文学を愛好した藤原道長は紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりしました。
さらに『源氏物語』の第一読者であり、最大の支援者でもありました。
そして紫式部の局にやってきてはいつも原稿を読み、評価し、時には催促をしていたといわれています。
今回は、藤原道長を中心に、紫式部との関係や「源氏物語」の主人公光源氏のモデルの背景などご紹介します。
藤原道長と紫式部が生きた時代は?
平安時代 (794 (延暦13)〜12世紀末)は、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことです。
平安時代中期は、貴族社会の中で、摂関政治が確立され、天皇の権威が低下していました。
この時期には、貴族たちは、自分たちの権力を維持するために、軍事力を持つ武士団を保護し、武士団は、貴族たちのために戦い、土地を守ることで、自分たちの地位を確立しました。
さらに、遣唐使が廃止され、日本独自の文化が重要視されるようになります。
日本の国風文化が開花することとなります。
摂関政治(せっかんせいじ)
平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治体制のことである。
引用元:「摂関政治」(2023年3月4日 (土) 08:37 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は、平安時代中期の公卿で、摂政、関白、太政大臣を歴任し、藤原氏の最高権力者として知られています。
家族
父 :藤原兼家、母:藤原時姫
兄弟 :¹道隆、超子、道綱、道綱母養女、²道兼、詮子、道義、³道長、綏子、兼俊
妻 :鷹司殿 倫子(源雅信娘)、高松殿 明子(源高明娘)、源簾子(源扶義娘)、源重光娘、
儼子(藤原為光娘)、藤原穠子
子 : 彰子、頼通、頼宗、妍子、顕信、能信、教通、寛子、威子、尊子、長家、嬉子、長信
系図に乗っていない子息
次男の道綱は妾妻腹であるため、嫡妻腹である道長よりも出世はできませんでした。
四男 道義は、愚か者として知られており、宮中に出仕ししても人並みに接することができず、家に籠っていることが多く、寂しい生涯を送ったそうです。
そのためか、摂関家の子弟ながら官位は従五位上・治部少輔に留まり、同じく庶子で大納言に昇った兄の藤原道綱に比べても全くの微官に終わりました。
道長の主な経歴
966年(康保3年)
藤原嫡流北家の流れの、藤原兼家、母は摂津守・藤原中の娘である時姫の五男として誕生。
970年(天禄元年)
摂政太政大臣に昇っていた藤原実頼が他界する。
その後、兼家の兄である次男の兼通が関白に任ぜられる。兼通と兼家は仲が悪く、兼家は兼通により、閑職に処され不遇の時代を過ごすことになる。
977年(貞元2年)
兼通は死期が迫ると、兼家の子道隆、道兼を武官を解き、地方官に左遷させてしまう。
978年(貞元3年)
兼通の死後、新たに関白となった藤原頼忠により、兼家は右大臣に引き上げられ、ようやく不遇の時期を脱する。
987年(寛和3年)
当時の左大臣・源雅信の2歳年上の娘 倫子と結婚する。
988年(寛和4年)
道長は参議を経ずに権中納言に抜擢される。
長女 彰子が雅信の土御門殿で誕生する。
源高明の娘である明子を妻に迎え結婚する。
990年(正暦元年)
父、兼家が出家、その後逝去する。長男の道隆が摂関を継いだ。
995年(正暦6年)
摂関を継いでいた長男 道隆はかねてからの糖尿病が悪化し逝去。
次弟の右大臣・道兼が関白を継ぐも、就任後僅か数日で疫病に倒れる。
道兼の没後わずか3日にして権大納言であった道長に内覧の宣旨が下る。
その後、兄道隆の長男 伊周と後継者争いが始まる。
996年(長徳2年)
長徳の変により、伊周は大宰権帥に左遷する宣命が出されて失脚する。
1000年(長保2年)
長女・彰子が一条天皇の中宮(皇后)となる。
1008年(寛弘5年)
彰子が敦成親王を出産。
1012年(長和元年)
道長は東宮時代の三条天皇に入内させていた次女の妍子を皇后(号は中宮)とした。
天皇は道長に関白就任を依頼するが道長はこれを断り、続けて内覧に留任した。
道長は三条天皇とも叔父・甥の関係にあったが、早くに母后超子を失い、成人してから即位した天皇と道長の連帯意識は薄く、天皇は親政を望んだ。
妍子(藤原道長の次女)が禎子内親王を生み、三条天皇との関係は次第に悪化していった。
1014年(長和3年)
三条天皇の眼病が悪化し失明寸前となり、政務に支障が生じ、道長は譲位を迫った。
1016年(長和5年)
三条天皇は譲位し、東宮敦成親王が即位した(後一条天皇)。
道長は天皇の外祖父として摂政となる。
翌年には摂政を嫡子 頼通に譲り後継体制を固めるも、引き続き実権を握り続けた。
1018年(寛仁2年)
後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし「一家立三后」と驚嘆された。
藤原氏摂関政治の最盛期を築き、この頃に権力の絶頂にあった道長は、有名な望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」を詠んでいる。
1019年(寛仁3年)
道長は出家し、当時の貴族の常として厚く仏教に帰依しており、晩年は壮大な法成寺の造営に尽力した。
1028年(万寿5年)
長年患っていた糖尿病と思われる病により逝去。享年62歳
藤原道長は、兼家の五男(順番で3番目)として生まれたため、出世の道は程遠く、叶わない環境でしたが、父や兄たちの政争を間近に見て育ち、政治的なセンスを身に着け、姉や妻のコネを最大限利用し、更には運命の女神に導かれる様に、兄の道隆・道兼が相次いで亡くなり、疫病により公卿の多くが世を去り、道長は一気に後継者候補に躍り出ました。
更には甥との権力争いを勝ち抜き、最高の権力を手に入れます。
藤原道長の特性
① 頭脳明晰で、運とタイミングを逃さず、多くのライバルに打ち勝った実力者
② 子供たちを次々と天皇に嫁がせ、生まれた息子を天皇の位につかせることで権力を握った
③ 日本の国風文化発展の牽引力となった最大の支援者
紫式部
紫式部(むらさきしきぶ)は、平安時代中期の歌人、作家、女房(女官)であり、和歌や物語などを生み出したことで知られています。
家族
父:藤原為時、母:藤原為信女
兄弟:姉 紫式部(藤式部) 弟 藤原惟規
配偶者:藤原宣孝
子供:大弐三位 藤原賢子(平安時代中期の女流歌人。)
紫式部の主な経歴(※年代は推定時期を含みます)
968年(安和元年)
藤原為時(ためとき)は、藤原為信の娘と結婚。
970年(天禄元年)
次女として誕生。
973年(天延元年)
長男 惟規誕生。
974年(天延2年)
母が他界。その後、父と姉に育てられる。
984年(永観2年)
父為時、師貞親王が即位(花山天皇)すると式部丞・六位蔵人に任じられる。
986年(寛和2年)
父為時、花山天皇の退位に伴い官職を辞任した。
この後、約10年に亘って散位の状況となり、不遇時代を過ごす。
996年(長徳2年)
父為時が従五位下・越前守に叙任されて越前国へ下向する。 紫式部も同行する。
998年(長徳4年)
年齢も離れた又従兄妹でもある藤原宣孝(3人の妻と5人の子がいた)と結婚。この頃帰京か
999年(長保元年)
一女・大弐三位が誕生。
1001年(長保3年)
結婚生活は長く続かず、宣孝が他界。
この頃から『源氏物語』を書き始めた。その評判を聞いた道長に召し出され、その娘で、一条天皇中宮の彰子に「女房」(家庭教師)として仕える。
1008年(寛弘5年)
藤原道長の支援により『源氏物語』を書き続け、54帖からなる物語が完成した。
1011年(寛弘8年)
父 為時は、越後守となり再び受領を務めた。
息子の惟規も越後国に同行したが、惟規は病にかかりそのまま他界した。
1019年(寛仁3年)
紫式部逝去。享年44歳
母は、弟となる藤原惟規を出産したあとすぐに他界したそうですが、984年(永観2年)為時が任官するまでの不遇時代を支え、苦労が絶えず貧しい時代を生き抜きました。
大河ドラマでは、母親がまひろの目の前で道兼に殺されてしまい、衝撃的でした。当時はこのようなことが当たり前のように起きていたのでしょうか…
紫式部の正式名は、記録が残ってなくわかりませんが、紫式部が宮仕えした頃は、父親の為時が式部丞(しきぶのじょう)という役職についた頃より、藤原の藤と役職の式部をあわせ。「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていたそうです。
大河ドラマでの「まひろ」という名は、ドラマ上の仮名を考えたもので、実際の紫式部の名前ではありません。
987年(永延元年)藤原道長が源倫子との結婚した際、倫子付きの女房(家庭教師)として紫式部が出仕したという記録も残っています。
大河ドラマでは黒木華さんが演じる源倫子に仕える女房として、赤染衛門役に凰稀 かなめさんが演じています。その倫子のサロンに貴族の娘たちの一人にまひろが加わりましたが、今後どのように演じられていくのでしょうか。史実とはかなり違った脚色ですが、まひろと道長の恋愛模様を楽しみに見ています。
既に幼少期の頃から、正式な跡継ぎと見られていなかった道長と知り合っていたことも考えられ、紫式部の人生の中で道長との出会いは、切っても切れない関係が始まります。
54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説で、和歌集『紫式部集』が現在まで伝わっています。
当時、紙は大変貴重で高価でした。これらの物語は、藤原道長の支援が無ければ決して完成し、世の中に知れ渡ることはできなかったと考えられています。
源氏物語の光源氏は藤原道長と符合する!?
「源氏物語」(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語です。
1008年(寛弘五年)紫式部が執筆し完成した、生涯で唯一の物語です。
物語は、天皇の実子である主人公・光源氏の栄華と没落、政治的欲望と権力闘争、そして女性たちとの恋愛模様などを描いています。物語は全54帖から成り、各帖はそれぞれで完結し、その集合体として長編小説になっています。
54帖は、次の各三部に分けられ構成されています。
一部は、桐壺の帖から藤裏葉の帖まで。
主人公、光源氏の誕生、そして栄華を求めながら愛を求めて遍歴する様が描かれています。
二部は、若菜上の帖から幻の帖まで。
光源氏の苦悩、そして老いてゆく姿が描かれています。
三部は、匂兵部卿(におうひょうぶのきょう)の帖から夢浮橋(ゆめのうきはし)の帖まで。
光源氏の死後、光源氏の子や孫が繰り広げるドラマを描いています。
主人公である光源氏が藤原道長がモデルではないかと考えられています。
藤原道長と符合するのは
①青年期に不遇な時代があったが、外戚政治で権力の栄華を極めていくところ
②道長の信仰心 法成寺の創建に心血を注ぎこみ、造営には資財と人力が注ぎ込み造営事業に奉仕した
③道長の血縁関係は、光源氏の最盛期時の血縁関係に類似する
「源氏物語」の各所比較してみると、藤原道長と一致するところは多くあります。しかし、すべて道長に当てはまることはなく、多くの貴族の一部分を抜き出し、合体させた人物を光源氏として描いたようです。
他にも参考にしていると思われる貴族が存在しますが、ここでは道長を始めとする、6人を紹介します。
光源氏に取り入れられた貴族たち
在原業平(ありわら の なりひら)
平安時代初期の貴族。『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られている。
源 融(みなもと の とおる)
紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補といわれる。陸奥出羽按察使を任官した融が京都の六条河原院(現在の渉成園)に塩竈の風景を模した庭園を造らせたという故事は、伊勢物語などの文学にも登場し、世阿弥作の能「融」の元にもなった。能「融」では、陸奥の塩竈のことを耳にした融が難波津の浦(大阪湾)から毎日海水を汲んで京まで運ばせ、塩を焼かせたとされる。古くから塩竈では塩づくり(藻塩焼き)が行われており、ここでは融がそれを再現しようとした様子が描かれている。『古今和歌集』に収録されている。
紀貫之の「きみまさで煙たえにし塩がまのうらさびしくもみえわたるかな」は、融の死後、塩を焼く煙が絶えてしまったことを歌ったものである。天皇候補の一人であったが、臣籍降下したことを理由に皇位につけず。
源 光(みなもと の ひかる)
名が一番類似している。第一親等の皇族ながら、多くの兄弟と共に源姓を賜って臣籍降下する。貞観2年(860年)従四位上に直叙され、翌貞観3年(861年)次侍従に任ぜられる。のち美作守・相模権守・讃岐権守と地方官を歴任。貞観18年(876年)正四位下・左兵衛督に叙任され、相模権守・播磨権守と引き続き地方官を兼帯した。
源 高明(みなもと の たかあきら)
一世源氏の尊貴な身分に加えて学問に優れ朝儀にも通じており、また実力者藤原師輔やその娘の中宮・安子の後援も得て、朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。他にも高松殿という邸宅を所有していた。学問を好み、朝儀・有職故実に練達し、『西宮記』を著した。和歌にも優れ、『後撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に22首が採録されている。
藤原伊周(ふじわらの これちか)
道長の兄 道隆の嫡男。道隆、道兼の死後、道長と後継者争いとなる。学才の高さで知られた外祖父の高階成忠ら高階家の教育によるものと想定されるが、伊周やその兄弟姉妹には当時の貴族に相応しい教養を身につけ、特に伊周は文筆の才能に優れていた。才名高かった母貴子から文人の血を享けた伊周は属文の卿相として、漢学に関しては一条朝随一の才能を公認され、早くから一条天皇に漢籍を進講した。『本朝麗藻』『本朝文粋』『和漢朗詠集』に多くの秀逸な漢詩文を残し、その感慨に富む筆致は時に世人の涙を誘う。歌集『儀同三司集』は散逸してしまったが、『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に6首が採録されている勅撰歌人である。『大鏡』は彼の不遇を自身の器量不足に求めつつも、その学才が日本のような小国には勿体なかったという。心が幼い人であった(「心をさなくおはする人」『栄花物語』)との評価がある一方、その容姿は端麗だったと『枕草子』『栄花物語』などに見える。女性問題を起こし、九州の大宰府へ左遷される。
引用元:各人(UTC版) 『ウィキペディア日本語版』より
『源氏物語』は世の儚さを伝えるため?
紫式部の代表作である『源氏物語』では、主人公・光源氏の恋人の一人である六条御息所が、嫉妬のあまり無意識のうちに光源氏の正妻・葵上を祟る場面が有名である。六条御息所は死後も紫の上や女三宮など、源氏の妻に次々と取り憑き、光源氏への恨み言を述べたとされる。
また『紫式部日記』では、主人である藤原彰子の出産の際、物の怪たちが彰子に取り憑いた様子が描かれている。詳細は藤原彰子の項目を参照。
『今鏡』などでは、紫式部は死後、『源氏物語』で色恋の絵空事を書き、多くの人々を惑わせた罪で地獄に堕とされたと語られている。これは能『源氏供養』(『紫式部』とも)の題材にもなっている。
『源氏供養』では霊となった紫式部が登場し、石山寺に赴く途中の安居院の法師に光源氏の供養を頼んで消える。法師が供養を始めると、紫式部は在りし日の姿で現れ、舞を舞った後に自らの思いを巻物にしたためて法師に託す。そして夜明けと共に浄土に生まれ変わることができたと告げた。
実は彼女はこの世の儚さを伝えるべく現れた石山観音の化身であり、『源氏物語』もこの世の儚さを知らせるために紡がれた夢の物語であったという。
石山寺は紫式部が参籠中に『源氏物語』を構想し、起筆したと伝えられる寺で、現在も紫式部ゆかりの寺、文学の寺として多くの文学者が参詣している。
また、京都市北区紫野西御所田町に現存する紫式部の墓は、平安時代の公卿・小野篁の墓の隣にある。前述の紫式部が地獄に堕ちたという伝説から、『源氏物語』の読者たちが地獄を行き来した伝説を持つ小野篁に彼女を救ってもらえるよう、彼の墓を紫式部の墓の隣に移動して祈りを捧げたとされる。
その後、篁が閻魔大王を説得したことで、紫式部は地獄から解放された、とも伝えられているようだ。
引用元:幻冬舎plus 歴史人物怪異談事典 地獄に堕ちた紫式部、髑髏となり果てた小野小町 朝里樹 より
プラトニックを貫いた道長と紫式部の関係
藤原道長と紫式部の関係を系図に表すと
966年(康保3年)道長誕生
970年(天禄元年)紫式部誕生(紫式部の生年は諸説あるが道長と4歳程度の差?)
974年(天延2年)紫式部の母が他界。その後、父と姉に育てられる
(幼少期の頃、道長と紫式部は出会っていた可能性は低い!?)
984年(永観2年)紫式部の父、為時が式部蔵人となり、藤式部と呼ばれた!
987年(永延元年)道長、当時の左大臣・源雅信の2歳年上の娘 倫子と結婚
この時、倫子の女房として紫式部が仕えていたという記録もある(父為時が不遇の時代で、紫式部が家系の足しに女房となった可能性は高い。その後、紫式部は道長や倫子の絶大な信頼を得たのではないか?)
988年(永延2年)道長、源高明の娘である明子を妻に迎えため結婚する(道長と明子は、倫子と結婚する前から恋愛関係にあった!?)
996年(長徳2年)父為時が従五位下・越前守に叙任されて越前国へ下向する。娘紫式部も同行する(藤原道長が執政になり、為時を叙任した)
998年(長徳4年)頃、紫式部が藤原宣孝と結婚(帰京していた紫式部の居宅に宣孝が通う、通い婚と考えられる)
999年(長保元年)紫式部に藤原賢子が誕生
1001年(長保3年)紫式部の夫、宣孝が他界
この頃から『源氏物語』を書き始めた。(物語を書くためには、高価な紙が必要であり、この頃から道長は紫式部を支援)
1005年(寛弘2年)道長に推薦され一条天皇中宮の彰子に「女房」(家庭教師)として紫式部が仕える。
(道長は、既に信頼している紫式部を再び女房として、採用する。)
(「源氏物語」を読み、紫式部へ対する恋心が芽生えた?)
1008年(寛弘5年)「源氏物語」54帖からなる物語が完成した。(道長の強力な支援により成し得た成果!)
1011年(寛弘8年)紫式部の父為時は、越後守となり再び受領を務めた。
紫式部の弟の惟規も越後国に同行するが、惟規は病にかかりそのまま他界した。
1012年(長和元年)道長は東宮時代の三条天皇に入内させていた次女の妍子を皇后(号は中宮)とした。
1014年(長和3年)紫式部が逝去。 享年44歳
1016年(長和5年)逝去した紫式部に変わり娘の賢子が彰子へ仕える。
1028年(万寿4年)道長、長年患っていた糖尿病と思われる病により逝去。享年62歳
道長は正妻となる源倫子と結婚する前に、源明子と恋愛関係にあったと記録されている書が残っています。
道長が明子を恋人に選んだ理由は、父親の高明は10年前に逝去しており政治的な要素はありません。道長の姉 詮子に厚く庇護されていたため、道長の身近な存在にいた明子から、薄幸に耐えて生きる高貴で美しい姫の感じが、道長の好みのタイプにマッチしていたと考えられます。
紫式部と最高貴族の逢瀬の真相は!?
『紫式部日記』には、道長の動向が好意的に書かれているほか、道長が夜半に紫式部の部屋を訪ねる場面があります。しかしこの場面では紫式部が面会を拒みます。
藤原道長
夜もすがら くひなよりけに なくなくぞ 真木の戸口に たたきわびつる
(一晩中、水鶏の鳴き声以上に泣く泣く戸をたたいたのに・・・)
紫式部
ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいかにくやしからまし
(考えがあって戸を開けようとする水鶏に折れて戸を開けてしまっては、どんなに残念な思いをしたことでしょう)
紫式部も道長に好意を抱いていたと思います。しかし、それはプラトニック的な感情ではなかったのではないでしょうか。
また、紫式部は、内向的で暗いイメージと書かれた書が多く残っていますが、紫式部は下の歌を読んでいます。
紫式部
水鳥を水の上とやよそに見むわれも浮きたる世をすぐしつつ
(水鳥は浮かんで遊んでいるようにみえて水の下では水をかいているのだから実のところ身は苦しいのだろう。それに似て、わたしも憂き世を生きているのだ)
父 為時の不遇時代をともに生きてきたことから、実生活はでは貧しく、苦労して育った経験は、道長などの貴族から見ると、紫式部より内向的で暗いイメージに見えたのではないでしょうか。
道長は、源明子同様に、紫式部から「薄幸に耐えて生きる高貴で美しい姫」を紫式部から見出していたのではないでしょうか。
道長は紫式部に幾度となくアプローチしますが、紫式部は道長を受け入れることはありませんでした。
貴族の系譜を記した『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』という本では、紫式部は「源氏物語作者」「道長妾」と記されています。
しかし、紫式部は、道長の愛娘彰子の専属家庭教師でもあり、「源氏物語」を執筆する第一の支援者であり、最大の理解者でもある道長と男女の関係となり、関係が拗れてしまうことを一番恐れていたと考えられます。
道長の気持ちを受け入れたいが、決して受け入れてはいけない禁断の愛を「源氏物語」に封印したのではないでしょうか。その思いを「源氏物語」に書き記したのだと思います。
道長も、紫式部に対する思いを「源氏物語」の一番の愛読者として、物語の中で紫式部との恋を成就させたのではないでしょうか。
地獄に落ちた紫式部!?
紫式部の墓と伝えられるものが京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されています。
なぜか小野篁の墓とされるものに隣接して建てられています。
この場所は淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年に住んだと言われ、後に大徳寺の別坊となった雲林院百毫院の南にあたります。この地に紫式部の墓が存在するという伝承は、古くは14世紀中頃の『源氏物語』注釈書『河海抄』(四辻善成)に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記されており、15世紀後半の注釈書『花鳥余情』(一条兼良)、江戸時代の書物『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』『山州名跡志』にも記されています。
小野 篁(おの の たかむら)
802年~853年 平安時代初期の公卿、文人。 参議・小野岑守の長男。官位は従三位、参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では参議篁さんぎたかむら。
身長六尺二寸(約188cm)の巨漢でもあった。
篁は昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が『江談抄』、『今昔物語集』、『元亨釈書』といった平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に紹介され、これらを典拠にして後世の『本朝列仙伝』(田中玄順・編、1867年・刊)など多くの書籍で冥官小野篁が紹介されている。
冥府との往還には井戸を使い、その井戸は、京都東山の六道珍皇寺(死の六道、入口)と京都嵯峨の福正寺(生の六道、出口、明治期に廃寺)にあったとされる。また近年六道珍皇寺旧境内から井戸が発見され、六道珍皇寺ではこの井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼称している。六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
引用元:「小野篁」(2024年2月1日 (木) 13:49 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
なぜ紫式部の墓が小野 篁の墓と並んでいるのかは、諸説ありますが、決定的な理由はわかりません。
有力な候補として、「源氏物語」は、平安時代の貴族社会の恋愛物語です。その風紀を乱したとして紫式部が地獄に落とされたという噂が当時の貴族たちの中で上がったのではないでしょうか。
そこで紫式部の「源氏物語」を読んで共感を得た、貴族や愛読者たちは、紫式部を地獄から救うため、閻魔大王と親交があった小野篁の墓の隣に移し、閻魔様に嘆願してもらい、地獄から天国へ行けるように依頼したと言われています。
私は、紫式部が亡くなった後も成仏できるか心配し、地獄に落ちてしまわないよう小野 篁の墓の隣に埋葬したのは、藤原道長本人だと考えています。
道長の晩年
晩年は法成寺の創建に心血を注ぎこみ、造営には資財と人力が注ぎ込まれ、諸国の受領は官へ納入を後回しにしても、道長のためにこの造営事業に奉仕しました。
更に道長は公卿や僧侶、民衆に対しても役負担を命じました。
道長はこの造営を通じて彼らに自らの権威を知らしめると同時に、当時の末法思想の広がりの中で「極楽往生」を願う彼らに仏への結縁の機会を与えるという硬軟両面の意図を有していました。
『栄花物語』は道長の栄耀栄華の極みとしての法成寺の壮麗さが伝えられています。
道長はこの法成寺に住みこみますが、寛子・嬉子・顕信・妍子と多くの子供たちに先立たれ、持病に苦しみ健康とはいえませんでした。
1027年10月28日に法成寺で妍子の四十九日法要が行われましたが、当日の夜から臥せてしまいます。
11月半ばには、酷い下痢が続いて自力では排泄もできなくなり、衰弱が進んだため25日には阿弥陀堂に移ります。
病状が悪化しており、既にこの時点で死相を感じられたとも言われています。
12月2日の夜には医師の但波忠明が呼ばれ、女性の乳房ほどの腫れ物に針を差しますが、中身はほとんど出てきませんでした。
ほどなくして3日には重体に陥り意識もなくしてしまいます。
1028年(万寿4年)12月4日、屏風を開け北枕にし、9体の阿弥陀仏の手を蓮の糸で作った組紐で繋ぎ、中尊仏から道長の手へ渡され、周囲で読経が行われるなか息を引き取りました。
糖尿病と感染病が原因と言われています。享年62歳 合掌。
道長の亡骸は12月7日に鳥辺野にて火葬に付され、遺骨は他の藤原北家の人々と同様に現在の京都府宇治市木幡の「宇治陵」と称される墓地群に葬られます。
生前の道長は一族の菩提を弔うために現地に浄妙寺という寺院を創建していました。
しかし、浄妙寺は中世末期には廃絶し、宇治陵も現在では一部を除いて住宅街や茶畑と化してしまい、道長を含めたほとんどの貴族の葬地が不明確になってしまっています。
藤原道長の墓は宇治陵32号墳ではないかと推測されています。
法成寺
藤原道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」の歌でも知られるように栄華を極めたが、晩年浄土信仰に傾倒し、病に苦しんだことから、寛仁3年(1019年)に出家し、土御門殿に隣接する地に、九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に完成して無量寿院と号した。
諸国受領の奉仕を受け、続けて十斎堂、講堂、経蔵、道長の正妻源倫子による西北院、金堂、五大堂等と次々に堂舎が建てられ、その規模は東西2町・南北3町に及び、伽藍は豪壮を極めた。治安2年(1022年)には法成寺と寺号を改め、金堂・五大堂の落慶供養が盛大になされた。供養には道長の孫にあたる後一条天皇の他、東宮(後の後朱雀天皇)、いずれも道長の娘である太皇太后藤原彰子・皇太后藤原妍子・中宮藤原威子も参加し、その様子は『栄花物語』に詳しく描かれている。法成寺は平等院の範となった寺院でもあり、当時、鴨川方向から見れば、ちょうど宇治川方向から見た平等院のようであったと思われる。
引用元:「法成寺」(2023年8月27日 (日) 11:22 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
道長の死後、その子である関白藤原頼通は1052年(永承7年)になり、末法の世が到来したこともあって、藤原道長の別荘「宇治殿」を寺院に改めようと考えます。
宇治の平等院は園城寺の末寺として創建されますが、その際、境内の西にあった縣神社を鎮守社としています。
本堂(金堂)は、元は宇治殿の寝殿でそれを仏堂に改造したものです。
現在観音堂が建っている場所にあり、大日如来像を本尊としています。
1053年(天喜元年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立されています。
今回は、藤原道長を中心に記事を書きましたが、知名度の高いと考えていた「紫式部」は意外と解らないことが多い女性とわかりました。またいつか記事を書いてみたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【参考文献】
「藤原道長」(2024年2月1日 (木) 14:43 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
「紫式部」(2024年1月25日 (木) 20:07 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
日本の100人「藤原道長」DeAGOSTINI
歴史上の人物.com
歴史まとめ.net
Histonary- History Dictionary
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