聖武天皇のお后の光明皇后はとても信仰にあつく、大変なさけ深い方でした。
皇后様が仏さまに祈っていますと、不思議な声が聞こえました。
「人々のために功徳風呂を造り、千人のからだを洗いなさい」
皇后様が作られたお風呂は、 身分の区別なく誰でも入れると評判をよび、たくさんの人々が集まりました。
さらに皇后様は、風呂場に入り、怪我や病気で苦しんでいる人々のからだを丁寧に洗われました。
おいたち
701年(大宝元年) 760年7月23日父、藤原不比等、母、県犬養橘三千代の娘として光明子(こうみょうし)(後の光明皇后)は誕生しました。
光明子は父の不比等が権力基盤を固めつつあった時期に生まれ、藤原氏を中心とした権力闘争や皇位継承など、周囲に政争が絶えない生涯を過ごしたそうです。
文化面では両親、特に母、三千代の影響を受けて仏教に深く帰依したそうです。
さらに、仏教政策に深く関与し、東大寺大仏造立や国分寺建立は光明子の勧めにより実施されました。
藤原不比等(ふじわら の ふひと)
659年に中臣鎌足の次男として、大和国で生まれました。667年に近江京に遷都したため、父に付いて近江(滋賀県)で過ごしたと見られています。11歳の時に、父鎌足が亡くなる直前に藤原氏に改姓した際に不比等がこれを継承します。14歳のときに壬申の乱が発生。父の関係から、近江朝に近い立場にありましたが、まだ幼かった不比等は近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にはなりませんでしたが、鎌足の同族は皆処罰を受け、朝廷の中枢から一掃されてしまい、大きな後ろ盾がなくなり、673年に大舎人という下級役人になりました。
天武天皇時代の後期に、従兄弟の中臣大島とともに草壁皇子に仕えたといわれています。そして、持統天皇の時代になると、重用されるようになり「飛鳥浄御原令」の編集に携わったと言われています。
引用元:「藤原不比等」2024年1月9日 (火) 13:56『ウィキペディア日本語版』
県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ)
天智天皇4年(665年)に生まれたと推測される。
敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。
天武天皇13年(684年)に第一子葛城王を出生しているが、軽皇子(後の文武天皇)は天武天皇12年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと考えられている。
時期は不詳であるが美努王とは離別し、藤原不比等の後妻となり、安宿媛(後の光明皇后)・多比能を生んだ(多比能の母に関しては異説あり)。不比等は持統天皇3年(689年)段階で直広肆・判事の職にあった少壮官僚で、持統天皇10年(696年)には高市皇子の死去に伴い不比等は政権中枢に参画した。文武天皇元年(697年)8月には不比等の娘の宮子が即位直後の文武天皇夫人となり、藤原朝臣姓が不比等とその子孫に限定され藤原氏=不比等家が成立する。こうした文武天皇即位に伴う不比等の栄達の背景には、阿閇皇女の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられている。
引用元:「県犬養三千代」2023年11月14日 (火) 13:51『ウィキペディア日本語版』
臣下初めての皇后になる
716年(霊亀2年)に光明子は首親王のもとに入内します。
同じ父不比等の長女、宮子の生んだ首親王です。首親王が暮らす東宮は、不比等邸の隣に造営されており、同じ年齢の光明子と幼馴染として育ったと考えられます。
718年(養老2年)阿倍内親王(後の孝謙天皇)を出産します。
724年(神亀元年)首親王が24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位し聖武天皇となられます。
これにより光明子は皇太子妃から夫人となります。
727年(神亀4年)光明子に待望の嫡男基王を出産しますが、翌年幼くして夭折してしまいます。
聖武天皇と光明子夫婦には悲しい出来事でした。
聖武天皇の治世のはじめは、皇親勢力を代表する長屋王が政権を掌握していました。
当時、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願っていましたが、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習でした。
長屋王は光明子の立后に猛烈に反対していました。
729年(神亀6年)長屋王の変が発生し、長屋王は自害します。
こうして反対する勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后しました。
光明子が臣下で初めての皇后となります。皇后とは、天皇の正式な妻のことです。
聖武天皇(しょうむてんのう、旧字体: 聖󠄁武天皇、701年9月18日〈大宝元年8月12日〉 – 756年6月4日〈天平勝宝8年5月2日〉)
日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉)。
諱は首(おびと)であるが、これは伊勢大鹿首が養育したことに由来するとする説が存在する[1]。尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇、勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
引用元:「聖武天皇」2024年2月23日 (金) 17:21 『ウィキペディア日本語版』
基王の亡き後、聖武天皇と光明皇后の間に男子は生まれませんでした。
738年(天平10年)娘の阿倍が立太子します。(後の孝謙天皇)
このとき聖武天皇の唯一の皇子で、橘氏の血を引く安積は11歳でした。
阿倍は安積即位までのいわゆる中継ぎ天皇となります。
孝謙天皇(こうけんてんのう、旧字体: 孝謙󠄁天皇)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう、旧字体: 稱󠄁德天皇、718年〈養老2年〉- 770年8月28日〈神護景雲4年8月4日〉)
日本の第46代天皇(在位:749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉- 758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉)および第48代天皇(在位:764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉- 770年8月28日〈神護景雲4年8月4日〉)。
父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。諱は阿倍で、これは阿倍氏に養育されたためであった。
史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 – 1643年)に至るまで850余年、女性天皇が立てられることはなかった。
引用元:「孝謙天皇」2023年11月25日 (土) 14:30『ウィキペディア日本語版』
740年(天平12年)藤原広嗣の乱が起こり、乱の最中に、聖武天皇は、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始めます。
そして、平城京に戻らないまま恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)へ遷都を行います。
遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇しています。
聖武天皇は仏教に深く帰依し、741年(天平13年)には国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)を出します。(※詔(みことのり)は命令、指示を出すことです。)
743年(天平15年)さらに東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出します。
これに加えて度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰します。
755年(天平勝宝7年)聖武天皇は再び体調が悪化し、翌、天平勝宝8年5月2日に崩御されます。
光明子の晩年
758年(天平宝字2年)に光明皇后は体調を崩し、以後体調があまり良くない状態が続きます。
760年(天平宝字4年)春ごろから光明皇后の体調が悪化していきます。
諸国の神社で祈祷が行われ、宮中で『大般若経』の転読、六大寺などで法会が営まれますがその甲斐もなく光明皇后は崩御されます。享年60歳
陵は佐保山東陵の聖武陵の隣に造営され治定されました。
千人風呂伝説
光明皇后の最も知られている伝説は、千人風呂伝説です。
730年(天平二年)、貧しい病人たちのために施薬院という病院を、孤児や身寄りのない老人たちのために悲田院という施設をつくり、光明皇后自から出かけていってお世話をされました。
仏様の啓示により「浴室を建てて千人の垢を摺る」と請願をたてます。
そして千人目にハンセン病の患者が現れます。
光明皇后は臆することなくそのハンセン病の患者を洗い、患者の願いにより体の膿を吸い取ってあげました。
するとハンセン病の患者は阿閦仏の化身であることを光明皇后に告げると姿を消しました。
その地(奈良市法華寺町近辺)に光明皇后は阿閦寺(あしゅくじ)をに建立したそうです。
また、光明皇后は病人のために、阿閦寺の近くに法華寺を建立します。
法華寺では浴室からふろと呼ばれるお風呂(今でいう蒸し風呂)がつくられ、光明子自ら千人の垢を流したといわれています。
光明皇后創建の総国分尼寺
法華寺の歴史は今から1300年ほど前、聖武天皇の后・光明皇后の発願によってはじまりました。父・藤原不比等の死後、皇后は子どものころから住み慣れた邸宅を皇后宮とされます。その後、皇后宮を宮寺に改められたのが法華寺です。
正式には法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、総国分寺である東大寺に対し、総国分尼寺(にじ)として、女人成仏の根本道場としての役割を担いました。皇后は法華寺において尼僧の仏学研鑚を勧め、女人成仏の規範を示されました。また天皇崩御後は、天皇の菩提も祈られたのです。
伽藍の完成は延暦元年(782)頃、光明皇后が亡くなられた後でした。現在の南門南側に金堂が建つなど広大な寺地を有し、東西両塔、金堂、講堂、食堂(じきどう)など壮大な伽藍を誇りました。
引用元:法華寺ホームページ
法華寺にある浴室(から風呂) 引用元:法華寺ホームページ
浴室(からふろ)
「からふろ」とは今でいうサウナのこと。現在の建物は明和3年(1766)に再建されました。内部には竈(かまど)や風呂屋形(やかた)があり、薬草を用いて蒸し風呂を焚くようになっています。昭和初期まで夏と冬に使われていました。
からふろは、掛け湯や取り湯形式ではなく蒸し風呂形式であること、また尼僧ではなく庶民のための風呂であったことの2点で、他の寺院の風呂とは大きく異なります。
古代寺院の風呂は僧侶が沐浴潔斎する為に使用されていました。しかし、からふろは「我自ら千人の垢を去らん」という光明皇后のご発願に由来し、庶民に開かれた福祉施設の原点ともいえるものでした。
引用元:法華寺ホームページ
本尊・十一面観音菩薩立像は良質の榧(かや)材の木目を生かした檀像(だんぞう)風の一木造で、蓮のつぼみや葉を後光のように配した珍しい光背を持ちます。そのお姿は光明皇后が蓮池を渡られる姿を写したものと伝えられてきました。
引用元:法華寺ホームページ
法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録からうかがえる。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。
鎌倉時代に入り、東大寺大仏殿の再興を果たした僧・重源は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊によって本格的な復興がなされた。
その後、明応8年(1499年)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされると、永正3年(1506年)7月、再び攻め込んできた赤沢朝経によってまたも焼き討ちされた。そのうえ文禄5年(1596年)には慶長伏見地震にもあって、最終的には東塔以外の建物を失った。
現在の本堂、南門は慶長6年(1601年)に豊臣秀頼と母の淀殿が、鐘楼も翌慶長7年(1602年)に豊臣秀頼と淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。
江戸時代になり、後水尾天皇の養女・高慶尼が入寺して以来、当寺は尼門跡寺院となった。
宝永4年(1707年)、これまで兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔が地震によって倒壊している。
法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、1999年(平成11年)に創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ離脱・独立した。
2010年(平成22年)5月6日 – 8日には光明皇后1250年大遠忌法要が実施された。
引用元:「法華寺」2024年1月16日 (火) 14:17『ウィキペディア日本語版』
聖武天皇と光明皇后のご尽力により、日本における仏教に深く帰依し、国分寺、国分尼寺、東大寺などの創建を実現させ、仏教の広布に力を尽くされました。また皇后は病人・孤児・困窮者救済のために寺院や専用の施設を設置されるなど尽力をされました。慈悲深い天皇と皇后に心より感謝したいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。