば、金色瑩々たる姫宮光明赫々なるをみ黒塚権太夫大いに驚き、家にもち帰り大事に養育せり。
父大王からは汝仏法流布の国に行き蒼生を済度せよと、今比の浦にに流れてきた、霊記によれば蚕虫化した姫宮は、桑の葉を食し重ねるに宿縁ありて繭となる。其時影道仙人ありて之を糸と布とにし、寒暑を防ぐ衣服とすることを教え、後権太夫富を得、諸国を巡り蚕業の普及を計り一字建立し尊霊を安置し、蚕霊尊と称し、毎年十一月酉の日を礼典、怠ることなく守護、されば絹は豊良浦より起こり常陸絹として名誉後に伝う、・・
星福寺に祀られている、蚕霊尊 「馬鳴菩薩」 が金色姫と言われており、この金色姫が、先に書いた、舎利浜に漂着したうつろ舟(UFO)!?から現れた異国の女性の原型ではないかと言われています。
星福寺のご住職にお願いし、金色姫の木造を拝見させていただきました。
御本尊の裏側のため、暗く写真写りが良くありません。
厨子に納められた金色姫像は木製立像で、帯紐のところは黒く着色されている様で、製作されたときは全体的な薄く着色がされていたかもしれません。
製作年数はわかりませんが、虫食い状況などから鎌倉時代より前の制作と思います。
下の二人は金色姫に御付きの女官だそうです。
金色姫は美しい女性に成長し、多くの豪族から求婚されたそうです。
しかし、金色姫はいつの日か行方が分からなくなり、残された衣服の中に蚕がいたそうです。
その蚕は、桑の葉を食し、いつの日か繭となり糸を生成し、布を作る材料となったそうです。
その後、蚕業として普及し常陸絹として新しい産業となったそうです。
蚕霊神社に残る伝説
星福寺から歩いて3分のところに、蚕霊神社があります。
この神社でも金色姫と思われる伝説が残っています。
御祭神
大気津比売命 創建年代は不詳
大気津比売命は『古事記』において五穀や養蚕の起源とされています。
社務所がなく、宮司さんも不在のようでした。まだ新しく赤い塗装が施された拝殿です。
赤がベースに、装飾がきれいに描かれていました。まだ新しく豪華なご本殿です。
神栖町の日川(にっかわ)地区は、欽明天皇の時代(6世紀中頃)に金色姫がインドより養蚕を伝えた養蚕発祥の地と言い伝えられています。
この地区にある蚕霊山千手院星福寺と蚕霊神社はもともとは一体のもので、養蚕の神として人々の信仰をあつめていました。
『南総里見八犬伝』などで有名な滝沢馬琴も星福寺発行のお札を見て、衣襲明神(きぬがさみょうじん)の錦絵の文章を書いています。
神栖の町域では、農家の副業として明治中頃より養蚕が急速に広まり、明治時代末には繭の生産額が水産物を追い越すほどになりました。また、この鹿南地方は気候が温暖なため、蚕の卵を取る蚕種製造に適していたようで、昭和初期には4軒の蚕種製造業者の名前が見られます。
その後、群馬県の蚕種製造業者が木崎地区に出張所を置き、また居切地区には鹿島蚕種共同施設組合の蚕種製造所ができました。これは県内でも一、二を争う大規模なもので、170軒もの農家に卵を取るための蚕の生産を委託していました。
太平洋戦争が始まると食糧増産のため、桑園は芋畑に代わり、戦後も澱粉製造のためのさつま芋の生産が盛んとなり、養蚕業は衰退していきました。
昭和30年代後半には、澱粉製造も下火になっていく中、再び養蚕が見直され、大野原地区や平泉地区では桑園を造成し、大野原養蚕組合も結成されました。組合は千葉県我孫子市の製糸工場と契約し、年6回の繭の出荷を行っていました。しかし、鹿島開発による住宅の密集化や繭の価格の下落などの理由から養蚕は困難となり、昭和58年をもって養蚕の永い歴史の幕を閉じたのです。
引用元:神栖町歴史民俗資料館第19回企画展「蚕物語-天の虫・糸の虫-」より
まとめ
金色姫伝説
欽明天皇御代(539-571年)、北天竺の旧仲国の霖夷大王と光契夫人の間に金色皇后(金色姫)という娘がいた。夫人は病で亡くなり、王は後妻となる后を迎えたが、后は金色姫を疎み、王の目を盗んで、姫暗殺の奸計を巡らせた。
第一に、獅子王という獣が巣食う師子吼山に捨てさせたが、獅子王は金色姫を襲うことなく丁重に宮殿に送り届けた。第二に、鷲、鷹、熊などが巣食う辺境の鷹群山に捨てさせたが、鷹狩のために派遣された宮殿関係者が発見した。第三に、海眼山という不毛の孤島に流させたが、漂着した漁師に保護された。第四に、清涼殿の小庭に埋めさせたが、約100日も経った頃、地中から光が差したので、王が掘らせたところ、金色姫がやつれた姿で救い出された。事情を知り、姫の行く末を案じた王は桑で作った靭(うつぼ)船に姫を乗せ、海に流した。この船は常陸国の豊浦湊に漂着した。
豊浦湊に住む漁師、権太夫夫婦が金色姫を救い面倒を見たが、姫は空しく病に倒れた。ある夜、夫婦の夢枕に姫が立ったので、唐櫃を開いたところ、亡骸はなく無数の虫が動いていた。金色姫が靭船で流れてきたことから、桑の葉を与えたところ、虫は喜んで食べ、次第に成長した。ある時、虫は桑を食べず、頭を上げてわなわなと震え出した[8]。夫婦が心配していると姫が再び夢枕に立ち、この休みは継母から受けた受難の表れだと告げた。「獅子の休、鷹の休、船の休、庭の休を経て、靭船の中で繭を作ることを覚えた」という。姫が告げた通り、虫はしばらくして繭を作った。
夫婦は筑波山の「影道(ほんどう)仙人」(蚕影道仙人とも)に繭から綿糸を紡ぐ技術を教わった。さらに筑波に飛来された欽明天皇の皇女各谷姫に神衣を織る技術を教わった。これが日本における養蚕と機織の始まりという。
養蚕と機織を営んだ夫婦は、靭船が辿り着いた豊浦に御殿を建立、金色姫を中心に、左右に富士と筑波の神を祀った。
この金色姫が、同県大洗町に伝わる「虚船」伝説の中で船に乗っていた異国の女性のモデルになったのではないか、という説もある。
引用元:「蚕影神社」2024年2月6日 (火) 18:31『ウィキペディア日本語版』
今回、茨城県の舎利浜に漂着したうつろ舟を調べていくと、神栖市の星福寺に祀られている、蚕霊尊 「馬鳴菩薩」 が金色姫と呼ばれており、この金色姫がうつろ舟から降りてきた異国の女性のルーツではないかということがわかりました。
さらに、神栖町の蚕霊神社、つくば市の蚕影神社、日立市の蚕養神社の3つは、あわせて「常陸国の三蚕神社」と呼ばれており、金色姫伝説が残っており、興味深いのは、海(川)だけでなく船が流れてこない山でも同じ地名が存在していることです。
〇日本一社の蚕影神社: つくば市神郡豊浦(隣りにある老人保健施設「豊浦」にその名が残っています)
○日本最初の蚕養神社: 日立市川尻町豊浦(近くには小貝浜=蠶飼浜があります)
○日本養蚕事始めの蚕霊神社: 鹿島郡神栖町日川(豊良浦)
いずれの地名も豊浦(豊良)の名が登場するのは、大変興味深いものです。
もしかすると、うつろ舟は、飛行船だったのではないかと想像力を掻き立てられます。
もし空を飛んだ飛行船であればUFOと呼ばれている乗り物も納得ができます。
星福寺と蚕霊神社を比較すると、年代などに矛盾も見られ、今後整理して見て行く必要もありますが、
今回、うつろ舟は、養蚕により絹糸や絹の布を作り、日本の衣服の発展をもたらしたことがわかりました。
今後も引き続き、調べていきたいと思います。
うつろ舟の伝説が、多少信憑性が向上したと思います。さらなる調査でうつろ舟の真実について検証していきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。