はじめに
私達は、愚かな戦争を繰り返さないよう教育を受けて来ましたが、ロシアのウクライナ侵攻、イエメンでは、イラン支援を受けるフーシ派が紅海での商船攻撃を再開し、米国と英国が報復空爆を実施しました。フーシ派はイスラエルへの攻撃も行っており、地域の緊張が高まっています。
戦時中のドラマなどで、登場人物に赤紙(招集令状)が届くと、家族が「おめでとうございます」という場面が多く登場します。
誰もがドラマのように「おめでとうございます」と言い合い、「バンザイ!」をして若者たちを送り出したのでしょうか。
今回は、戦争へ抵抗した母の記録を紹介します。
昭和十九年、鹿児島県の山あいにある小さな村で、ある母親が叫びました。
「お願いです、うちの子を殺さないで……!」
その言葉は、静まりかえった広場に響き、出征する息子を見送るために集まっていた村の人たちを凍りつかせたそうです。
戦時中の日本では、「息子を戦地に送り出す母親」は、ある種の理想像として美化されていました。涙を見せず、笑顔で送り出す姿が「立派な母」とされ、新聞や映画でもたびたび取り上げられていました。でも、本当にすべての母親が、そんな気持ちで息子を送り出していたのでしょうか?
これは、そんな「理想像」とはまったく違う、一人の無名の母親の実話を元にしたお話です。名前も記録も残っていないけれど、その叫びは、今の私たちに確かに届いています。
息子を守りたかった、ただそれだけだった
戦争末期の日本では、「お国のために命を捧げる」という考え方が強く浸透していました。出征することは「名誉なこと」、戦死することは「家族の誇り」。そんな空気が社会全体に広がっていました。

その中で、鹿児島のある村に住む母親は、自分の息子が戦地に行く日を迎えることになります。息子は当時19歳。体が大きくてまじめで、村でも評判のいい青年だったそうです。
出征の日、村の広場にはたくさんの村人が集まりました。軍服を着た息子が現れると、みんなが拍手を送り、万歳三唱の準備をしていたそのとき、母親が突然人ごみをかき分けて前に出て、声を上げたのです。
「お願いです!この子を連れていかないで!何が名誉の戦死ですか、どこの誰がそんなこと決めたんですか……!」
その場は一瞬にして静まり返り、すぐに怒号が飛び交いました。
「この非国民め!」
「お前のせいであの子の顔に泥を塗る気か!」
「黙れ、国のために死ぬんだぞ!」
母親は役場の人に取り押さえられ、泣きながらその場を引きずられていったそうです。
声を上げた代償はあまりにも大きかった
この叫びのあと、母親とその家族の暮らしは一変します。村人たちは口をきかなくなり、親戚も訪ねてこなくなりました。買い物に行っても店に入れてもらえなかったり、陰で「恥さらし」「裏切り者」と噂されたり。いわゆる「村八分」のような扱いを受けるようになります。
それでも母親は、「あの子を守りたかった」とだけ言い続けていたそうです。
でも、その願いも届きませんでした。息子は戦地に送り出され、数ヶ月後に戦死の通知が届きます。戦死の知らせを聞いたとき、母親はしばらく言葉もなく座り込んだままだったそうです。
数日後、彼女は布団の中でこうつぶやいていたと、近所の人が証言しています。
「私があのとき、あの子の名前を叫ばなければ、死なずに済んだのかもしれない……」
どうして「母の叫び」が許されなかったのか

母親が息子を戦地に送りたくないと思うのは、当たり前の気持ちです。ましてや19歳、まだ学生のような年齢の子を、「死ぬかもしれない場所」に送り出すことに、どれほどの苦しみがあったか、想像もつきません。
でも当時の日本では、その「当たり前の気持ち」が許されませんでした。
理由の一つは、国家が「家族」を使って戦争への協力を進めていたからです。母親が「国のために息子を送り出す姿」は、「戦意高揚」にとって非常に重要な存在でした。
もう一つは、「空気」です。周囲がみんな戦争に協力しているのに、自分だけ反対することが「裏切り」や「恥」とされる。声を上げることそのものが「秩序を壊す」とみなされ、抑えつけられていたのです。
母親の叫びは、そんな時代の「正しさ」を揺るがす存在だったのかもしれません。
今、私たちが受け取るべきもの
この母親の話は、戦争を止めたわけでもなければ、誰かを救ったわけでもありません。むしろ、彼女自身と家族が社会から排除され、息子の命も失われるという、あまりにも悲しい結末でした。
でも、それでもなお、私はこの母親の行動が「正しかった」と思います。
あの時代に、周囲の視線や恐怖を押しのけてでも、「死なせたくない」と声を上げた。その勇気は、誰にでもできることではありません。
私たちは戦争を歴史の教科書で学びますが、数字や年号だけでは、本当の痛みは伝わってきません。でも、こうして一人の母親の叫びを知ることで、「戦争が人間に何をさせるのか」「愛する人を守りたいと思うことが、なぜ否定されるのか」と、より深く考えることができるのではないでしょうか。
おわりに
母親の名前は、今も分かりません。どんな顔だったのか、どんな暮らしをしていたのかも、ほとんど記録には残っていません。
それでも、その叫びの意味は、今を生きる私たちにとって、とても重いものだと思います。
「あの子を死なせたくない」
そう願うことが、なぜ「悪」とされたのか。
今世界の至るところで「戦争」という脅威が芽生えてきています。これらの目は小さなうちに刈り取り、絶対に「戦争」という同じ過ちを侵さないよう一人ひとりが強く心に強く認識して行動していきたいと思います。

今、私たちがその声に耳を傾けることで、二度と戦争という同じ過ちを繰り返さないためのヒントが見えてくるはずです。そして、声を上げた母の勇気を、決して無駄にしてはいけないと、私は思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『戦争を語りつぐ』(岩波ジュニア新書)
『母たちの太平洋戦争』(朝日新聞出版)
NHK 戦争証言アーカイブス → 実名は伏せられた母親たちの証言映像あり
『戦争と女性』(吉川弘文館)
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