西南戦争(せいなんせんそう)は、九州で行われた、日本最後の本格的な内戦です。
この戦いの中心人物は、幕末の江戸城無血開城を実現した最大の功績者です。なぜ自ら築いた新政府と戦うことになったのでしょうか。
明治維新後に起こった最大の内戦
西南戦争は、1877年(明治10年)2月から9月にかけて九州で行われこの戦いの中心人物は、明治維新の立役者として名を馳せた西郷隆盛でした。
かつて新政府を支えた英雄が、なぜ旧友である大久保利通らの率いる政府軍と刃を交えることになったのでしょうか。
その背景には、急速な近代化がもたらした社会構造の変化と、士族階級の没落、そして西郷自身の信念との衝突がありました。
薩摩藩士が政府と戦った理由
西南戦争は、単なる一地方の反乱ではありません。薩摩藩士たちにとっては、自らの誇りと生活を守るための戦いでもありました。政府の改革は近代国家への道を開きましたが、その過程で多くの士族が職と収入を失い、社会の周縁に追いやられていきます。西郷はそうした士族の不満を背負い、戦場に立つこととなりました。
西郷隆盛と明治新政府
1867年10月土佐藩の坂本龍馬や後藤象二郎、山内容堂らの立案・推進により「大政奉還」が第15代将軍・徳川慶喜に提言され、慶喜は政権を朝廷に返上します。
西郷隆盛は「大政奉還後の政治体制をどう進めるか」という局面で重要な役割を果たしました。
・武力討幕の準備
西郷は薩摩藩(島津藩)を率い、長州藩とともに倒幕運動の中心人物でした。
大政奉還前には、討幕のために兵を整え、いわゆる「討幕の密勅」を得ていました。
・大政奉還への対応
大政奉還が実現すると、表向きは戦わずに政権が返上された形になりました。
西郷は当初より「これでは不十分」と考えており、武力を背景に徳川家を政治から退ける必要があると主張し
ました。
・王政復古の大号令
大政奉還の直後、西郷は岩倉具視らと共に「王政復古の大号令」を画策し、徳川家を新政府から排除する体制
を成立させました。
これが戊辰戦争(1868年)の引き金となり、西郷は実質的な軍事指導者として活躍します。
維新の立役者としての功績
西郷隆盛は薩摩藩の下級武士の出でありながら、卓越した政治的手腕と人望で頭角を現しました。幕末期には倒幕運動の中心人物として活動し、戊辰戦争を勝利に導きます。特に勝海舟と交渉し江戸無血開城を実現した功績は、国内外で高く評価されました。

西郷隆盛と勝海舟が、江戸開城をめぐり交渉する場面を描く
維新後は新政府の参議として版籍奉還や廃藩置県に関わり、日本の近代化を推進します。
版籍奉還
明治維新後、1869年(明治2年)大久保利通などの提案により実施された政治改革です。
江戸時代より、藩主が治めていた版(土地)と籍(人民)を朝廷に返上しました。
そして各藩の藩主が、知事という役職に変更されました。
大久保利通との方向性の違い

しかし、政府内部では大久保利通らが中央集権体制と産業近代化を急ぐ一方、西郷は地方や士族層への配慮を
重視していました。この方針の違いは次第に大きな亀裂となり、やがて決定的な対立を生むことになります。
大久保利通
1830年(文政13年)鹿児島県鹿児島市高麗町に、藩士・大久保利世と福の間に長男として生まれる。
幼少期に加治屋町移住。加治屋町の郷中や藩校造士館で西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。
武術は不得意であったが、得意の学問を活かし薩摩藩で出世し、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古の大号令を計画して実行する。
参議に就任後、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。
朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。同年に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。
なぜ西郷隆盛は戦わざるを得なかったのか
征韓論争と政界引退の真相
1873年(明治6年)、朝鮮との国交問題をめぐり「征韓論」が浮上します。西郷は外交交渉のため自ら韓国へ赴くことを提案しましたが、大久保らは国内の近代化を優先し、これを拒否しました。
この決定に失望した西郷は政界を退き、鹿児島へ帰郷します。ここから、西郷は中央政治から距離を置くことになります。
士族の生活破綻と私学校の役割

鹿児島に戻った西郷は、若者の教育と生活支援を目的に「私学校」を設立します。集まったのはほとんどが旧薩摩藩士で、彼らは廃藩置県と秩禄処分で収入を絶たれ、社会的地位も失っていました。
私学校はやがて軍事訓練の場となり、政府からは反乱の温床と見なされます。
秩禄処分(ちつろくしょぶん)
当時、秩禄は基本的に米によって支給されていて、士族たちは秩禄によって生計を立てていました。
新政府が士族などに支払われていた秩禄を廃止するためにとった一連の政策です。
政府との対立と武力衝突への道
1877年(明治10年)1月下旬、鹿児島での反政府的な動きを心配していた新政府側は、鹿児島の草牟田の弾薬庫からエンフィールド銃、弾薬等を深夜に密かに搬出します。
この動きに反発した一部の私学校徒が施設を襲撃して1月29日夜から2月1日にかけて武器弾薬を奪取する事件が発生しました。
西郷は彼らを抑えきれず行動を共にする決意を固めます。この時点で、武力衝突はほぼ避けられない状況にありました。

エンフィールド銃
アメリカの南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。
これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは幕末の日本にも1864年(文久3 – 4年)頃から外国商人らによって輸入され、特に薩摩藩が多く輸入したとされている。
西南戦争
西郷は私学校幹部が提案した率兵上京を承認、1877年2月15日に西郷隆盛らの本隊、総勢1万3千人が鹿児島を出発しました。
熊本城攻防戦と田原坂の戦い
1877年2月21日夜半から22日の早暁にかけて薩軍の大隊は順次熊本に向けて発し熊本城を包囲しました。
しかし、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え籠城戦は長期化します。
谷干城(たに たてき、1837年~1911年)
土佐藩出身の武士で、明治維新後に陸軍中将・熊本鎮台司令長官を務めた人物です。特に1877年(明治10年)の西南戦争において、熊本城を死守した功績で知られます。西南戦争は、西郷隆盛を盟主とする薩摩軍が政府に反旗を翻した大規模な内戦でした。薩摩軍は緒戦で勢いを持ち、熊本城を包囲しましたが、谷は兵力で劣りながらも徹底した守備を指揮し、籠城戦に持ち込みます。食糧不足や連日の攻撃にも屈せず、冷静かつ強い意志で部下を統率したことで、城はついに落ちませんでした。この奮戦が政府軍の反攻を可能にし、西南戦争の勝敗を大きく左右したのです。戦後、谷は「忠臣の将」と称賛され、後に農商務大臣や貴族院議員も務めました。実直で責任感の強い人柄は、明治新政府の軍人・政治家の中でも高く評価されています。

谷干城についてはまた記事を書きたいと考えています。
政府軍は近代的な装備と物資を備え、薩軍は次第に劣勢に立たされます。
田原坂の戦いでは、激しい銃撃戦と刀剣 などで戦う近接戦闘が連日続き、薩軍は甚大な損害を受けました。この戦いが薩軍の転機となり、戦況は政府軍優勢へと傾きます。



田原坂の戦いについては、今後、現地に出向き取材の上、記事を書きたいと考えています。
近代兵器と物資不足の格差
政府軍は新式ライフル銃や大砲を用い、物資補給も安定していました。一方、薩軍は旧式の武器と限られた弾薬しかなく、戦うほどに体力と士気が削られていきました。
鹿児島城山での最期
9月24日、追い詰められた西郷は鹿児島城山に立て籠もります。
午前4時、政府軍の総攻撃が始まり、西郷は戦況が絶望的であることを悟ります。


西郷と桐野利秋、桂久武、村田新八、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、鹿児島城岩崎口に進撃します。
最初に国分寿介が剣に伏して自刃します。桂久武が被弾して倒されると、弾を受けて落命する者が続き、島津応吉邸前で西郷も股と腹に被弾してしまいます。
西郷は別府晋介を呼び「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座(きざ)し遙かに東に向かって拝礼します。
介錯を命じられた別府は、涙ながらに「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねたそうです。
西郷隆盛 享年51(満49歳没)。この瞬間、西南戦争は終結しました。
別府晋介(べっぷ しんすけ、1847年~1877年)
西南戦争において西郷隆盛を最後まで支えた薩摩藩出身の武士です。
晋介は西郷を厚く尊敬しており、西郷が上京した際にも同行しています。
若い頃から西郷の腹心として仕事を行い、戊辰戦争や明治維新の諸戦役にも従軍しました。西南戦争では、西郷軍の重臣として奮戦し、熊本城攻囲や各地の戦いに参加します。しかし次第に劣勢となり、薩摩軍は鹿児島の城山に追い詰められました。別府は西郷の意志をくみ取り、西郷の介錯を務めたと伝えられます。
その後、自らも敵陣に斬り込み、弾雨の中で壮絶な最期を遂げました。享年31。
西南戦争が残した教訓
士族時代の終焉
西南戦争は、武士階級が政治・軍事の主役であった時代の終わりを告げました。士族は武力ではなく、新しい社会の中で生きる術を模索せざるを得なくなります。
近代国家の軍事体制確立
この戦争を通じ、政府は徴兵制による近代的軍隊の有効性を証明しました。以後、日本は中央集権的な国家として軍事力を整備し、近代国家への道を加速させます。
西郷隆盛の精神が語り継がれる理由
西郷の戦いは、単なる反乱ではなく、弱き者の立場を代弁した行動として後世に語り継がれます。彼の「敬天愛人」の精神は、今もなお日本人の心に深く刻まれています。
敬天愛人(けいてんあいじん)
明治時代の啓蒙思想家、中村正直の造語で、天を敬い人を愛すること。
この言葉は、西郷隆盛の座右の銘であり、「南洲翁遺訓」に登場することで広く知られている。

西郷隆盛の墓は、鹿児島市内を見下ろす小高い丘の南州墓地に祀られています。

墓地からは鹿児島市内が見渡せ、今でも鹿児島を見守っています。
おわりに
西南戦争は、日本が近代国家へ進む過程で避けられなかった衝突でした。西郷隆盛が戦わざるを得なかった背景には、急激な社会変化によるひずみと、士族や地方民への深い思いやりがありました。
その最期は、明治維新の光と影を象徴する出来事であり、私たちに今も多くの教訓を与えています。

偉人 西郷隆盛ではなく、今回は「西南戦争」に視点を当てて記事を書いてみました。違った角度から見た西郷隆盛。その素晴らしい人物像に、また改めて西郷隆盛の人物像について記事を書きたいと思いました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「西郷隆盛」2025年8月4日 (月) 18:41『ウィキペディア日本語版』
「大久保利通」2025年8月4日 (月) 21:39『ウィキペディア日本語版』
「西南戦争」2025年8月14日 (木) 04:56『ウィキペディア日本語版』
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