幕末から明治維新にかけて、日本は大きなうねりの中にありました。鎖国から開国へ、武士の時代から近代国家へと移り変わる中、その激動の時代を生き、近代日本の礎を築いた人物がいます。それが小栗上野介(おぐり こうずけのすけ)忠順(ただまさ)です。彼の名は、教科書ではそれほど大きく取り上げられていませんが、日本の近代化に与えた影響は計り知れません。本記事では、小栗忠順の生涯とその偉大さについてご紹介いたします。
幼少期と家柄

小栗忠順は、1827年(文政10年)、江戸幕府の旗本の家に生まれました。父・小栗忠高は、江戸幕府の勘定吟味役を務めた人物であり、家柄としては中堅の幕臣に位置づけられていました。
小栗家は代々、幕府の財政や制度を担う役職に就いており、小栗忠順も幼い頃から学問と武芸の両方をたしなんで育ちました。
特筆すべきは、その語学力です。若くして蘭学や英語に興味を持ち、外国事情にも深い理解を示しました。当時の幕臣としては珍しく、開明的な視点を持っていたことが、後の外交や技術導入において大きな武器となっていきます。
幕臣としての活躍
小栗忠順が幕政の中枢に登場するのは、安政期以降です。彼は勘定奉行や外国奉行として、幕府財政や外交の実務に携わります。特に注目すべきは、1860年(万延元年)に咸臨丸に随行して渡米したことです。これは日本人として初めてアメリカ本土を視察した一団のひとりであり、西洋文明に直接触れるという貴重な経験となりました。
この経験を通じて、小栗忠順は日本の将来には工業化と近代化が不可欠であると確信します。帰国後は、外国奉行、勘定奉行を歴任し、幕府の近代化政策に大きく関与していきます。
富国強兵と殖産興業への道
小栗忠順が特に力を入れたのは、近代的な経済基盤と軍事体制の整備でした。彼は「富国強兵」の先駆者とも言われます。
その代表的な成果が、横須賀製鉄所の設立です。これは、フランスの技術者ヴェルニーを招き、横須賀の地に本格的な造船・製鉄のための施設を作ったもので、日本初の近代的な工場群として知られています。この施設は後に横須賀海軍工廠へと発展し、日本の軍事・工業の中核を担う存在となりました。
また、小栗忠順は鉄道や通信インフラの整備にも熱心でした。東海道に鉄道を敷く計画や、東京と京都を電信でつなぐ構想も描いていたとされています。残念ながら彼の構想の多くは明治維新の混乱の中で頓挫しましたが、その発想の先進性は今日でも評価されています。
横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)

江戸幕府により横須賀市に開設された造船所。
1865年(慶応元年)、江戸幕府の勘定奉行小栗忠順の進言により、フランスの技師レオンス・ヴェルニーを招き、横須賀製鉄所として開設される。その後、一色直温を製鉄所奉行に置き、造船所とするため施設拡張に着手するが、工事の完了間近に大政奉還を迎える[1][2]。明治新政府は参与兼外国事務掛小松帯刀の尽力により1868年9月にオリエンタル・バンクから貸付を受け、ソシエテ・ジェネラルに対する旧幕府の債務を返済し、横須賀製鉄所を接収。これを1871年に完成させた。
1871年(明治4年)4月9日、工部省管轄中に横須賀製鉄所から横須賀造船所への改称が行われた。1872年10月に工部省から海軍省の管轄になり、1876年8月31日には海軍省直属となり、1884年には横須賀鎮守府直轄となる。1903年には組織改革によって横須賀海軍工廠となり、多くの軍艦を製造した。
大政奉還と失脚
幕末の動乱が激化する中、小栗忠順は徳川家の権威と体制を守るべく奔走しました。しかし、薩長を中心とする倒幕派の勢いは強く、1867年(慶応3年)には大政奉還が実現され、徳川幕府は政権を返上します。
これにより、幕臣としての小栗忠順の立場は一気に危うくなりました。彼はその後もしばらく西洋式兵制の導入や、徳川家の再興の道を模索していましたが、新政府からは危険人物と見なされてしまいます。
特に新政府の中には、小栗忠順の有能さを恐れる声もありました。彼が新政府側に加われば、非常に強力な存在となりうることを知っていたのです。そのため、小栗忠順は徹底的に排除されることとなります。
非業の最期
小栗忠順の最期は、あまりにも理不尽で痛ましいものでした。1868年(明治元年)、彼は群馬県高崎近郊の倉賀野の東善寺に蟄居していたところ、豊永貫一郎、原保太郎に率いられた新政府軍により捕らえられてしまいます。
1868年5月27日、何の罪状も示されないまま烏川の水沼河原において斬首されました。享年42歳でした。
斬首になる直前、家臣が無罪を主張しようと大声で叫ぶと、小栗忠順は「お静かに」と言い放ち「もうこうなった以上、未練を残すのはやめよう」と諭し、原が「何か言い残すことはないか」と聞かれた際には、笑いながら「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と依頼したそうです。

小栗忠順の遺体は東善寺に葬られましたが、明治政府によって長らく名誉の回復は行われませんでした。
その理由には、新政府にとって都合の悪い「先進性」と「能力」の存在があったと考えられています。
小栗上野介の偉大さ
では、なぜ小栗忠順は「偉大」と称されるのでしょうか。その理由は大きく三つあります。
1. 先見性
横須賀製鉄所の建設や鉄道構想など、日本の将来を見据えたビジョンを持って行動していた点は特筆すべきです。明治政府が行った数々の近代化政策の多くは、小栗が構想していたものであり、彼の発想の先進性は現代にも通じるものがあります。
2. 経済と外交の両面での手腕
勘定奉行としての財政再建能力、外国奉行としての冷静かつ的確な交渉術。幕府という硬直化した組織の中で、これだけ実務に秀でた人物は稀でした。特に外国との条約交渉では、対等な関係を築こうとする姿勢が光っていました。
3. 忠義と誠実さ
最後まで主君・徳川家への忠義を貫き、決して地位や名誉に走らなかった姿は、まさに武士の鑑といえるでしょう。捕らえられた際も潔く自らの運命を受け入れ、その死は多くの人々の記憶に深く刻まれることとなりました。
現代における再評価
近年、小栗忠順の功績は再評価されつつあります。彼が設立した横須賀製鉄所跡は、明治日本の産業革命遺産の一部として世界文化遺産に登録され、観光地としても注目を集めています。また、群馬県高崎市では彼の業績を讃える記念館や銅像が整備され、地域の誇りともなっています。
歴史学者や経済学者の間でも、小栗の構想力や実務能力は極めて高く評価されており、今や「幻の明治政府の初代総理」と称されることもあるほどです。もし彼が明治政府の一員となっていたら、日本の近代化はさらに早まっていたかもしれません。
東郷平八郎
東郷平八郎は、明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人です。
日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集めました。
1912年(明治45年)東郷平八郎は、小栗忠順の遺族を自宅に招き感謝を述べました。
「日露戦争の日本海海戦でロシア艦隊に勝つことができたのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです」とお礼を言い、「仁義礼智信」という書をしたためて、記念に贈られたそうです。

小栗忠順が謀殺された1868年5月27日から37年後の奇しくも5月27日、日本海海戦が始まり、忠順の築いた横須賀製鉄所で作られた軍艦により、世界一強いと称されたバルチック艦隊を完膚無きまで痛めつけ、奇跡の勝利を得たことは、忠順が戦神となり日本を勝利に導いたのではないかと私は強く感じています。
東善寺
小栗忠順のお墓は東善寺にあります。



右側の墓石が「小栗忠順」、左側の墓石が忠順の養子の「又一」です。
その左右には、小栗忠順の家臣や家族の墓石が並んでいます。
東善寺のご住職は、TVなどにもご出演されている、小栗忠順の生き字引です、親切に教えて頂けるので、ご興味ある方はぜひともお参りください。
おわりに
小栗忠順という人物は、近代日本の歴史の中で、あまりにも早く散った一つの光でした。彼が構想し、実行に移した数々の政策や事業は、のちの明治政府が追いかけることとなったものであり、その意味で彼は「明治を先取りした男」といえるでしょう。

不遇の死を遂げながらも、その志と功績は今もなお、多くの人々の心を打ち続けています。私たちは、こうした先人の努力とビジョンを忘れず、現代の課題に向き合っていく必要があるのではないでしょうか。27年の大河ドラマは小栗忠順が主演の「逆賊の幕臣」に決まったそうです。今から楽しみです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「小栗忠順」2025年5月24日 (土) 12:14 『ウィキペディア日本語版』
東善寺 群馬県高崎市倉渕町権田169 小栗上野介の墓所 菩提寺
村上泰賢『おぐりさま 小栗上野介』 東善寺、2024年
童門冬二『小栗上野介―幕末維新に散った悲運の英才』プレジデント社、1996年
中村彰彦『幕臣小栗上野介―日本近代化の先駆者』PHP研究所、2005年
永田哲也『日本海軍の誕生―横須賀製鉄所の建設と小栗忠順』成山堂書店
岩井忠熊監修『小栗忠順の研究』吉川弘文館
高崎市倉賀野町「小栗上野介顕彰館」展示資料
横須賀市「ヴェルニー記念館」展示資料・横須賀製鉄所案内パンフレット