最古の多胡碑は羊太夫の終焉の地だった!? ~村人が埋めてまで守った多胡碑~ 羊太夫の足跡を訪ねて1

英雄伝

群馬県高崎市に多胡碑という、不思議な石碑があります。
その石碑にまつわる、羊太夫伝説を知り、ずっと訪問してみたいと思っていました。
今回、羊太夫の故郷である群馬県高崎市を訪れ多胡碑、そして羊太夫について調べてみました。

多胡碑

現在の群馬県高崎市にて、7世紀から8世紀にかけて建立された古代の石碑、3基について上野三碑(こうずけさんぴ)と総称し、三基の石碑は、多胡碑、山上碑(やまのうえひ)、金井沢碑とそれぞれ言われています。それぞれの石碑は特別史跡に指定されています。

覆屋内に大切に保管されている多胡碑 引用元:ウィキペディア

多胡碑

〒370-2107 群馬県高崎市吉井町池1095

村人から大切にされた多胡碑

多胡碑は昔から、村人に大事に扱われ、立派な覆屋が建てられ、その中に安置されています。

「特別史跡多胡碑のはなし」 引用元:多胡碑記念館

            

1968年に建て直された現在の覆屋 翔びくらげ撮影


 大正、昭和初期、現在の覆屋を比較して見ると隣に立つ石碑の位置が左側から右側になり
 灯籠や周囲の木々も変わってしまい、もともとの位置に立っているかは不明です。

多胡碑の内容

多胡碑には?

弁官符上野国片野郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

と、掘られています。

多胡碑記念館の多胡碑の拓本

訳してみると
弁官符[おお]す。上野国の片岡郡[こおり]、緑野[みどの]郡、甘良[から]郡并せて三郡[みつのこおり]の内、三百戸を郡となし、羊に給いて多胡郡[たごのこおり]と成せ。
和銅四年三月九日甲寅[きのえとら(こういん)]に宣[の]る。
左中弁・正五位下多治比真人[たじひのまひと]。
太政官・二品穂積親王[にほんほづみのみこ]、左太臣・正二位石上尊[いそのかみのみこと]、右太臣・正二位藤原尊[ふじわらのみこと]。文字が彫られているそうです。

多胡碑脇の案内 翔びくらげ撮影

さらにわかりやすくすると、多胡碑前の説明文より

300戸ってどれくらい?

戸は律令制下で社会組織の単位とされた家のことです。

税を納める単位でもあります。基本的に戸主を中心として1戸あたり4人の丁男(成年男子)が戸の成員であると考えられ、一戸は一般的に二~三世帯を構成した大家族(現存の戸籍上から推定される戸の実情は平均20数人の大家族形態を取り、戸主を中心に血縁など親族関係でつながる人々、更に戸主との続柄が不明な寄口(きこう、寄人とも)や隷属民である奴婢がいた。)で生活しており、1里(1郷)は家長の中から50名の戸主を選任したもので、三百戸だと六里、300名の戸主、約6000人の規模の集落と考えられます。

終戦時に多胡碑を隠した場所
高崎市教育委員会は、このほど太平洋戦争直後に地域住民が多胡碑を隠存したと見られる埋設坑を発見したと発表した。

多胡碑を隠していたと思われる地中の穴

昭和20年8月に終戦を迎え、進駐軍が多胡碑を接収する恐れがあるとし、文部省の指令で多胡碑が地域住民によって、近くに埋めて隠された。
その後、多胡碑は昭和21年10月に再建された。
多胡碑記念館などがこれまでに聞き取り調査を行ってきたが、関係者の記憶に相違があるなど、埋設場所の特定はできなかった。今回発見された埋設坑は、多胡碑の東側の民地内にあり、南北方向293cm、東西方向180cm、深さは地表面から78cm。地域住民が多胡碑を大切に保存してきた歴史を示す貴重な発見。

引用元:2018年2月17日 高崎新聞

第二次大戦後に進駐軍により多くの建物が接収されますが、石碑などの記述は見つかりませんでした。しかし、埋めてまで守りたい何かが「多胡碑」にあると思いました。

翔びくらげ
翔びくらげ

羊太夫の各遺跡を見て、伝説を聞き、まとめた結果として「多胡碑」は羊太夫が亡くなった場所ではないかと考えています。

翔びくらげの羊太夫の伝説

羊太夫の伝説は、ネットを始め、地方史誌等に記されているものは、翔びくらげが調査しただけでも数十種類確認できました。各種の羊太夫伝説にほぼ共通するストーリーを下記のようにまとめて見ました。

翔びクラゲの羊太夫伝説

昔々、上野国(かみつけのくに)多胡郡に渡来人である秦氏を祖とする夫妻が、郡司(ぐんじ: 律令制下において、 国司 の管轄下にあって郡務を担当した地方官。)の職を受け住んでいました。夫妻に、羊(ひつじだゆう)という男の子が生まれました。なぜ羊という名前かというと、羊の年の、羊の日の、羊の刻に生まれたからです。

羊は成長すると、身長は2メートルを越え、学問や武術に優れ、村人思いの立派な青年になりました。父親が亡くなると、その後を継いで上野国多胡郡の郡司となります。若くしてすでに父上の才を越えたと噂されていました。この頃から羊は羊太夫と呼ばれるようになります。

羊太夫は村人のため、賢明に働きます。羊太夫に世話になった長者は、「権田栗毛」(ごんだくりげ)というとても良い馬を羊太夫に献上します。また、八束小脛(やっかのこはぎ)という榛名山の天狗に出会います。

八束小脛は、秩父の和銅山へ行き、和銅を採取し、その和銅を奈良の都へ行き献上することを羊太夫に提案します。

和銅を採取した羊達は、権田栗毛にまたがると八束小脛の神通力で奈良の都にわずか2時間で到着しました。

奈良の都では、持統天皇に仕える藤原不比等という公卿に面会し和銅を発見したことを報告します

その功により藤原不比等から上野国多胡郡より更に郡と戸をまとめた300戸の郡司と藤原姓を賜ります。

それからというもの、奈良の都へ毎日お仕えに参上しました。その早く走る(飛ぶ)様子はまるで稲妻のようで、このように早く走ることができたのは、八束小脛のおかげでした。
つづく

翔びくらげ
翔びくらげ

現代でもプライベートジェットに乗って東京から大坂まで片道70分かかるそうです。自動車で中央高速を渋滞抜きで走行して6時間30分。普通の馬で1日60キロとして7.7日かかります。

続き

ある日、羊太夫が昼寝をしている八束小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまいました、

八束小脛は、「ああ、取り返しのつかないことをしてしまいました。この羽は守り神。私はもう都へお供に付いていくことはできません。明日からの都へのお仕えはどうしたらいいのでしょう。」と悲しみ嘆いたのでした。

こうして羊太夫は奈良の都に参内できなくなりました。朝廷の中には、突如出現した羊太夫を妬んでいた役人が大勢いました。「謀反を企てている」と朝廷内に噂を広めます。それを聞いた天皇は、とても驚き、羊太夫を討つように命令します。そして、数千騎の軍勢が上野国へ向います。

羊太夫は、都から自分を討つための軍が向かって来るという知らせを聞きとても驚きました。しかし、今となってはどうすることもできなくなり、仕方なく戦う準備をします。

日頃恩恵を受けている村人は、羊太夫と戦うため、羊太夫の元に集まります。

しかし、羊太夫は村人を戦いに巻き込むことを一番恐れ、村人一人ひとりに感謝を述べて、通常の生活に戻り、戦が始まったら逃げるように指示します。

軍隊が到着し羊太夫を攻めますが、羊太夫も策を練り、少数の家臣たちと軍隊に奇襲をかけます。敵がまだ眠っているうちに攻撃をすると、敵は慌てて逃げ出して行き、羊太夫の作戦は見事に成功したのでした。

しかし多勢に無勢、羊太夫たちは徐々に苦戦していき、次第に城を守ることが難しくなってきました。そして一族共に官軍に城を取り囲まれてしまうと、羊太夫は覚悟を決め、家来に奥方や女性達をどこかへ逃がすようにと命令しました。

奥方達を任された家来は落合村まで逃げましたが、とうとう軍隊に追いつかれてしまいました。
近くの寺院に供養をお願いして、奥方達と自害します。

やがて、寺院のお坊さん達は、羊太夫の奥方と6人の死体を7つの輿(こし)に入れ、手厚く葬ってあげました。今の七輿山古墳(藤岡市落合・前方後円墳)がこの奥方たちのお墓だと伝えられています。

羊太夫は家来たちが皆戦死したことを知ると、八束小脛の最期の力で池村に飛び、藪の中で八束小脛と共に最後を遂げたそうです。

羊太夫は逆賊扱いとなり、歴史から消されていますが、多くの村人たちから尊敬され慕われた羊太夫は、代々村人たちの口伝で大切に扱われ現在に至るのです。

この羊太夫が亡くなった場所である池村は、現在、多胡碑の立つ付近と言われています。

羊神社

羊神社(群馬県) 翔びくらげ撮影

祭神は天児屋根命、多胡羊太夫(藤原宗勝)。健康・学問・経済の権現とされています。

翔びくらげ撮影

磯部温泉の玄関口であるJR磯部駅の南東2キロメートルほどの場所に鎮座しています。奈良時代、上野国多胡郡を治めた多胡羊太夫は、和銅(自然銅)の発見など数々の伝説を残す人物であり、その子孫ら一族が江戸時代・延宝年間に当地・字(あざ)久保へと移住し、「多胡新田」を拓いたそうです。

このころ、一族が祖先である羊太夫を祀ったのが神社の始まりです。現代においても当社周辺には多胡姓が60世帯ほど集まっており、1997年(平成9年)に氏子らによって社殿の新築・遷座が執り行われました。

羊神社本殿 翔びくらげ撮影
狛犬が羊になっている 翔びくらげ撮影

社殿の前の羊の狛犬がとても可愛いです。未年に多くの年男、年女が参拝されるそうです。

羊神社側面、祭祀ができる広場になっていました 翔びくらげ撮影
翔びくらげ
翔びくらげ

羊神社は多胡碑から車で30分くらいかかるところにあります。途中道が狭いのでご注意ください。神社前に車が1~2台駐車できるスペースがあります。Uターンする際はとても狭いので注意が必要です。

羊神社には宮司さんがいらっしゃいません。隣接する咲前神社が兼務されているようです。御朱印はこちらでいただけます。

咲前神社

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

名古屋にも羊太夫の伝説が残る羊神社がありました。
愛知県 羊神社

【参考文献】

「多胡碑」(2023年11月15日 (水) 01:10  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
「多胡羊太夫」(2023年4月11日 (火) 14:03  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
多胡碑のはなし 多胡記念館

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