無位無官という地位から、同じ源氏の祖をもつ新田氏を粗末に扱う鎌倉幕府。
再起をかけ「打倒鎌倉!!」を合言葉に、生品神社に集まった新田義貞と新田一族。
彼らはどのように兵を集め、鎌倉に立ち向かうのでしょうか。
新田義貞の挙兵
集まった武将は。新田義貞を始め義助、大舘宗氏とその息子の幸氏、氏明、氏兼、堀口貞満、江田行義、岩松経家、里見義胤、桃井尚義らで、兵の数はわずか数百であったそうです。
決起した義貞軍は、その日のうちに、北方の笠懸野に出て、東山道を通り、越後国の里見・鳥山・田中・大井田・羽川といった新田一族ら越後の先発隊2000騎と利根川で合流。
その後、越後の後陣、甲斐源氏・信濃源氏の一派など、各地から参集した軍勢5000騎と合流して、義貞軍は9,000騎に膨れ上がります。
八幡宮に総結集して態勢を整えると、5月9日に義貞は武蔵に向け出陣します。
いざ!!鎌倉へ 新田軍の進軍
①1333年5月8日 新田義貞 生品神社にて挙兵このときの軍勢はわずか数百と言われています。
② 〃 笠懸野にて募兵のため布陣。
③ 〃 上野国(現在の前橋)の幕府の番所を牽制。
④ 〃 八幡荘(現在の八幡神社付近)に到着 義貞軍は9,000に。
このころ、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された足利高氏は、後醍醐天皇より密勅を受け幕府に反旗の兵を挙げます。
そして5月7日に六波羅探題を滅亡させます。
六波羅探題
1221年 後鳥羽上皇 の起こした 承久の乱 後、鎌倉から遠く離れた京都にいる朝廷を監視し、西国(尾張より西)の武士を取り締まるため、 鎌倉幕府が京都に置いた役職 のことです。 六波羅とは京都の地名で鴨川東岸の五条から七条のエリアを指し、探題とは地方長官のような意味です。
引用元:「六波羅探題」(2023年8月19日 (土) 15:20 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
約1000年前の河川 現代の河川
引用元:国土交通省 関東地方整備局 江戸川河川事務所
幕府軍との戦い
1333年5月11日 義貞軍は鎌倉街道を進み、小手指原にて幕府軍と戦います。
〃 12日 義貞軍が久米川に布陣する幕府軍と戦い、幕府軍の本陣を看破する。
〃 15日 義貞軍1万が幕府軍を攻めるが、幕府軍に援軍が加わり、義貞軍は敗走する。
〃 堀兼に敗走した義貞軍に三浦氏の軍勢約1万が援軍として加わる。
〃 16日 援軍を得た義貞軍は幕府軍を撹乱し、奇襲攻撃し関戸の幕府軍へ総攻撃する。
鎌倉に足利高氏の母らと人質として囚われていた、足利高氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)は、足利家家臣に助け出され鎌倉を脱出。義貞軍と久米川付近で合流します。
千寿王の手勢は僅かに200ばかりでしたが、六波羅探題を滅亡させた足利高氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、各地から兵士が集まり軍勢の規模は徐々に膨大なものとなり、その数については最終的に約20万になったと言われています。
足利氏の千寿王が合流したことは戦況を大きく変えます。残念ながら無位無官であった新田氏だけでは、ここまで大きな軍勢にならなかったと思われます。
9日、義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われます。
翌10日に桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府軍5万が鎌倉街道の上ノ道より入間川へと向かい、その一方で金沢貞将が上総、下総の軍勢2万を率いて下総の下河辺壮に赴いて義貞軍の背後を突く形をとります。
義貞軍は鎌倉街道を進み、10日には桜田貞国率いる3万の幕府軍と入間川を隔てて対峙します。
11日朝、川を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、幕府軍と衝突します。(小手指原の戦い)。
幕府軍は義貞軍が入間川を渡りきる前に迎撃する算段でしたが、想像以上に義貞軍の動きが迅速でしたので迎撃できませんでした。
両者は遭遇戦の形で合戦に及び、戦闘は何度も何度も繰り返される大激戦でした。当初の兵数は幕府軍の方が多く優勢でしたが、幕府へ不満を募らせていた河越高重ら武蔵の御家人が、義貞軍に加勢するなど、多くの援護が現れて、義貞軍は次第に優勢となります。
12日朝、義貞軍約8000が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けます。(久米川の戦い)。
しかし幕府軍は事前に奇襲攻撃を予測しており、奇襲攻撃は成功しませんでした。
そして幕府軍も鶴翼の陣を敷き、義貞軍を誘い込む戦法を行いますが、義貞軍もは戦法を読み、わざと戦術に掛かったふりをして、幕府軍を油断させ、手薄になった本陣に攻撃を行います。
これにより長崎、加治軍は撃破され、総大将の桜田貞国はいったん分倍河原まで軍勢を退却させます。
幕府軍は体制を整えると分倍河原に布陣し、義貞軍との決戦に備えます。
先日の戦いで敗北したことにより、士気が下がった幕府軍に北条泰家を大将とする軍勢10余万の援軍が駆けつけます。これにより、幕府軍は士気が高まります。
このとき義貞は幕府側に大勢の援軍が加わったことを知りませんでした。
15日未明、義貞軍は約1万の兵力で、15万の幕府軍に正面から挑みます。(分倍河原の戦い)。
多勢に無勢の義貞軍は、幕府軍から一方的に迎撃され、堀兼まで退陣します。
本陣も崩れる寸前の大敗北でしたが、義貞は少数の手勢を率いて幕府軍の側面を撃破し自ら血路を開き撤退しました。
堀兼地域には、現在、新田義貞に関する史跡は残されていませんが、堀兼神社がその当時既に建立されており、掘兼の井戸があったことから、義貞軍は掘兼神社にて兵を休め、体を清め、体制を整え、応援の兵が来るのを待ったと考えられます。
堀兼神社
堀兼神社の創建年代等は不詳ながら、丘陵地にある貴重な井戸(堀兼の井)とかかわるものと考えられ、平安末期には既に「堀兼の井」が広くしられていたことから、平安時代以前に祭られたのではないかと思われます。慶安3年(1650)には、川越城主松平伊豆守信綱が長谷川源右衛門に命じて社殿を建立、承応年間(1652-1655)より始まった当地開発により、延宝3年(1675)に堀金村が成立、浅間社と称して祀られていました。明治5年に村社に列格、明治40年から明治42年にかけて地内の神社十二社を合祀、堀兼神社と改称しています。
引用元:堀兼神社の由緒
堀兼に敗走した義貞は、次の戦略を考えます。
更に天が義貞に味方します。三浦一族の大多和義勝が相模国の氏族約8000を統率し到着します。
義貞は幕府軍を油断させるために、多くの忍びを放ち幕府軍にデマを流し混乱させ、士気を下げます。
翌16日早朝、義勝を先鋒として義貞軍は2万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、士気が下がった幕府軍に奇襲攻撃を行い、大勝利します。
多くの兵を失った幕府軍は、北条泰家筆頭に敗走します。
さらに、5月7日に足利高氏が六波羅探題を攻撃し、滅亡させたとの情報が義貞軍、幕府軍に届いており、義貞軍への味方に加わる豪族が増加します、そして幕府軍は、兵の士気を下げ、逃げ出す兵が多く生じたと考えられます。
霞が関(関戸)の戦い
同日、新田義貞率いる討幕の主力軍7万は多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関(東京都多摩市関戸)にて北条泰家率いる幕府軍の残存部隊5万と激突します。
新田義貞が自らが先陣を切り幕府軍の本隊へ総攻撃を行います。
新田軍の圧倒的勝利となります。
義貞軍の圧倒的な攻撃に幕府軍の士気がさがり、逃げ出したり、義貞軍へ寝返る兵が続出します。
幕府軍は総崩れとなり、多くの兵を失い、僅かな手勢と鎌倉へ逃げ帰るのが精一杯でした。
この戦いの後、常陸や下野、上総の豪族たちが兵を率いて続々と義貞軍に合流し、勢いに乗った義貞の軍勢は数十万人に膨れ上がり、一気に鎌倉に向けて進軍を続けます。
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