「神様に呼ばれないとたどり着けない」と言われる神社に参拝してきました。
玉置神社は奈良県と和歌山県の県境に位置し、古来より神々の霊が隠れ籠る独自の聖域とされ、熊野三山の奥院と称せられています。
玉置神社の由緒
神社概要
玉置神社は大峰山脈の南端に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くに鎮座し神武天皇御東征の途上として伝承されています。
創立は紀元前三十七年第十代崇神天皇の御宇に王城火防鎮護と悪魔退散のため早玉神を奉祀したことに始まると伝えられています。
古くより熊野から吉野に至る熊野・大峰修験の行場の一つとされ、平安時代には神仏混淆となり玉置三所権現または熊野三山の奥院と称せられ霊場として栄えました。
江戸時代には別当寺高牟婁院が置かれていました。その後、慶応四年の神仏分離により神仏混淆を廃し以後玉置三所大神、更に玉置神社となり現在に至っています。
境内には樹齢三千年と云われる神代杉を始め天然記念物に指定されている杉の巨樹が叢生し、平成十六年には「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。
引用元:玉置神社社務所HP
崇神天皇
父の開化天皇より即位した時代は、流行病が流行り、民の多くが命を落としてしまう大変な時代でした。
さらに、各地で力を付けた豪族や反乱者が現れ、各地で反乱が勃発していました。
崇神天皇は、宮中でお祀りしていた「天照大神」と「倭大国魂神」を疫病退散のため、神託を受けた場所に移しました。このことが、後の「伊勢神宮」、そして「三輪明神 大神神社」の始まりと言われています。
また、4人の将軍「四道将軍」を設け、大彦命は北陸道、武渟川別は東海道、吉備津彦命は西海道、彦坐王は丹波道にそれぞれ派遣し、各地の平定に尽力しました。
「神様に呼ばれないとたどり着けない神社」と言われる理由は!?
玉置神社が「神様に呼ばれないとたどり着けない神社」と言われる理由は、そのアクセスの難しさと神秘的な雰囲気にあります。
1)アクセスの難しさ: 玉置神社は奈良県と和歌山県の県境に位置し、標高1076mの玉置山の山頂にあります。
公共交通機関を利用する場合、バスの本数が少なく、車で行く場合も狭い山道を通る必要があるため、天候や運転技術が求められます。
2)スピリチュアルな体験: 多くの参拝者が「予定していた日に急用が入って行けなくなった」「車のナビが壊れた」などの不思議な体験を報告しています。このような体験から、「神様に呼ばれた人しか辿りつけない」と言われるようになりました。
3)歴史と霊力: 玉置神社は紀元前37年に創建され、修験道の開祖である役小角や弘法大師も訪れたと伝えられています。神社の周囲には樹齢3000年を超える神代杉など、神聖な雰囲気を醸し出す自然が広がっています。
玉置神社に行くには
玉置神社は奈良県の最奥にあり、細い林道(一応舗装はされています)を車で進まなければ着けません。
道幅は狭く、途中対向車と出会う度に冷や汗が出る箇所も多く、天候等により土砂崩れや落石、倒木なども発生しているようです。
上のGoogleストリートビュー写真のようにかなり狭い道が続きます、事故を起こさないよう低速で慎重な運転が必要です。
狭い林道をしばらく進むと玉置神社の駐車場に到着します。
駐車場から撮影した周囲の写真です。かなり山奥であるとわかります。
天気が良ければかなりの眺望が望めると思います。
玉置神社へ
駐車場入口側の反対側に参道の入口第一鳥居があります。
栄山という茶店がありましたが、あいにく平日だったのでお休みでした。
参道入口には案内図がありました。
玉置神社に無事に来れたことに感謝し、一礼して第一鳥居をくぐります。そしてなだらかな参道をしばらく進みます。
参道の脇には参拝者が奉納した「玉置神社」の旗がたくさん掲げられています。
しばらく歩くと山之神様が祀られていました。
色々調べていましたが、ここの山之神様について説明が見つかりませんでした、玉置山にいらっしゃる神々をお祀りしているのだと思います。
参道を更に進むと左右に別れます。どちらも約20分歩きます。
右は山を下って行く細い山道の参道です。こちらの参道が一般的だそうです。しかし上り下りが激しい山道です。
案内図から、道は険しいですが手水舎、御本殿正面の石段に出る、参拝ルートだそうです。
左の道は広くなだらかな参道(林道)です。社務所の裏手に出る道で、工事車両が通っていました。
足腰に自信のない方、ご年配の方はこちらの道を選ぶと良いかと思います。
左の参道を選び進むと、しばらく下り坂が続きます。
そのまま山を降りてしまうのではと思えるほど下りが続きます。
山の上には先程の分岐の左側の参道(林道)に掲げられた玉置神社の旗が見えます。
下りが終わると今度は上り坂になります。
息を切らしながら参道を登っていくと、ついに手水舎に到着しました。
無事にここまで到着できたことに感謝しました。
手水舎の前に「大杉」への下り坂があります。
本殿に参拝する前に、「大杉」にご挨拶に向かいます。急坂を滑らないように注意して一歩一歩下っていきます。
「大杉」が天高くそびえています。
山の斜面に大杉が立っていました。廻りの木々に囲まれ、巨木に見えませんが、近づくと大杉の巨大さが良くわかります。
樹齢約1000年 樹高約 50m、胸高幹周 10.3m(諸説あり)の巨大な杉です。
大杉の周囲には柵があり近づくことはできませんが、大杉からパワーを頂き、ここまでの疲れが薄れた気がしました。
手水舎で手と口を清め御本殿への石段を登っていきます。
境内では「令和の大改修」が行われており、各所工事が行われていました。
最後の石段を登ると玉置神社の本殿に着きました。
境内は玉置山9合目ということもあり、想像していた以上に狭いです。
御本殿
玉置山の頂上近く、標高1000m付近に鎮座する玉置神社は、第十代崇神天皇の時代に王城火防鎮護と悪神退散のため、 創建されたと伝えられています。
入母屋造り内陣に三社を奉祀、欅(けやき)材の堂々たる社殿です。
引用元:玉置神社社務所HP
本社御祭神
国常立尊(くにとこたちのみこと)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冊尊(いざなみのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
引用元:玉置神社社務所HP
御本殿左脇に建立されている、末社「若宮社」(手前)、末社「神武社」(奥)です。
末社・若宮社(写真手前)
八幡大神(はちまんのおおかみ)
春日大神(かすがのおおかみ)
住吉大神(すみよしのおおかみ)
末社・神武社(写真奥)
速玉男神(はやたまおのかみ)
迦具土神(かぐつちのかみ)
高倉下神(たかくらじのかみ)
引用元:玉置神社社務所HP
更に奥に進むと「大日堂社」(だいにちどうしゃ)が建立されています。
大日堂社は、明治初期に廃止された大日堂を平成4年(1992)に再建したものです。堂宇(どうう)は仏堂と社殿を折衷(せっちゅう)した堂社形式で建造されており、外部を入母屋造りの神社建築とし、内部には仏像を納める六角堂を配置します。
御本尊は木造双身大日如来坐像で、金剛界・胎蔵界大日如来が背中合わせに坐すかたちで表されています。また、二尊にそんを安置する台座は輪転りんてんするように組み立てられていて、元号の奇数年には金剛界、偶数年には胎蔵界の大日如来像が正面を向くよう、節分の日に回転祭が執り行われます。
なお、毎月8日は堂宇の外扉を開けて六角堂を公開しており、毎年8月8日の例祭日には御堂内部の御本尊も御開帳いたします。拝観については建物の外部からに限り可能となっています。
引用元:玉置神社社務所HP
御本殿裏にまわると、樹齢約750年 樹高約 25m、胸高幹周 8.5m(諸説あり)の夫婦杉がそびえ立っていました。巨大杉の下部分が繋がり、夫婦が仲良く肩を組んでいる姿に見えました。
夫婦円満のパワーをたっぷり頂きました。
裏手を更に奥に進むと、樹齢約3000年 樹高約 28m、胸高幹周 8.4m(諸説あり)の神代杉があります。
山の斜面にしっかりと根をおろし約3000年の悠久の時を過ごした大杉です。
ここから日本の歴史を静かに見守っておられたことでしょう。
残念ながら木は至る所で枯れや損傷が生じており、3000年を行きた凄まじい生命のパワーがかなり弱くなってきている気がしました。
再び御本殿前に戻り、今度は右奥に向かいます。工事中の社務所脇を通り抜けると三柱社の手水舎があります。
参道の右側の参道(林道)がこの手水舎前に繋がっていることから、林道ルートから参拝される方の手水舎だと考えられます。
三柱神社です
摂社・三柱神社
玉置神社境内に古くより鎮座されております三柱神社については謎が多く、説明が難しいのですが、よくご質問をいただく点などを中心に簡単にまとめさせていただきました。
まず「摂社」とは本社に付属し、本社に縁の深い神様や特別の由緒がある神様をお祀りした神社を指します。
三柱神社の神様は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)・天御柱神(あめのみはしらのかみ)・国御柱神(くにのみはしらのかみ)の三柱と伝わります。
この倉稲魂神は京都府の伏見稲荷大社で農業や商売繁盛などの神様として、また天御柱神・国御柱神は奈良県生駒郡の龍田大社で風を司る神様としてお祀りをされていることで知られます。
三柱神社は別名「稲荷社(いなりしゃ)」とも呼ばれますが、稲荷信仰が盛んになる前から地主神(じぬしのかみ)としてお祀りをされており、厄除けや心願成就さらに精神の病(ノイローゼなど)また海上安全にも特別の霊験があるとされています。
毎年、3月の初午の日(今年は3月12日)に行われる三柱神社の例祭は初午祭とも呼ばれ、10月24日に行われる本社・玉置神社の例祭に次いで、盛大に行われます。
引用元:玉置神社社務所HP
摂社・三柱神社御祭神
倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
天御柱神(あめのみはしらのかみ)
国御柱神 (くにのみはしらのかみ)
三柱神社の右わきを抜けると出雲大社玉置教会です
出雲大社玉置教会は、明治20年(1887)に造営された出雲大社教の教会です。神殿には出雲大社の御分霊ごぶんれいをお祀りしており、合殿あいどのには十津川郷中の祖霊それいが合祀されています。
十津川郷では明治4年~6年にかけて全村で寺院が廃止されました。このため郷内では神道を本教とし、神官が教導職きょうどうしょくという役職を兼務して宗教活動や国民教化を行っています。
しかし、同15年に神官の宗教活動が基本的に禁止され、神社に奉仕する神官と、教会で宗教・教化を行う教導職が分離されることになります。また、2年後には教導職の制度も廃止されました。
そうしたなか、十津川では郷中の協同一致を計るため、同18年に出雲大社教へ布教を願い出ます。そして、全村民が大社教に属し、神官は大社教の教師を兼補して戦前まで布教を続けることになりました。その拠点となったのが玉置教会です。
引用元:玉置神社社務所HP
出雲大社玉置協会の前を進むとすぐに真名井社があります。
玉置神社の水の神様(真王水神)として創建(紀元前三十七年)以来この場所に祀られていたと伝えられています。
昭和五十年代に、湧水がほとんど出なくなり、崇敬者の人たちが、湧水がもとのように湧き出る事を祈願して、この「真名井社」を奉納しました。すると不思議なことに、水がもとのように湧き出したと言われています。
案内板より
真名井社を過ぎると厳しい山道が続きます。
ひたすら登っていくと玉石社が見えてきます。
玉石社に着きました。
玉置神社の社殿が建立される前は、この石が御神体として祀られていたそうです。
この写真中央部の玉石が写真から飛び出してきそうなパワーを感じます。
末社・玉石社
古代、神武東征以前から熊野磐座信仰の一つとして崇められてきた玉石は、 玉置神社本殿と玉置山頂上中程に鎮座します。
社殿がなくご神体の玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。
玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を 鎮めて祈願したと伝わっています。
大峯修験道では、玉石社を聖地と崇め、本殿に先んじて礼拝するのが習わしと なっています。
引用元:玉置神社社務所HP
ここから玉置山山頂まで僅かな上り坂だそうですが、急な上りが続き、このあと天川弁財天に行く予定でしたので、体力を温存し、山頂は諦めました。
帰りは三柱神社脇からなだらかな山道(林道)を進みます。
途中、白山社が祀られていました。
白山社
石川県「白山比咩神社」が本宮
御祭神 菊理姫命(くくりひめのみこと)
黄泉の国との境界で対峙する二人の前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊伊・弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神や月読尊須佐之男尊が生まれます。菊理媛は現在「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬されています。
引用元:玉置神社社務所HP
呼ばれないと参拝できない神社「玉置神社」に無事参拝ができました。
かなり長い参道でしたが、参拝できた安堵感が心を軽くし、足取りも軽く駐車場に帰ることができました。
また再び参拝させていただけることを願い、駐車場をあとにします。
呼ばれないと参拝できない神社として有名な「玉置神社」。翔びくらげ自身は、身を清め、かなり緊張して参拝させていただきましたが、当日、同じ参拝者でサンダル履きの人、女性ではよく山道を来れたなと思えるヒールのある靴などで参拝されている方、帽子を被ったまま本殿で祈願されている方などを見ました。最近、他の神社でも多く見ますが、静寂な境内に響き渡る大きな笑い声。大きな声で話すマナーのない人たち。神社の参拝の観光化。そして神社のしきたりに付いてわからない人が多くなり大変残念な気持ちになりました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。