東郷平八郎――「アジアのネルソン」と称えられ、明治という激動の時代を駆け抜けた日本海軍の英雄。その名は、日露戦争の勝利とともに世界史に刻まれています。しかし、彼の人生は決して最初から順風満帆であったわけではありません。鹿児島の下級武士として生まれ、数々の試練と決断を経て、やがて「東郷ターン」で知られる歴史的な勝利へと至ったのです。本稿では、東郷平八郎の生い立ちから終焉までを劇的に辿りながら、その人間像に迫っていきたいと思います。
幼少期――薩摩の風土に育まれて

1848年(弘化4年)、東郷平八郎は薩摩国鹿児島城下で生まれました。薩摩藩は古くから武勇を重んじ、厳しい気風で知られる土地でした。彼の家は下級藩士の家柄で、裕福ではありませんでしたが、薩摩特有の質実剛健な教育を受けて育ちました。
少年時代の平八郎は寡黙で無口な性格だったと伝えられています。派手さはなく、むしろ目立たぬ存在でしたが、その内に秘めた忍耐力と冷静沈着さが、後年の大勝利へとつながっていきます。彼の根底には、薩摩武士が大切にする「義を重んじる精神」と「不屈の心」が深く刻まれていたのです。
青年期――海軍への道
幕末から明治維新へと激動する時代のなかで、日本は開国と近代化の道を歩み始めました。東郷平八郎もまた、新しい時代の波に乗り、海軍という未知の分野へと進みます。1869年、彼は薩摩藩の藩船「春日丸」に乗り込み、海軍士官としての第一歩を踏み出しました。
その後、政府の命により留学生としてイギリスに派遣されます。留学先では言葉も文化も異なる環境に苦労しましたが、彼は持ち前の忍耐強さで学問と技術を吸収しました。とりわけ、イギリス海軍の伝統と戦術を学んだ経験は、後に彼が日露戦争で世界を驚かせる采配を振るう基盤となります。
ロンドン滞在中、東郷はセント・ポール大聖堂に祀られるネルソン提督の墓前に立ち、深い感銘を受けたと伝えられています。「海に生き、祖国のために戦う者の道」を強く胸に刻んだ瞬間でした。
西南戦争と実戦経験
帰国後、彼を待ち受けていたのは国内の動乱でした。1877年、西南戦争が勃発。西郷隆盛率いる反乱軍と政府軍が激突するなか、東郷は海軍軍人として従軍し、砲撃戦に参加しました。砲術の腕を発揮し、勇敢に戦ったことで評価を高めます。国内戦争で培った経験は、実戦指揮官としての自信と胆力を彼に与えました。
日清戦争――頭角を現す

1894年、日清戦争が勃発すると、東郷は巡洋艦「浪速」の艦長として参戦します。ここで彼の冷静な判断力が光りました。有名な「高陞号事件」では、中立を装って兵を輸送していた清国の艦を拿捕・撃沈し、国際的な注目を集めます。国際法に則った毅然とした対応は、日本海軍の信頼を高めることとなりました。
高陞号事件(コウショウゴウジケン)
「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。「浪速」は高陞号に向けて空砲2発を撃ち、手旗信号で停船を求め、臨検を開始した。
午前10時40分、臨検を命じられた人見善五郎大尉は「高陞号」に到着し、ただちに船長トーマス・ゴールズワージーに面会した。人見は船籍証明をチェックし、ゴールズワージーを尋間したのち帰艦し、東郷に復命する。その内容は本船は英国ロンドン所在インドシナ汽船会社代理店、怡和洋行(ジャーディン・マセソン・コンパニー)の所有船
清国政府に雇用され、清兵1100名、大砲14門、その他の武器を太沽より牙山に運送中
船長にわが艦に随航することを命じたところ、船長はこれを承諾
であった。東郷はただちに「錨をあげよ。猶予してはならない」と信号旗をあげた。
ところが、船長は「重要なことがあるので話し合いたい。再度端艇をおくれ」と返答する。人見大尉が再度赴くことになるが、その際に東郷は「清兵がもし応じないようであれば、ヨーロッパ人船員士官に何が重要かを問い、移乗を望めば端艇にて連れ帰れ」と訓令した。
人見大尉はまもなく帰艦し、「清兵士官は船長を脅迫して、命令に服従できないようにし、かつ船内には不穏の状がある」と復命した。東郷は「高陞号」の英国船員に向かい「艦を見捨てよ」と信号を送る。その後、「端艇をおくれ」と返信があり、「端艇おくりがたし」と連絡すると、突如「許されぬ」と答えがあった。東郷は再度「艦をみすてよ」と信号し、かつマストに警告の赤旗をかかげた。すると高陞号船上では清兵が銃や刀槍をもって走りまわるさまがうかがえた。2時間に渡る問答の末、抑留が不可能と判断した東郷は「撃沈します」と命令した。
「撃ち方始め」の命令とともに水雷が発射され、砲撃が開始された。午後1時45分、「高陞号」はマストを残して海中に没した。東郷は端艇を下ろし、泳いで浪速に向かってきたイギリス人船員士官全員を救助したが、清国兵はほとんどが死亡した。
引用元:『ウィキペディア日本語版』
この戦争を通じて、東郷は単なる勇将ではなく、法と戦略を理解する知将であることを証明したのです。
日露戦争――歴史的勝利へ
そして、1904年、ついに日本とロシアの間で決定的な戦争が勃発しました。日露戦争における「日本海海戦」です。世界最大級の海軍を誇るロシア帝国に対し、日本は国運を賭けた戦いに挑みました。
東郷平八郎は連合艦隊司令長官に任命され、日本海軍の総力を指揮します。そして運命の1905年5月27日、日本海海戦が幕を開けました。

バルチック艦隊を迎え撃つ日本艦隊。その瞬間、東郷は歴史に残る決断を下します。敵艦隊に対して艦首を揃えて突進し、直前で一斉に回頭して砲撃を浴びせる「東郷ターン」です。この大胆不敵な戦術は、敵を完全に混乱させ、日本艦隊は次々と敵艦を撃沈していきました。

二日間にわたる激戦の末、日本海軍は圧倒的勝利を収めます。撃沈・捕獲したロシア艦は30隻以上、日本側の損失はほとんどありませんでした。この勝利は世界を震撼させ、「東郷の名はネルソンに並ぶ」と称賛されました。
国民的英雄としての東郷平八郎
日露戦争の勝利は、日本を列強の仲間入りへと押し上げる転換点となりました。その立役者である東郷平八郎は、一躍国民的英雄となります。明治天皇からの厚い信頼を受け、元帥の地位を授けられました。国内では「東郷神社」が建立され、子どもたちの間では「東郷さん」として親しまれる存在となります。
しかし彼自身は、決して驕ることなく質素な生活を続けました。権威を振りかざすことなく、常に沈着冷静であり続けた姿勢こそ、多くの人々を魅了した理由といえるでしょう。
晩年と終焉
大正時代に入ると、東郷は元老として国家の要職に関わり続けました。外交や国防に関して助言を行い、次代の人材育成にも力を注ぎます。第一次世界大戦後、国際情勢が不安定化するなかでも、日本の進むべき道を静かに見守っていました。
1934年(昭和9年)、東郷平八郎は86歳でこの世を去ります。その訃報は国内外に大きな衝撃を与え、国葬が執り行われました。ロンドンのトラファルガー広場では半旗が掲げられ、世界が彼の死を悼んだのです。
東郷神社
東郷神社(とうごうじんじゃ)は、東京都渋谷区神宮前にある神社です


日露戦争の英雄・東郷平八郎元帥をお祀りしています。
1940年に創建され、戦勝祈願や必勝祈願の神社として多くの人々に親しまれています。
境内は緑豊かで静かなたたずまいを保ち、都心にありながら落ち着いた空気を感じられる場所です。
受験やスポーツの勝利を願う参拝者も多く、渋谷や原宿からのアクセスも良いため、観光地としても人気を集めています。
終わりに――不滅の東郷精神
東郷平八郎の生涯は、一人の下級武士が世界史に名を残す大英雄へと至る壮大な物語でした。彼を支えたのは、派手な言葉や野心ではなく、沈黙のなかに秘められた信念と忍耐力でした。
「本日天気晴朗なれども波高し」――その言葉が象徴するように、彼は常に冷静に現実を見つめ、最善の判断を下す指揮官でした。現代に生きる私たちにとっても、東郷平八郎の精神は困難を乗り越える力強い指針となるでしょう。

私はいかなる戦争も絶対に肯定はしません。
多くの人々を殺めた事実は人類史の大きな過ちだと考えています。
しかし、もし東郷平八郎のような英雄が日本を守らなければ、日本は諸外国に植民地化されて現在の日本は存在しなかったと考えられます。
彼の名を、これからも日本海の潮騒とともに、永遠に語り継いでいきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「東郷平八郎」2025年9月10日 (水) 10:38 『ウィキペディア日本語版』
「日本海海戦」2025年7月25日 (金) 18:17 『ウィキペディア日本語版』
東郷神社ホームページ
引用元の記載が無い写真は翔びくらげが撮影