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第二次大戦後、ソ連に連行された日本兵が意地で築いたオペラ劇場は、大地震でも耐え残る建物だった。市民を助けたウズベキスタンの伝説となった日本兵

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イメージ 歴史

1945年、第二次世界大戦の終戦後、武装解除して投降した日本軍や民間人の約60万人がソ連(現在のロシア)によって、シベリア、カザフ、キルギス、ウズベクなど日本から遠い、極寒の各地へ、労働力として強制連行されました。

永田行夫率いる日本兵240人が連行されたところは、日本から約6200kmも離れたウズベキスタンでした。
彼らに強いられたのはオペラ劇場の建設作業員として労働することを命令されます。

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親日国ウズベキスタン

ウズベキスタンは1991年に旧ソ連(ロシア)より独立、建国30年未満の新しい国です。ウズベク人、ロシア人、タジク人、カザフ人、ペルシャ人などなどの、多民族国家です。

また、中央アジアで最も人口の多い国で、2020年時点の人口は3350万人。
2012年時点の人口29,559,100人は中央アジア全体の人口の約半数に相当するそうです。

ウズベキスタンの地図
引用元:「ウズベキスタン」2024年3月5日 (火) 08:55『ウィキペディア日本語版』

1991年の独立当初、旧ソ連(ロシア)はウズベキスタンの独立を認めていませんでした。
そのため、ソ連からの援助が得られず、何もない、ゼロからの出発となりました。
石油・石炭はありますが、綿花栽培で生計を立てている人が多く、諸外国からの援助がなければ、住民たちが生きていく食料や生活物資がありませんでした。

最初にウズベキスタンを独立国として認め、援助したのがトルコ、そして日本だそうです。

独立の翌年、日本はウズベキスタンと国交を樹立し、離乳食やおむつなどの製品を送って援助しました。
ウズベキスタン国内では旧ソビエト連邦時代に使用されていたインフラが使用され続けている分野が多く、鉄道の電化や機材整備、火力発電所の増設などインフラ整備の分野において日本による貢献は大きいそうです。

ウズベク人の子供たちは、学校で日本からの援助などを習うことから、親日家が多く存在するのだそうです。
さらに、ウズベク人のお年寄りからは、他の理由で日本に高い信頼を持っている人が多くおられるようです。

タシケントの大地震

日本とウズベキスタンの世界地図、距離が6200kmも離れている
日本からウズベキスタンのタシケントまで約6200kmもあります

1966年4月26日 (現地時間)ウズベキスタンにあるタシュケント周辺で大きな地震が発生しました。
余震が1,000回以上続き、首都タシュケントに多大な被害をだしました。

10 – 12秒間に渡って強烈な揺れが続き、建築物の倒壊が起きた地域はタシュケントの約10キロ平方に及びます。
約36,000戸の住宅、公共建築物が倒壊し、78,000世帯、述べ300,000人の人々が住宅を失いました。

タシュケントでは、多数の死者や重軽傷者が生じました。

しかし、タシュケントに建てられたナヴォイ劇場は無傷で残っていました。
激しい余震が続く中、ナヴォイ劇場は避難場所として多くの市民を収容し活躍しました。

ナヴォイ劇場

ナヴォイ劇場の外観写真
ナヴォイ劇場 引用元:旅tabi miu様 タシケント観光

ナヴォイ劇場は、一級の劇場”ボリショイ”劇場としてモスクワ、レニングラード、キエフに続く劇場として、1947年11月に完成しました。ウズベキスタンのタシュケントにあるオペラとバレエのための劇場です。
正式名称は、アリシェル・ナヴォイ記念国立アカデミー大劇場です。1400人を収容できます。

ナヴォイ劇場の内部写真
ナヴォイ劇場内部 引用元:ウズベクスカイ ナヴォイ劇場 タシケント観光の人気NO1スポット



アレクセイ・シュチューセフが設計して1939~1942、1944~1947年に建設され、1947年11月にアリシェル・ナヴォイ生誕500周年を記念して初公開されました。

ソ連は当初から、レーニンによるロシア革命から30周年にあたる1947年11月までの完成を目指し建築を行っていたそうですが、第二次世界大戦のため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていたそうです。

建築に携わった日本人捕虜!

1941年当時のソビエト社会主義共和国連邦の領土
1941年当時のソビエト社会主義共和国連邦の領土 引用元:1941年11月発行 タイム誌

第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソ連軍によってシベリア、カザフ、キルギス、ウズベクなどソ連各地、モンゴル人民共和国(モンゴル抑留)などソ連の衛星国へ労働力として連行され、長期にわたり大変厳しい環境で抑留生活を虐げられた、たいへん悲しい出来事です。

ソ連は、第二次大戦によって約二千万人とも云われる多くの戦死者を出しており、その損失した分を埋め合わせるために、満州などに残っていた約六十万人の日本人をソ連へ連行したのです。

永田行夫(当時24歳)大尉は、終戦当時、満州・奉天(現在の瀋陽市)で、第10野戦航空修理廠、通称第10野戦航空部隊の作業部隊長でした。

永田行夫大尉の写真
永田行夫 引用元:嶌信彦オフィシャルサイト


第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻してきました。

ソ連は満洲を占領し、南満洲鉄道を接収して中華民国との共同管理下に置き(中国長春鉄路)、さまざまな鉄道施設や工場施設、発電所・変電所などを接収し、武装解除した日本人をソ連各地へ、労働力として連行しました。

永田行夫元陸軍技術大尉率いる240人の日本人の抑留者は、第四ラーゲリーに収容され「ナヴォイ劇場の建設」が指示されました。(※ラーゲリーは強制収容所のことだそうです。)

第四ラーゲリーのアナポリスキー所長は、永田隊長率いる、日本人に厳しい口調で指示しました。

1947年11月までに、ウズベキスタンの労働者と共に、オペラハウスを完成すること!。

戦争で疲弊し、更に長い貨物車での移動、収容された日本人抑留者は疲労が限界を越えていました。

さらなる厳しい命令と先の見えない状況に、多くの日本人は失望したそうです。

本当の使命

ウズベキスタンのタシュケントは、シベリアほどの寒さは厳しくありませんでしたが、寄宿舎は隙間風が入る丸太小屋にダルマストーブ1台、寒くて普通に眠むれる環境ではなかったそうです。

皆が集まって身を寄せ合いなんとか寒さを堪え忍んだそうです。

雪のラーゲリーの絵
雪のラーゲリー 引用元:収容所から届いた手紙 matome.naver.jp 

「自分たちは耐えることができるだろうか、完成するまでに何人が生き残れるのだろうか・・・・。」悲壮感があふれます。

悲観する人に、永田隊長は問いかけます。

きびしい生活だが私は皆を一人も死なせるつもりはない。全員が無事に日本に帰国して家族と再会することが私達の本当の使命だ!!、全員で生きて日本に帰ろう!!

何度も何度も仲間を鼓舞しました。

ナヴォイ劇場の建設

ナヴォイ劇場は、土台と一部と一部、そして柱や壁などが既に構築されていたようですが、この劇場を建設する作業は、慣れていない建築工事という特殊性がありました。

そこで永田隊長は、仕事を職種別に分けて班制にて行うことにしました。

土木作業、鉄筋加工、鉄骨組立作業、大工、左官工事、床工事、足場を作る作業、レンガ積み、電気工事、設備工事、家具、壁の彫刻など、得意なことや希望を聞き、一人ひとりの前職や特性から、見合った職種に分け、効率的に作業を進めるように配置しました。

そして、ウズベク人の作業員に仕事を教わりながら作業を行いました。

当初は、「無理やり連れて来られたのだから適当に仕事をやって終わらせよう」という考えが蔓延していました。

しかし永田隊長の考え方は違いました。

「確かに皆が考えていることが一般的だと思う。しかし今建設している劇場は、ソ連の三大劇場に加わるオペラハウスになると聞いている。いい加減なものを作って世界中の人に笑われる劇場にしてよいのか。ここは日本人の意地と心意気で、世界の歴史に残る素晴らしい劇場を建設してやろうではないか!!」

永田隊長は、配下の日本人に呼びかけました。


厳しい作業の中、楽しみは食事でした。

とても質素で全然足りない食事でしたが、みんなは食事を楽しみに作業を行いました。

ラーゲリの食事は、1日1800から2200キロカロリー程度の食事は、力仕事の成人男性ではかなり厳しいものでした。

さらに、アナポリスキー所長は永田隊長に

作業員にノルマを課して、貢献度に応じて食事の量に差をつけるように!

と命令しました。

永田隊長はアナポリスキー所長に交渉します。

今でも食事は全く足りていない。これ以上食事を減らされたら、さらに、倒れてしまう。

正論で交渉しても、アナポリスキー所長は承諾しませんでした。

そこで永田隊長は機転を利かせ、食事が公平になるように工夫をしました。
ノルマを達成したものが、達成できず量を減らされた人に分け与えるように隊員に指示し、全員の食事を平等にしました。

その行為を見ていたアナポリスキー所長は驚き、永田隊長を呼び出し、命令違反を問います。

永田隊長は事によっては、アナポリスキー所長とやり合う覚悟で答えました。

質問ですが、ソ連の社会主義政策は、働いたうえで本人に分け与えられたものは、その本人が自由に処分してもよろしいのでしょうか?

当たり前だ。いったん個人の所有となったものを、勝手に政府や官僚たちが取り上げることはない。社会主義にも自由がある。

アナポリスキー所長は答えてから、ハッと気が付きます。

それを聞いて安心しました。多くもらった兵が、少なかった兵に分け与えているだけであります。


アナポリスキー所長は不満そうにしていましたが、それで建設の作業が進むのであればと永田隊長の説得にしぶしぶ承諾しました。

若松律衛

1946年になり、各処で人手が足りず、思うように工事が進まない為、他のラーゲリーより、建築作業に向いている日本人達が次々と送られてきました。

その中に若松律衛少尉がいました。
若松は、日本の大学で建築学部を卒業し現場経験がありました。

若松に日本人の総監督になってほしいと依頼します。

若松は迷います。第四ラーゲリーに来てまだ幾日も経っておらず慣れていませんでした。
そして、永田隊長に着任の挨拶を兼ねて相談しました。

しばらく永田隊長と話し、永田隊長の信念のこもった言葉を聞き、若松も胸が熱くなります。

こうして、永田隊長に協力することを決意し、日本人の総監督として若松は建設工事に奮起します。

ウズベク人は「日本人は捕虜なのになぜあんなに一生懸命働くのだろう。他の工事現場のドイツ人捕虜などは適当にサボリながら働いているらしいのに…」と半分あきれていたといいます。

しかし日本人の働きぶりや知恵の出し方、力を合わせて進める仕事のやり方などを見ているうちに、日本人を見る目がだんだんと変わっていきました。

また、懸命に作業する日本人に対して地元の子どもから食べ物の差し入れが行われました。すると、空いた時間に木のおもちゃを作成し、その子供たちにお返しをするなど、どんな環境下でも礼儀を忘れませんでした。

そして命令期限よりも1ヶ月も早い、1947年10月末に地下1階、地上3階建ての素晴らしいナヴォイ劇場を堂々と完成させました。

ウズベク人に残る日本の心意気

ナヴォイ劇場の建設に携わった日本人457人の話は、ウズベキスタンで伝説となり残っているそうです。

勤勉さ。 
作業に対する真摯さ。 
物事の考え方。 
困難を乗り越える根性。
友好的。

そして1966年4月25日、タシケントを襲った大地震は、ナヴォイ劇場が無傷で残り「日本人が建てたから大丈夫だった」という話が広まったそうです。

この話がウズベク人のご年配の多くの方が「親日家」と云われる所以だと思います。

1996年、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフが、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置しました。

その際、カリモフは「日本人は恩人だ、”捕虜”ではない」と厳しく指示をしたそうです。
プレートは、ロシア語、日本語、英語、ウズベク語で書かれ、日本語は「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」と書かれています。

劇場に掲示されたプレート
劇場に掲示されたプレート 引用元:ウズベクスカイ ナヴォイ劇場 タシケント観光の人気NO1スポット
翔びくらげ
翔びくらげ

ナヴォイ劇場の建設は確か1946年ではなく1947年の10月では?・・・1年ではなく2年間だぞ!とツッコミを入れたくなりました。

タシケント市に咲く満開の桜

ソ連時代に日本人墓地を更地にするよう指示が下されたそうですが、ウズベキスタンの人たちは自分たちの意思で墓地を守り抜いてくれました。

その後、長い年月とともに、墓地はしだいに荒れはじめてしまったそうです。

2001年、当時駐ウズベキスタン大使であった中山恭子氏の働きかけにより、日本人墓地の整備が行われることになりました。

日本人墓地整備のため、募金活動を日本で実施し約2,000万円の募金が集まりました。

しかし、ウズベキスタンの政府は「日本との友好関係の証として、墓地の整備は自国で行います」と、募金を受け取りませんでした。

そして、各地にあった日本人墓地をきれいに整備してくれたそうです。

きれいに整備された日本人墓地
きれいに整備された日本人墓地 引用元:「タシケント抑留日本人墓地」2023年3月7日 (火) 16:24『ウィキペディア日本語版』


2002年、使われなかった募金は、一部をウズベキスタンの学校に寄贈します。
そして、残った募金で、墓地に眠る日本人たちに桜の花を見せてあげようと、中山恭子大使の夫・中山成彬元国土交通大臣が、日本さくらの会に交渉し桜の木を植樹しました。

桜は、日本人墓地のほか、ナヴォイ劇場周辺、日本庭園のあるタシケント中央公園に、合わせて約1300本の桜が植えられました。

遠い国ウズベキスタンのタシケントに、毎年、四月、満開の桜が咲き乱れるそうです。

余談

永田隊長は、日本に帰国後、真っ先に第四ラーゲリにいた457名の住所録を作成しました。
帰国時にメモを所持しているとスパイとみなされるため、全員分の名前と住所を全て暗記し、帰国後記憶を元に住所録を作成したそうです。

その永田隊長の脅威の記憶力により、”第四ラーゲル会”が結成されまた集うことが出来たそうです。
1949年に第1回を開催されて以降、永田さんが亡くなる直前の2009年まで、毎年1回開催されたそうです。

収容所(ラーゲリ)で顔なじみだった昔の仲間が、温泉に泊まり、ひと晩宴会を開くというものでした。

永田隊長は帰国後、会社の役員まで勤め上げ、2人のお子さんにも恵まれました。
そして2010年に、天国に旅立たれたそうです。

翔びくらげ
翔びくらげ

永田隊長は天国で第四ラーゲル会、天国部会を開催されているのではないでしょうか。
苦労した出来事は、懐かしい思い出となり、延々と語り尽くしておられるでしょうか。
シベリアに抑留され亡くなられた多くの日本人対し「お疲れ様でした」の言葉と、御冥福をお祈りします。 黙祷

【参考文献】

伝説となった日本兵捕虜 蔦 信彦 角川新書
嶌信彦オフィシャルサイト 伝説となった日本兵捕虜ーソ連四大劇場を建てた男たち
「ナヴォイ劇場」2023年11月16日 (木) 15:53『ウィキペディア日本語版』
「ウズベキスタン」2024年3月5日 (火) 08:55『ウィキペディア日本語版』
「日本とウズベキスタンの関係」2024年1月24日 (水) 03:40『ウィキペディア日本語版』
「シベリア抑留」2024年2月16日 (金) 13:36『ウィキペディア日本語版』
「タシケント抑留日本人墓地」2023年3月7日 (火) 16:24『ウィキペディア日本語版』
旅tabi miu様 タシケント観光①ナヴォイ劇場と日本人墓地へ!ウズベキスタンが親日国の理由は? 
ウズベクスカイ ナヴォイ劇場 タシケント観光の人気NO1スポット
秋田魁新報土曜コラム『遠い風 近い風』2021年4月3日(一部加筆修正)
no+e ウズベキスタンの桜 伊藤伸平
スギナミウエブミュージアム 区民展示:ウズベキスタンの紙芝居 ナヴォイ劇場の奇跡

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