政府やJICAの支援も打切られ、孤立無援になっても私財を投じ、医療過疎地に生涯を捧げた医師 谷垣雄三 愛妻とアフリカ大陸に眠る!!

英雄伝

さだまさしの歌「風に立つライオン」で知られている、アフリカやアジアなどの発展途上国で医療協力を続けた柴田紘一郎さんは有名ですね。

同じアフリカ生涯を捧げた日本人医師がいます。西アフリカのニジェールで35年間にわたり医療活動や医師の育成を行った日本人外科医谷垣雄三」さんを紹介します。

生い立ち

谷垣雄三は、京都府京丹後市峰山町に生まれ地元の小・中・高校を経て1961(昭和36)年に信州大学に入学します。

その後、1970年に医師の国家試験に合格した雄三は、最初は船医として働きます。


その後、埼玉の小川赤十字病院で働き、日々診察や手術を行い整形外科医としての技術を磨いて行きました。


その後、結核予防会保生園病院外科帯広総合病院外科などに勤務し外科医として技術を高めていきました。

過疎地での医療活動~

1979年、サハラ砂漠の鉱脈調査チームが、医師を募集しており、雄三はこれに応募します。

引用元:OpenStreetMap


当時、ニジェールでは軍がクーデターで軍事政権を樹立し、ウランの生産が行われており、雄三の勤務先もこのウラン鉱脈の調査チームでした。

1980年ごろまでは経済が成長していましたが、旱魃(かんばつ)が起き、ウラン価格も低迷し経済は停滞します。


雄三の務める鉱石調査チームは約1年3ヶ月ニジェールに滞在しますが、ウランが見つからず撤退し帰国することになります。

ニジェール共和国(ニジェールきょうわこく、フランス語: République du Niger)、通称ニジェールは、西アフリカのサハラ砂漠南縁のサヘル地帯に位置する共和制国家。首都はニアメ。内陸国であり、北西から反時計回りでアルジェリア、マリ、ブルキナファソ、ベナン、ナイジェリア、チャド、リビアと隣接する地域です。
軍政期(最高軍事評議会)
1974年4月、陸軍のセイニ・クンチェ参謀長がクーデターで軍事政権「最高軍事評議会」を樹立し、同評議会の議長に就任。憲法は停止され、議会・政党活動も中止された。クンチェ政権のもとでは北部のアーリットでウランの生産が開始され、また旱魃が収まったため1980年ごろまで経済は成長を続けたが、その後はまた旱魃が起き、ウラン価格の低迷もあって経済はふたたび停滞した。1987年11月にはクンチェが死亡し、アリー・セブが後継者となった。
引用元:「ニジェール」(2024年1月30日 (火) 18:11 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』


軍事政権下医療事情はきわめて劣悪で悲惨なものでした。慢性的な資源不足と人口に比べて医療提供者が少数で、満足な医療が受けられていませんでした。

雄三はもともと医療過疎地で働きたいと話していたこともあり、日本での医療過疎地以上の悲惨な状態のニジェールを知り、衝撃を受け心が動きます。

さらに、サハラ砂漠で地元の遊牧民トゥアレグ族の生活やアフリカの大自然に魅了され、医者としてニジェールで働きたい衝動に駆られます。

トゥアレグ族の食事は,ヤギの乳を少し発酵させた
もの,あるいはチーズにしたもので,1日2回の質素
な食事であった。が,あくせくと日々の生活に追われ
働くのでなく,ゆとりのある時間を満喫していた。彼
はこの国の風習に戸惑う一方,感動すら覚えたようだ。
彼はニジェールの人が名誉とするのは,好意のある
もてなし,親切,優しさ,分け隔てしない対話,共に
食べ,休息所を提供できることだという

引用元:信州医誌 VOL65 追悼 谷垣雄三先生の軌跡 より

1982年、JICA専門家としてニジェールの首都ニアメ国立病院に外科医として派遣され、その後もニジェール国立大学医学部の外科教授や地方外科制度の構築に携わります。

アフリカでの活動

1982年当時、外科医ニジェール全土に2名だけでした。


雄三は、2017年3月に亡くなるまで、ニジェールの人々のために医療活動を続けました。


医療物資が乏しいため故郷に「ガーゼ代わりに使いたい」と依頼し、タオル集め募金活動を続けます。支援活動は故郷の峰山町だけでなく、全国に広がります。

雄三は、1988年にニジェールで行われた日本人医師の会議で、日本赤十字社看護師としてアフリカで活動していた静子さんと出会います。二人はすぐに意気投合し、1990年に結婚します


以後、静子さんは谷垣雄三の医療活動を支えるとともに、自らも絵画や写真などの芸術活動を展開しました。


首都ニアメの国立病院で10年間の外科医療に専念した雄三は、1992年首都ニアメから770km離れたテッサワに、文字通り案内人となるパイロットセンターを立ち上げます。


雄三はその設立に際し、第1 に患者の負担可能な範囲で手術治療を行い、第2に外科医の養成を主眼に置いていた。すべて手探りの状態からの出発で悪戦苦闘の連続でした。


このセンターは彼がJICAの支援を受けながらも、ニジェール政府の援助に頼らない、私財8,000万円を投じた外科医療施設でした。

ここで雄三は過酷な医療事情に弱音を吐くことなく2名の外科専門医を養成します。これは雄三の長年の念願であった地元の自立した医療機関の実現を象徴するマイルストーンでもありました。

独立行政法人国際協力機構
(どくりつぎょうせいほうじんこくさいきょうりょくきこう、英: Japan International Cooperation Agency、略称: JICA)とは、独立行政法人国際協力機構法に基づいて設置された独立行政法人。
外務省が所管する。政府開発援助(ODA)の実施機関の一つであり、開発途上地域等の経済及び社会の発展に寄与し、国際協力の促進に資することを目的としている。前身は1974年(昭和49年)8月に設立された特殊法人国際協力事業団であり、2003年(平成15年)10月1日に現名称へ変更された。
引用元:「国際協力機構」(2023年12月19日 (火) 02:33 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

静子さんの訃報

地域の外科医療を先導するパイロットセンターが始動して数年たったとき、静子夫人は原因不明の高熱に苦しみ、1999年5月23日に天国へ旅立ってしまいました。


雄三は最愛の妻を突然病気で失うという苦境にめげるどころか、まさに執念信念とに突き動かされ、地域の外科医療の向上のため診療に邁進しました。


患者は何日もかけて、遠くの砂漠地帯などから牛車やラクダの背に乗ってやってきました。

パイロットセンター構想は、その後2001年にJICAとの契約期限が切れ、当時ニジェール政府が、世銀や他の国から多額の援助資金を調達し「人民プロジェクト」を創設したことで、それまでの基本路線を変更せざるを得なくなります。


ニジェール政府は外部からの資金援助の追い風に乗って、外科病院を36ヵ所新たに増設するといった方針を打ち出します。そうした動静を探ろうとしたう雄三でしたが、相手がニジェール国であって、しかも政府の意向の前に、彼は万策尽きてセンターを撤退する以外に打つ手がありませんでした。

ニジェール共和国ご都合主義によってパイロットセンター構想は閉鎖に追い込まれてしまいます。


JICA からの単独派遣の支援も終了し雄三は孤立無援となってしまいますが、私財を投じて医療活動を続けていきます。


静子さんの墓の横に自分の墓を用意し、生涯をニジェールで過ごしました


2017年3月6日(日本時間7日)谷垣雄三は生涯を閉じます。享年75歳。


10日朝、告別式が彼の自宅裏庭で執り行われました。


参列者在コートジュボアール川村大使大統領名代のマラディ州知事テッサワのカントン長、地域の指導者、村人、過去の教え子の医師たち、パイロットセンター職員達でした。


雄三が半生を捧げこよなく愛したアフリカ・ニジェールの大地、静子夫人の墓の横に用意された場所に丁寧に葬られました。


生前、雄三は「静子を1人で置いていけない」と、決意した通り、静子さんの横に仲良く眠っています。

翔びくらげ
翔びくらげ

日本からはるか遠くのアフリカの地で、私財を投じて活動された、素晴らしき日本人、谷垣雄三先生は、ウィキペディアにも掲載されておらず、本当に残念です。一人でも多くの人に谷垣先生の活動を知っていただければと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

信州大学 アフリカの大地に人生を捧げた日本人医師の物語。
ニジェールの外科医と静子さん
「ニジェール」(2024年1月30日 (火) 18:11 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

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