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ヤマトの神々との戦い 唯一無二の最強神 甕星香々背男と武葉槌命を祀る 大甕神社

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輝く星 歴史

茨城県日立市にある「大甕(おおみか)神社」。いにしえから信仰の場、そしてパワースポットとして密かに人気の神社です。

大甕の甕(みか)は一般的にかめ、やツボを言うそうです。

大甕

大甕の由来
以上のことから、大甕は、神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられます。

皇紀元年/紀元前660年、当初久慈郡石名坂村の大甕山に鎮座していたそうです。

大甕神社の由緒

由緒

當社の創祀は詳らかではありませんが、社伝によれば皇紀元年(紀元前六六〇年)とあります。

鹿島・香取の二神が、服はぬ国津神・草木石類にいたるまで平定するも、唯一、甕星香々背男と称する星神を征服することができずにおりましたところ、二神に替わって大甕に赴き地主神の霊力を宿魂石に封じたのが倭文神武葉槌命であったと伝えられています。

此の地の住民、国土開発と国家安寧に尽力された神として、大甕山上の古宮の地に祀り祭祀が行われておりました。時は移り、江戸期元禄八年旧暦四月九日藩命により甕星香々背男の磐座、宿魂石上に遷座されてより三百年の星霜を経て今に至ります。

御祭神
主 神:武葉槌命(たけはつちのみこと)
地主神:甕星香々背男(みかぼしかがせお)
引用元:大甕神社ホームページ

鹿島神宮武甕槌神(タケミカヅチ)、香取神社経津主神(フツヌシ)の二神は、多くの神々だけでなく、草木石類にいたるまで平定してきたそうです。しかし、甕星香々背男を従わせることは出来ませんでした。
そこで武葉槌命がこの地に訪れ、甕星香々背男を従わせ宿魂石に鎮めたそうです。

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大甕神社(おおみかじんじゃ)

表参道側からの石段と鳥居

JR常磐線の「大甕駅」から徒歩15分の位置に大甕神社があります。

平日に参拝しましたが、多くの参拝者が訪れていました。

陸前浜街道側が表参道となります。

手水舎、龍の口から水が出ています。

境内は決して広くありませんが古い神秘的な雰囲気が漂います。

大甕神社の拝殿、龍神様が写られたのか、うねった龍の身体みたいなものが左下から右上に抜けています。

神様の化身と言われる、東天紅鶏が飼われており、境内を歩き回っています。

拝殿脇の稲荷神社

拝殿の神額には「式外 大甕神社」と金文字で書かれています。

拝殿は昭和8年に造営された、入り母屋造りの千鳥破風と軒唐破風様式です。

拝殿の彫刻「笑龍」

拝殿造営の際に制作され、鳥居から笑顔を見ながら近づくと口が開いていくように見えるそうです。

翔びくらげ
翔びくらげ

大甕神社に祀られている天香香背男は、神という位置づけで名付けられていますが、神様には皆付けられている「」(ミコト)名が付けれれておらず、正統の神々から嫌われていたのか、意図的に差別された神様と考えられます。
現在、正統な神々より意図的に差別や塗替えられた神様は、ヤマト王権以前より、日本に住まわれていた、超古代神が多く、東北地方や北海道に多く見られ、縄文時代の長き平和な時代を支えてこられた神々だと私は思っています。

ヤマト王権(ヤマトおうけん)
古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オホキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日本の政治および軍事勢力。

大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼせ、原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築した。

旧来から一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。
引用元:「ヤマト王権」2024年4月8日 (月) 10:30『ウィキペディア日本語版』

急な登り坂が参道です。

神社がある場所、その裏の元神社があった所も「宿魂石」と言われる、日本最古の5億1100万年前の地層カンブリア紀地層が、日立から常陸太田にかけて形成しているそうです。

別途記事に書いた御岩神社も同様に、このカンブリア紀地層の上に建立されています。

日本最古の地層と最古の神々、神社は何か関連性があるのでしょうか、今後、調べてみたいと思います。

大きな宿魂石、この石の中に「武葉槌命」により鎮められた「甕星香々背男」が封印されているようです。

参道には、登るための鎖が設置されています。

甕星香々背男の宿魂石を土足で踏みつけて登っていくのはかなり抵抗がありました。

その宿魂石上に遷座された主神「武葉槌命」の御本殿。今でも「甕星香々背男」の上で取り押さえているように鎮座されています。

この御本殿は、1695年水戸藩主・徳川光圀の命により宿魂石の上へ遷座されたそうです。

主神「武葉槌命」が祀られた 、大甕神社の御本殿です。

拝殿とともに、昭和8年に造営されたそうです。拝殿と同じ千鳥破風と軒唐破風様式です。

建葉槌命(たけはづちのみこと)
倭文神(しとりがみ)とされる。また、『新撰姓氏録』の山城国神別 天神 巨椋連の条では止与波知命(とよはちのみこと)、山城国神別 天神 神宮部造の条では天破命(あまのはのみこと)、『安房国忌部家系』に収録されている「齋部宿祢本系帳」では天羽雷雄命(あまのはづちおのみこと)、別名、武羽槌命(たけはづちのみこと)、止与波豆知命(とよはづちのみこと)とある。

天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。
引用元:「天羽槌雄神」2024年3月17日 (日) 23:16『ウィキペディア日本語版』

甕星香々背男社

最強の神様、甕星香々背男が祀られている社殿です
もともとは、甕星香々背男のお社は無かったそうですが、地元の人達から甕星香々背男のお社が欲しいという要望が多数あり、建立されたそうです。

甕星香々背男社の神額は、凝ったデザインで名前の上に星のマーク五芒星が輝いて見えます。

天津甕星(あまつみかぼし)
日本神話に登場する星の神である。別名は天香香背男(あめのかがせお)、香香背男(かがせお)。
概要
『古事記』には登場しない。『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
『日本書紀』巻第二 神代下 第九段本文
【原文】
一云「二神、遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星神香香背男耳。 故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。」

【現代語訳】
一説によれば「二神(タケミカヅチとフツヌシ)は、ついに邪神や草木・石の類を誅伐し、皆すでに平定した。唯一従わぬ者は、星の神・カガセオのみとなった。 そこで倭文神・タケハヅチを派遣し、服従させた。そして、二神は天に登っていかれた。倭文神、これをシトリガミと読む。」
本文(上述)では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかった。そこで倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。

甕星香々背男社の前に儀式殿(社務所)があります。こちらで御朱印を頂きました。

国道6号線側の大甕神社への参道、大鳥居、令和の記念事業として令和5年に竣工した神門が神々しく輝いて見えます。

静三龍神社

参拝されていた方の多くは結界石から甕星香々背男社、または本殿へ向かわれていました。

あまり知られていない龍神様なのでしょうか。大甕神社境内図にも記されていませんでした。

龍神様を祀る祠が、本殿の裏に祀られています。

もともとは磐座の麓に祀られていたそうですが、2022年に磐座中腹に遷座されたそうです。

「静」という名から、武葉槌命が祀られている那珂市にある静神社に御縁のある龍神様なのでしょうか。
今年は辰年でもあり、かなり強いパワーを発しておられました。

境界石

結界石。別名縁切石と言うそうです。御札が鱗のように貼られ、不気味な様態です。

穴をくぐり抜け御札を貼ると「現世の悪しき縁を断ち切る」願いが叶うそうです。
御札には、

波瑠部由良由良波瑠部
布瑠部由良由良布瑠部

と書かれています。

布瑠の言(ふるのこと)
「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。
『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。
「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。
引用元:古代史俯瞰 by tokyoblog 様ホームページ「十種神宝、石上坐布留御魂神社、物部」より

先日、放送されていた、「やりすぎ都市伝説」で、あばれる君が大甕神社へ参拝に出向いた放送されていましたが、その放送でこれから福島に向かうあばれる君に対して宮司さんは、「大甕の地は関東平野が終わり阿武隈山地入口の地でもある、此処から北は未知の国であり、神様が多数おられる所であり、この境界石で汚れを払い落として行きなさい。」と話されていました。

残念なこと

ヤマト王権以降、現代に渡り、塗り替えられてしまった神々の扱いは、私は残念で仕方がありません。

この大甕神社の敷地ど真ん中に、国道6号線を開通させたという所業に驚嘆しました。

宿魂石と言われている、カンブリア紀層にダイナマイトを仕掛け、爆破し道を開通させてしまいました。

赤丸部分が爆破された所

詳しい年月はわかりませんが、1948年(昭和23年)建設省発足により内務省から引き継がれ、以降江戸時代の水戸街道・岩城相馬街道そのままの状態であった未改良区間の改良工事が本格的に開始されました。
市街地・旧宿場町集落の迂回と自動車通行に適した直線化を重点に下記の区間でバイパス化の工事が行われました。
そして、大甕・神峰改築(日立市大みか町 – 日立市滑川町 13.2Km(現道拡幅を含む))の工事が行われたそうです。

このときに、宿魂石に封印されていた甕星香々背男は、封印から解き放たれた可能性も考えられます。

甕星香々背男を鎭めるため

御濱降神事

5月5日に執り行われる、地域安寧、大漁満足、五穀豊穣を祈願する漁師町らしい雄壮な祭事です。
御神体を大神輿(八角神輿)に遷して氏子地域を巡行した後に、久慈漁港より漁師達が船団を組み船渡御を行い、宿魂石の根っこといわれる御根様を周回し還幸します。


星鎮祭

毎年1月中旬頃、千葉県の香取神宮で「星鎮祭」が行われています。
神主が土中に竹を刺し、固定した「星的」に向けて矢を放ちます。その矢が「星的」を射抜き背後の壁に刺さるそうです。
さらに砂で築いた「星塚」に射手が四方に竹を刺し、甕星香々背男の霊を鎮めるとともに、香取神社の御祭神である経津主神を称えるのだそうです。

甕星香々背男を鎭める祭には思えませんでした。


鹿島神宮の殿の向き

ヤマト政権による東北進出(大甕神社)の前進基地として鹿島神宮は機能していたと言われています。
そのため、東北に睨みすえるため、社殿を北向きで建立されたと言われています。

翔びくらげ
翔びくらげ

残念ながら、「御濱降神事」以外の行事は、甕星香々背男を鎭める行事に思えませんでした。
近いうちに鹿島神宮、香取神宮に参拝に出向き、確認してきます。

【参考文献】

大甕神社ホームページ
「大甕神社」2021年5月14日 (金) 08:10『ウィキペディア日本語版』
古代史俯瞰 by tokyoblog 様ホームページ「十種神宝、石上坐布留御魂神社、物部」より

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