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羊太夫の伝説は本当にあった史実だった! 羊太夫の足跡を訪ねて2

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歴史

知れば知るほど謎が深まる羊太夫
前回、訪問できなかった、羊太夫の足跡を求めて再び群馬県、埼玉県と訪問してきました。

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羊太夫伝説は

羊太夫の足跡は、群馬県、埼玉県を中心に、遠くは愛知県にもあります。今回、各地を訪れて感じたことは、「千年の時代を経ても地元の人に大切にされている人物」と強く感じました。

多胡碑のある吉井町の町誌によると、多胡碑は、土地の人達からは「羊様」と称され、神様として祀られ、又、羊太夫の伝説で大層親しまれているそうです。

前回、訪問できなかった群馬県と埼玉県の羊太夫の足跡を訪れて来ました。

住吉神社

住吉神社は、羊太夫の時代には「北向不動尊」として地元に知られていましたが、明治時代廃仏毀釈により住吉神社と改められました。神社の東を流れる大沢川を渡った所に、不動様の奥の院があったことから不動院と呼ばれています。

廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)
仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦(仏教の開祖)の教えを棄却するという意味である。
引用元:「廃仏毀釈」(2023年12月8日 (金) 13:37 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

羊太夫の居城であった八束城の麓にあり、羊太夫とのつながりが考えられます。
子供のいなかった羊太夫のご両親は、子宝に恵まれるように御祈願したのが、この不動尊です。
その祈願が成就し生まれたのが、羊太夫だそうです。

立派な杉の木、歴史を感じさせる鳥居が建っています。鳥居をくぐると空気が濃く感じました。

住吉神社の本殿 翔びくらげ撮影

祭神は底筒男命日本武尊須佐之男命菅原道真公など、二十二柱です。
神主さんが常駐されていない神社で、森の中にひっそりと社殿が建っていました。
神社の境内の奥を進むと細い道があり、赤い手すり(部分的に壊れている)に掴まり、注意しながら下っていくと少し開いた場所に小さな渓谷がありました。

霊験あらたかな「お不動様」が祀られています。

このお不動様は、羊太夫を授けたこと。
さらには奈良の都より羊太夫の討伐を命令された、広島宿祢は不動様に朝敵討伐の祈願をすると。羊軍が潜伏している場所を、夢で広島宿祢に教えたそうです。

翔びくらげ
翔びくらげ

お不動様は羊太夫の守護神ではなかったのでしょうか。
広島宿祢に「夢で羊太夫の居場所を教えた」というのは、羊太夫が討たれた後に、歴史が塗り替えられた1ページに思います。

羊太夫の舟石

舟石は住吉神社の道を挟んだ斜め向かいにあります。

道路に面して落ちそうな巨大な石が無造作に置かれています。

伝説では羊太夫はこの舟石に乗って移動していたのか詳しく書かれていません。
権田栗毛にまたがり、八束の小脛の従者と空を飛んで奈良の都に参内していた羊太夫。ある夏の日に寝入っていた小脛の脇の下に生えていた羽根を抜いてしまうと。小脛はもう空を飛べなくなり、奈良へ参内できなくなったそうです。参内に行けなくなった羊太夫は謀叛の疑いがかけられ、朝廷から討伐軍を向けられます。戦いに破れた羊太夫は愛馬の権田栗毛にまたがり、この舟石に乗ってこの地に逃れ、金色の蝶と化し飛び降り自害した。と伝えられています。

翔びくらげ
翔びくらげ

読んで考えれば考えるほど矛盾している説明文ですね。
権田栗毛が飛べるなら、そのまま奈良まで飛べば参内できたのでは?。金色の蝶に変身したのであれば飛び降りて自害しなくても良かったのでは?。などなど考えてしましました。

大きな舟石 翔びくらげ撮影

正面から見ると船のような形をしています。
世界各地に巨石で飛んだと言われる、伝説が残る遺跡があります。古代人は重力を操作できる技術力を持っていたのでしょうか。

七輿山古墳

七輿山古墳は、6世紀前半につくられた三段築成の前方後円墳です。6世紀代の古墳としては東日本最大級のもので、全長150メートル、前方部幅115メートル、後円部径85メートル、高さは前方部・後円部ともに16メートルの大きさです。

七輿山古墳
群馬県藤岡市は6日、国指定史跡の七輿(ななこし)山古墳(同市上落合)の墳丘が全長150メートルで、6世紀築造の前方後円墳では国内3位と判明したと発表した。2年前に早稲田大学、県立歴史博物館と共同で最先端のGPS測量と地下探査レーダーで調査、多数のデータを集めて解析した。

調査前まで墳丘の長さは145メートルとされており、検証の結果5メートル更新した。「最先端の探査技術で精度が上がったため」という。

6世紀代の前方後円墳では第26代継体天皇の陵墓と考えられている今城塚古墳(大阪府高槻市、190メートル)、東海地方の有力者の墳墓とされる断夫(だんぷ)山古墳(名古屋市、151メートル)に次ぐ長さだ。

県立歴史博物館の右島和夫特別館長は「同一人が設計したと思われるほど断夫山古墳の構造と酷似している」とし、断夫山古墳の被葬者が天皇家と深い関係にあったとされることから、「七輿山古墳の被葬者は当地を支配していた有力者で、大和政権と近い関係にあった可能性がある」と話している。
引用元:朝日新聞デジタル(野口拓朗氏)より


羊太夫には正妻側室、そして子供達がいたようです。詳しい子供については資料が残っていません。

朝廷の討伐隊との主戦場から少し離れた、この地に、羊太夫が妻や娘、側室など女性達を逃し、「戦いに勝った暁に落ち合おう。」と約束します。しかし多勢に無勢、羊太夫はとうとう戦いに破れてしまいます。

羊太夫の無事を祈っていた女性達は、覚悟を決め自決しました。
羊太夫に世話になっていた村人たちは、羊太夫の家族の亡骸を、既に築造されていた「七輿山古墳」にそれぞれ輿に乗せ合葬したと思われます。そこからなのか「七輿山」と言う名称が伝えられています。
築造時より「七興山」という名前なのか、本来であれば違う名前の古墳であったのか、記録がなくわかりません。残っているのは、ここで落ち合おうと約束した地なので、現在、「落合」という地名が残っています。

・都にはかねてから羊をうとましく思っている者たちがいるが、羊が一年近く参内しないことを謀叛の企てをしているからだと天皇に訴え、羊を討伐する事になる。
・阿芸の国の広島宿祢長利という者が軍勢を率いて上州に向かう。羊は6人の家来のうち、中尾源太に妻子と6人の侍女たちを託し、戦場から逃がす。
・残った家来と小脛とともに宿祢の軍勢と戦うが、多勢に無勢で結局は追いつめられ、羊は蝶に、小脛は鳶の姿になって飛び去る。
・広島宿祢は大沢不動に朝敵討伐の祈願をする。夢のお告げにあった場所に行くと、羊と小脛が切腹し、自らの首を切って死んでいた。
・羊太夫の甲冑と弓矢は岩になり、山の上に残った。名馬・権田栗毛は天子谷の観音となったと言われている。
・中尾源太は追っ手から逃れて落合村(今の藤岡市上落合のあたり)にたどり着き、小さな寺を見つけ、羊の息子をかくまって欲しいと頼む。
・源太と羊の妻、侍女たちは追っ手が来る前に自害する。
・寺の僧侶は村人の助けを借りて7つの輿(こし)を作り、7人の女性たちをひとりずつのせ、近くの山に葬った。それでこの山は七輿山と呼ばれている。源太もまた近くに埋葬される。
・僧侶の寺は源太を開祖として山号を七輿山とされた。
・寛永年間に堀越外記という人が西平井常光寺より石室関梁和尚を招いて開山し、今は曹洞宗になっている。
引用元:『現代語訳・羊太夫栄枯記』蘭藍沐・訳 (原文のまま)

翔びくらげ撮影

七輿山古墳は、藤岡市にあり、多くの羊太夫の遺跡が残る高崎市の隣です。
この藤岡市でも七輿山古墳の保存や整備が徹底されていました。

七興の門という、何十台も駐車できる駐車場、常に清掃されているきれいなトイレ、展示室、休憩室など有名な観光地と同等の施設が設置されています。

七輿山古墳遠景 翔びくらげ撮影
七越山古墳の案内 翔びくらげ撮影

七興山古墳の前方側にを登っていくと、すぐに開けた場所に出ます。
しかしそこの光景は知らない人が見たら恐怖に慄くことでしょう。
そこに五百羅漢が鎮座しているのですが、ほぼすべての首が無くなっています。!!
私もネットで見て知っていたのですが、実際に見て背筋が凍りました。

これらは、先の住吉神社の項目で説明した、「廃仏毀釈」が起こり、過激な村人が「仏像は不要」と、羅漢の首を切断し古墳内に捨てた人々がいたのだそうです。

七越山古墳の上 翔びくらげ撮影
古墳の上、首のない羅漢が置かれています 翔びくらげ撮影

羊太夫足跡を辿る旅2まとめ

多胡資料館に展示されている多胡石のレプリカ 翔びくらげ撮影

2度に渡り、群馬県高崎市へ赴き、羊太夫の足跡をたどりました。
思っていた以上に、羊太夫の遺跡、伝説が多く残っており、まだ廻りきれていません。
歴史では、勝者敗者の歴史を塗り替えていく事が多く、敗者の記録は多くが失われ、長い年月とともに村人たちの口伝や記憶からも消え、消え去ってしまうことも少なくありません。
しかし、羊太夫は、奈良の都から反逆者というレッテルを貼られ討伐されてしまいます。しかし、治めていた村の政治は村人のために生かされていたことから、多くの村人にはとても良い村長であったことが考えられます。
羊太夫が亡くなってから、村の長い歴史の中で羊太夫に関連する施設は村人から大切に遺跡として残され、公にできない部分は隠され「忘れてはならない人」として強く代々語り継がれ、現在は伝説として残されてきたと考えられます。

大島火まつり/8月16日
夏のお盆に祖先の霊を迎え、送る百八燈の行事で、ここでは更に祖先の霊にその年の村民の願いをこめて祈願する行事に発展したものです。
火まつりの歴史は、奈良時代の和銅年間から始まったと伝えられています。善政を敷き、領民から信頼が厚かった大島地区の城主羊太夫宗勝謀反の疑いをかけられ落城したのを機に、住民たちが百八燈の文字を捧げて、城主の霊魂を祭るとともに住民の願いを込めたのが始まりとされています。
引用元:富岡市観光協会

羊太夫奈良の都に日参していたことが伝説で残っていますが、現代では新幹線飛行機で行くことは可能ですが、約1300年前に果たして日参ができたのか!?。という疑問が残ります
関東の各地の有力豪族の都、若建(ワタカケル)大王の斯鬼宮(シキノミヤ)などは羊太夫の居城より数十キロのところに有ったとされており、駿馬であれば日参することも可能と発表している人もいます。
しかし、先に記事に書いたように、名古屋に「羊神社」があり、伝説では、「羊太夫奈良の都に行く途中に休憩した場所」と言われる神社が残っています。遠い名古屋に羊太夫伝説が残っていることは、群馬県内だけではなく実際に奈良の都に参勤していたと考えられる大変興味深い証拠と考えられます。

翔びくらげが名古屋の羊神社に行き調べてきました!
名古屋の羊神社

羊太夫に纏る伝説は群馬県に数多く残っており、その一つ羊太夫のお墓と言われている場所があります。

曹洞宗 鷲霊山 釈迦尊寺

引用元:釈迦尊寺ホームページより

釈迦尊寺
五八七年 三十一代用明天皇二年蘇我馬子が、物部守屋を滅ぼしたとき物部氏に加担した中臣羽鳥連と妻、玉照姫は上毛野国青海に流罪となる。玉照姫聖徳太子の乳母にて、太子の守仏、闇浮壇金一寸八分の釈迦尊仏を、太子より授けられる。
六八六年 天武天皇十五年勅令により大赦が行われ羽鳥連の孫羊太夫が、上洛して勅赦を受ける。そのとき定慧和尚玉照姫の敬信した釈迦尊仏の由来を尊信し翌年(六七八年)上野国蒼海に御下りになり、七堂伽藍を建立、釈迦尊仏を安置して釈迦尊寺と号し、持統天皇即位亥年朱鳥一年青海羊太夫の開基、開山は多武峯定慧和尚と言われている。初めは法相宗に属し数百年繁栄を極めたが、寿永の頃天下大いに乱れ寺門も衰退した。
引用元:「釈迦尊寺」(2023年11月13日 (月) 08:05  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
    釈迦尊寺ホームページ

玉照姫と羊太夫のお墓と言われています 翔びくらげ撮影

落語家、六代目三遊亭円楽さんのお墓もありました。

2023年11月12日、群馬県前橋市にある釈迦尊寺で火事がありました。去年亡くなった落語家の六代目三遊亭円楽さんの墓があることで知られる寺です。寺の本堂が赤い炎に包まれ、火柱があがり、黒煙も立ち上っていました。
警察や消防によると、消防車など14台が出動しましたが、本堂およそ400平方メートルが全焼。隣にあるこども園の屋根も焼けるなどしました。けが人はなく、墓への影響もないということです。警察が出火原因を調べています。
引用元:日テレNEWS NNN

翔びくらげ
翔びくらげ

8月に訪問させて頂いた時は、幼稚園が併設された素晴らしいお寺でしたが、何らかの原因で火災が生じてしまったそうです。とても残念です。1日も早い復興をお祈りしています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

「多胡羊太夫」(2023年4月11日 (火) 14:03  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
『現代語訳・羊太夫栄枯記』蘭藍沐・訳 
多胡碑のはなし 多胡碑記念館
富岡市観光協会
釈迦尊寺ホームページ

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