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関東大震災でデマに追われた人達を救った警察署長の生涯 神奈川警察署鶴見分署長 大川常吉

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大川署長 備忘録

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生しました。
社会は極限の混乱に陥りました。その中で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といった根拠のない流言が広まり、自警団などによる朝鮮人虐殺事件が相次ぎました。

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生い立ちと警察官への志

大川常吉署長 引用元:The Yomiuri Shimbun 防災ニッポン 

大川常吉(おおかわ つねきち)氏は、1877年(明治10年)に東京府で誕生しました(『日本警察史資料』より)。幼少期の詳細は残されていませんが、文明開化の進展とともに治安維持の必要性が高まる時代背景の中で成長しました。明治国家が確立されつつある時代に生まれ育ったことが、彼の使命感に影響を与えたと考えられます。

1905年(明治38年)、28歳の時に巡査となり、神奈川県に赴任しました。日露戦争終結直後の社会不安定な時期に警察官としての第一歩を踏み出したことは、彼の後の行動に大きな意味を持ったといえます。

警察官としての歩み

大川氏は横浜市山手町の山手本町警察署で警部補を務め、その後1913年(大正2年)には横須賀警察署に勤務しました。1916年(大正5年)に警部に昇進し、1917年から1919年までは横浜市中区の伊勢佐木町警察署で治安維持に尽力しました(神奈川県警資料)。

1920年(大正9年)には藤澤警察署溝分署に分署長として赴任し、1922年(大正11年)には神奈川警察署鶴見分署長に任命されました。ここで、彼は歴史に名を残す行動をとることになります。

関東大震災と命を懸けた決断

9月2日の夕方、4人の男は鶴見駅近郊の豊岡にあった井戸から水を飲み、彼らの1人はビンを2本持っていた姿を自警団が目撃、その4人は朝鮮人で井戸にビンの毒を入れたと騒ぎ立てたそうです。
そして自警団は、その4人を殺せと鶴見署まで連行してきたそうです。
鶴見署の大川署長は4人の取り調べを行った結果、「4人は避難するところであり、彼らは悪者ではないことが判明した、ビンの中身も毒薬ではないと。」自警団に説明しました。
しかし自警団は4人が朝鮮人というだけで納得しませんでした。
困った大川署長は、「では自分が飲んで見せよう。」と言い、2本のビンの中身を飲んで見せたそうです。
2本のビンの液体を飲み問題がない大川署長を見た自警団は、納得し引き上げていきました。

しかし、災害時の流言蜚語は増すばかりでした。

流言蜚語(りゅうげんひご)
明確な根拠がないのに言い触らされているうわさ。世間にひろがる根も葉もないデマ。作り話。

その流言蜚語により、続々と朝鮮人と疑われる者たちが鶴見警察へ連行されてきました。

大川署長は自警団や住民を集め、皆んなを安心させるために
「交通・通信が断絶し鶴見は孤立状態であるが流言は大げさなものであろう、余震もあるなか警戒は必要だが早まってはいけない、警察権を無視した妄動はいけない、治安は警察が責任を持っているのを忘れないでほしい。」と熱心に説明しました。

しかし流言蜚語はなくならず、自ら逃げ込む人なども増え、署内に収容できないほど多くの外国人が連行されてきました。
大川署長は警察に駆け込んだ朝鮮人たちや、自警団に連行された朝鮮人たちを總持寺に移動させることにしました。

しかし自警団は武器を持って總持寺に集まり、朝鮮人の引き渡しを要求します。
このままでは、朝鮮人が自警団によって殺害されるおそれありと判断し、大川署長は署員に指示を出し、朝鮮人らを總持寺から鶴見分署に移動させます。

鶴見分署に移動したものの、自警団らの群衆が朝鮮人を殺せと叫んで署を囲みました。

大川署長は朝鮮人が悪いということはないと説得しますが、興奮した群衆は朝鮮人に味方する警察を叩き潰せとさらに騒ぎ立てたそうです。

鶴見分署は1000人以上の群衆に囲まれてしまいます。

その時、鶴見分署には署員が数名しかおらず、大勢の群衆に太刀打ちできる状態ではありませんでした。
大川署長は、意を決し群衆の前に立ちはだかりました。

「鮮人に手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先きに片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さないぞ」

これには群衆も驚き、しばらくして代表者数名が話し合い、大川署長に問いかけます。
「もし警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか」

大川署長は、「その場合は、自ら切腹して詫びる」と答えました。

「そこまで言うならしかたない」、群衆は去っていきました。

こうして朝鮮人220名、中国人70名、およそ300名が大川署長はじめ30名鶴見署員により守られました。

そして、9月9日、鶴見分署から横浜港の「華山丸」 に全員移動し「神戸港」へ向けて出港し無事に安全な地に避難できたそうです。

震災後の経歴と晩年

震災直後の1923年12月、大川氏は新設された鶴見警察署の初代署長に就任しました。
その功績を称え、1924年(大正13年)2月には感謝状が贈られました。

その後も大磯警察署長、厚木警察署長を歴任し、1927年(昭和2年)に退官しました。
退官後は公職を離れ、静かに余生を過ごされたといわれています。

1940年(昭和15年)、他界 享年64歳 (合掌)

翔びくらげ
翔びくらげ

大川署長の行動は、極限の危機において人命を守ることの尊さを示す象徴です。
職責を越えた人間的な勇気と信念は、関東大震災の暗い歴史の中に光を与える存在といえます。
彼が残した言葉――「罪なき者を苛むは蛮行である。朝鮮人は日本の国民である」――は、今なお多文化共生社会を築く上で重要な教訓を投げかけています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

大川常吉」2025年8月8日 (金) 05:51  『ウィキペディア日本語版』
The Yomiuri Shimbun 防災ニッポン
関東大震災のちょっといい話 防災システム研究所

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