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写楽・北斎…天才たちを見出した目利き、敏腕プロデューサー「蔦屋重三郎」

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oiran 英雄伝

江戸時代のヒットメーカー、「蔦屋重三郎」についてご紹介いたします。

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おいたち

山東京伝「箱入娘面屋人魚」 

蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は、1750年 2月13日(寛延3年)生まれとされています。
出生地についての詳細は残っていませんが、のちの活動拠点から見て、江戸・新吉原周辺と考えられます。

父は尾張の丸山重助、母は津与と言われています。両親について詳しい記録は残っていませんが、

重助は、新吉原という地域に関係のある仕事に就いていたと考えられます。

津与は吉原の遊女だったと思われます。また 江戸の広瀬氏出身という記録もあり、はっきり判りませんが、母津与は上級の遊女だった可能性も考えられます。

当時の遊女の中には、お家お取り潰しにあった武家出身者の子女が多く存在したそうです。
訪れた大名や旗本などの相手をするためには、茶道や華道はもちろん、和歌や礼儀作法にも幼いころから躾けられた武家の子女が適任だったそうです。

重三郎の本名は柯理(からまる)、7歳の時に両親が離婚し喜多川氏の養子となったそうです。

喜多川氏の養子となったあとも母津与重三郎の関係は続き、重三郎が出版業界で成功する影響を強く与えたと言われています。

蔦屋」は喜多川氏が経営していた店の屋号で、重三郎はそこで幼年期を過ごしました。

広重作「東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図」

一説には、「吉原遊郭の下働きの子」とも言われ、身分は決して高くなかったようです。
むしろ町人層の中でも“はぐれ者”のような存在だった可能性もあります。

しかし、彼はその環境の中で、人の動き・金の流れ・情報の価値を体で覚えていったとも言われています。
遊郭という“文化と欲望の交差点”で生まれ育ったことが、のちの目利き力や商才につながったのでしょう。

現代で言えば、敏腕プロデューサーにして出版社の社長、さらには文化キュレーター。
江戸時代中期、そんなマルチな顔を持つ人材に成長していきます。

彼の店「蔦屋」(平賀源内より店名を頂き「耕書堂」に)は、新吉原の近くにあり、色と情報、笑いと風刺が入り混じる文化の発信地でした。
この店から世に送り出されたのが、後に日本文化の象徴ともなる浮世絵師・東洲斎写楽絵師・葛飾北斎
そして滝沢馬琴でした。

重三郎の生涯

1773年(安永2年)重三郎は23歳で吉原大門口の五十間道に面した「蔦屋次郎兵衛店」を間借りし、書肆「耕書堂」を開業します。​

1. 吉原で「耕書堂」開業

当初は、鱗形屋孫兵衛が刊行していた吉原細見『這婥観玉盤』の卸しや小売りを手がけていたそうです。​

このころ、重三郎は、平賀源内に師事し、親しくしていたと伝えられており、その縁から源内が「耕書堂」という名前を与えたという説が有力です。

江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図 赤丸部分が新吉原
新吉原赤丸部拡大図(方向を現在の地図に併せて回転)
現在の地図に新吉原史跡を書き落とした地図(google map使用)
現在の吉原大門(撮影:翔びくらげ)
TV大河ドラマのタイアップの「耕書堂」お土産店 (撮影:翔びくらげ)

耕書堂」の耕書とは、田を耕すように書を耕す(=学問や出版に励む)という意味合いがあり、「堂」は建物や店名に使われる接尾辞で、「書斎」や「書房」に近い意味です。

つまり「耕書堂」は「学問や出版を耕し育てる場」といった精神を表した名前出そうです。

2. 自らの出版活動の開始(1775年)

1775年(安永4年)、鱗形屋が重版事件で処罰され、吉原細見の刊行が困難となったことを受け、重三郎は自ら『籬の花』と題した吉原細見の刊行を始めました。​同年には、北尾重政を絵師に起用した『一目千本』を刊行し、版元としての活動を本格化させました。

一目千本

「一目千本」とは、もともとは奈良の吉野桜に由来する言葉で、「一目見ただけで千本の桜が咲いているように見える」という意味だそうです。

吉原遊郭に所属する遊女たちを花に見立て、浮世絵師・北尾重政が花の挿絵を描いた豪華本でした。

3. 日本橋通油町への進出(1783年)

1783年(天明3年)、重三郎は日本橋通油町に進出し、耕書堂を開業しました。​この地で、狂歌師として「蔦唐丸」を名乗り、喜多川歌麿画の『燈籠番附 青楼夜のにしき』や、四方赤良大田 南畝の別名)編の『通詩選笑知』などを刊行しました。

重三郎はただ書物を売るのではなく、「人に回し読みされる面白さ」「読者の嗜好」を読み取る感覚を身につけており、ただの貸本屋ではなく、洒落本・黄表紙・浮世絵などのエンタメ出版を専門とする店として、江戸のカルチャーに旋風を巻き起こします。

重三郎は武士ではなく、町人。それも裕福な町人ではなく、底辺に近い立場から成り上がった人物とされています。

だからこそ、庶民の欲望や興味、笑いのツボに共感できたとも言えます。
当時の出版物は、知識人向けの漢文や教養書が主流でしたが、重三郎は「庶民が本当に読みたいもの」を出版したいと考えました。

その結果、彼の出版物は飛ぶように売れ、「蔦屋重三郎ブランド」が確立されていきました。

重三郎の恋

大河ドラマでは五代目花魁瀬川との恋模様が話題となりましたが、史実はどうだったのでしょうか。

青楼美人合姿鏡 (右上が瀬川)

1775年(安永4年)、盲人の高利貸しである鳥山玉一(検校)が約1,000両(現在の価値にすると1億円)もの巨万の財を投じて松葉屋の五代目瀬川を身請けしたのは史実だったそうです。

1778年(安永7年)に視覚障害者グループ「当道座」の関係者が不当な高利貸しを行っていたことが発覚。
鳥山検校を含む関係者は、幕府によって一斉に検挙され、江戸時代の社会に大きな衝撃を与えました。

鳥山検校は財産没収、そして武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、役職を解任される厳しい処分を受けました。
鳥山検校が追放された後、妻として嫁いでいた瀬川は一時的に吉原の妓楼、松葉屋に預けられたそうです。

その後、瀬川は旗本・飯沼の妻となり、二人の子供を生みました 。
飯沼氏の詳細は記録がなく詳細は判りません。

そして飯沼氏が亡くなると、本所埋堀の大久保家町屋敷の家守をしていた大工、結城屋八五郎と連れ添い老後を過ごしたという話や、尼になったと言う話が伝えられています。しかし、明確なことは判りません。

このような瀬川の生涯の中で、吉原に出入りしていた重三郎と知り合いだった可能性は高いと考えられます。

大河ドラマでは、幼馴なじみであるだけでなく、ともに男女として思い合っている関係として描かれていました。
しかし、新吉原で生まれ育った重三郎は、遊郭の厳しい掟を十分理解していたと考えられ、吉原関係者が遊女に手を出すことは、決してしなかったと思われます。


埋もれた天才達を見出した江戸の伯楽

重三郎は、江戸の街から次々と天才を発掘し育てていきます。

大田南畝恋川春町山東京伝曲亭馬琴北尾重政鍬形蕙斎喜多川歌麿葛飾北斎東洲斎写楽など多数の作家、浮世絵師を見出してプロデュースしていきます。

「伯楽がいてこそ千里の馬が存在する」

韓昌黎集(かんしょうれいしゅう)韓愈(かんゆ)の「雑説」にある、まさに「伯楽」その人でした。

韓昌黎集かんしょうれいしゅうより韓愈かんゆの「雑説」
「伯楽がいてこそ千里の馬が存在する」とは

千里の馬という名馬は常にいるが、それを見極める伯楽という存在がなければ、どんな名馬も気付かれることなく、粗末に扱われ、千里の馬と称えられることもなく、普通の馬と一緒に一生を終えてしまう。
また、千里の馬だとしても十分に食事を与えなければ、その力を発揮することができないと言っています。

千里の馬=優れた才能を持った人物(写楽や歌麿、馬琴たちです)
伯  楽=埋もれた人材を見出し、才能を引き出す人物(蔦屋重三郎)

まさに、重三郎写楽馬琴たちを見出し、育て、世に出すことがなければ、江戸時代の素晴らしい芸術品はこの世に存在していなかったかもしれません。

写楽─10ヶ月だけ現れて消えた伝説の絵師

三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛

写楽の作品は、役者絵(歌舞伎役者の似顔絵)として独特。
誇張された表情やポーズは、当時の常識を覆しました。

でも彼の活動期間は、なんとわずか10ヶ月。この謎多き絵師を世に出したのが、重三郎です。
彼は「売れるかどうか」ではなく、「面白いかどうか」で勝負していた節があります。
まさに編集者の感覚で才能を開花させたプロデューサーだったのです。

謎に包まれた写楽については、また改めて記事にしたいと思います


北斎──名もない若手時代から目をかけた

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏

「富嶽三十六景」で知られる葛飾北斎
彼が“北斎”を名乗る前、無名時代から蔦屋は仕事を与えていました。

それが黄表紙(きびょうし)という絵入りの娯楽本。
今で言うライトノベルや漫画のような存在です。

北斎はその挿絵を描くことで腕を磨き、後の大成につながりました。
つまり重三郎は、北斎を“育てた”編集者でもあるのです。


馬琴──『南総里見八犬伝』を生んだ筆の鬼

南総里見八犬伝 見返し集

馬琴といえば、長編『南総里見八犬伝』で有名ですが、その前から重三郎に見出されていました。
洒落本・読本というジャンルで馬琴が書き、重三郎が出版することで、江戸の読者に受け入れられていきました。

馬琴は非常に職人気質で、完成度を高めることにこだわる人。
一方、重三郎は斬新さと時代感覚を大事にするタイプ。

その緊張感ある関係性が、江戸文芸の質を押し上げたとも言えるでしょう。

重三郎のすごさは、目の前の流行に乗るだけでなく、「この才能は時代を動かす」と見抜くセンスにありました。
彼がいなければ、写楽も北斎も馬琴も、私たちが知る形では残っていなかったかもしれません。

現代にも通じる、「才能を見出す力」「編集・プロデュースの力」。
江戸の時代に、それを実践していた蔦屋重三郎という人物は、まさに時代の一歩先を読むビジネスパーソンだったのです。



晩年と死

重三郎のプライベートについては、記録が乏しく、長らく「不明」とされてきました。

北尾重政「絵本吾妻抉」1 18ページより

最近、重三郎の妻が検証され、北尾重政「絵本吾妻抉」にて、蔦屋重三郎一家が商売繁盛を願って「恵比寿講」(えびすこう)を開いている場面が描かれています。

絵の中央で頭を下げているのが重三郎で、その右となりで両手を合わせている女性が重三郎の妻と考えられます。

北尾重政は、「一目千本」の頃から、重三郎とともに江戸文芸を築いてきており、古くより重三郎を見知っていたと考えられ、重三郎の家族を描いた貴重な絵図と考えられます。

また、安藤優一郎の書籍に、重三郎の妻のことが記載されており、重三郎の死に際に、妻と別れの言葉を交わしたことや、妻が1825年に死去したことが記されています。

正法寺重三郎の墓に記されている「錬心妙貞日義信女 文政8年10月11日」が重三郎の妻であろうと見られています。

また多くの戒名が掘られており、重三郎の父母、そして「蔦屋重三郎」の名前を受け継いだ2代目~4代目重三郎までが墓石に記されているそうです。

蔦屋家の墓碑は当初より正法寺にありましたが、度重なる関東大震災東京大空襲などで破損してしまったそうです。
そのため、現在の墓碑は昔の史料を元に復刻したものです。
何故か「徳治12」という年号も掘られており、徳治は1306年頃の年号で、重三郎の関係者では考えられないため、明治の彫り間違いと考えられます。

正法寺墓所 翔びくらげ撮影

重三郎夫妻に子どもがいなかったため、耕書堂の番頭だった勇助が養子となり、耕書堂の二代目になりました。

1797年(寛政9年)重三郎は47歳になり、前年秋ごろより体調が悪化しており、3月になると更に重篤となり、5月6日、とうとう逝去されます。

死因は当時、江戸で流行していた「脚気」だったようです。

初代重三郎は、生前に耕書堂の経営を養子となった番頭・勇助に託し、すべての身代を、ゆずりました。

重三郎の死後、番頭勇助は、「二代目蔦屋重三郎」と名乗って耕書堂を引き継いだのです。

初代重三郎は、新吉原に近い「正法寺」に葬られました。

喜多川柯理墓碣銘
喜多川柯理本姓丸山称蔦屋重三郎
父重助母広瀬氏
寛延三年庚午正月初七日
生柯理於江戸吉原里
幼為喜多川氏所養
為人志気英邁
不修細節
接人以信
嘗於倡門外開一書舗
後移居油街
乃迎父母奉養焉
父母相継而没
柯理恢廓産業
一倣陶朱之殖
其巧思妙算
非他人所能及也
遂為一大賈
丙辰秋得重痼弥月危篤
寛政丁巳夏五月初六日謂人曰
吾亡期在午時
因処置家事決別妻女
而至午時笑又曰
場上未撃柝何其晩也
言畢不再言
至夕而死
歳四十八
葬山谷正法精舎
予居相隔十里
聞此訃音心怵神驚
豈不悲痛哉
吁予霄壌間一罪人
餘命唯怗知己之恩遇而巳
今既如此
嗚呼命哉
 銘曰           石川雅望
  人間常業        大田南畝
  載在稗史
  通邑大都
  孰不知子

現代訳
本名は丸山氏で、通称を蔦屋重三郎という。父は重助、母は広瀬氏。1750年1月7日、江戸吉原に生まれる。幼い頃に喜多川氏に養子入りした。性格は聡明で志が高く、細かいことにはこだわらなかった。人との付き合いでは、誠実さを第一とした。
最初は吉原の近くで書店を開業し、その後、通油町に移転した。両親を呼び寄せて養ったが、やがて父母とも亡くなった。柯理は事業をさらに大きくし、中国の伝説的な商人・陶朱公のように財産を築いた。その才覚と計算力は他の者には到底真似できなかった。そしてついに江戸随一の商人となった。
1796年秋、重病にかかり、一か月の闘病を経て、1797年5月6日に死期が近いと悟った。午の刻(正午)に家のことを整え、妻子と別れを告げた。そして「舞台の拍子木がまだ鳴らないとは、遅いじゃないか」と冗談めかして笑い、それが最後の言葉となった。その日の夕方、静かに息を引き取った。享年48歳。
山谷の正法精舎に葬られる。
私は十里離れた場所に住んでいたが、訃報を聞き、心は震え、魂も驚いた。
ああ、なんと悲しいことだろう。
私のような罪深い者でも、あの人の知己として遇された恩は忘れられない。
今やこうして逝ってしまわれた。ああ、命とはなんと儚いものか。

【銘文】(石川雅望・大田南畝)
人の営みは常に記され、
稗史(ひし:庶民の記録)に残される。
大都市の隅々まで、
この人を知らぬ者はいない。

実母顕彰の碑文
広瀬氏者書肆耕書堂母也
諱津与江戸人
帰尾陽人丸山氏
生柯理而出
柯理幼冒喜多川氏称蔦屋重三郎
其居近倡門
天明三年癸卯九月移居城東通油町而開一書肆
競刻快書大行
都下之好稗史者称耕書堂
寛政四年壬子十月廿六日広瀬氏病死葬城北山谷正法寺
癸丑二月柯理來未聞出曲中而起業者也
子之志渝則蓋足以観母氏之遺教矣
銘日小説九百母徳可摘
寛政丑莫春南畝子題

現代訳
広瀬氏は、出版業「耕書堂」の母である。名を津与といい、江戸の出身。尾張国(名古屋周辺)の丸山家に嫁いで柯理(のちの蔦屋重三郎)を生んだが、その後、離縁した。柯理は幼くして喜多川氏の養子となり、「蔦屋重三郎」を名乗るようになった。
彼(柯理)は、最初吉原近くで商売していたが、天明3年に通油町に移り、書店を開業。娯楽的な読み物を盛んに出版し、大流行となった。江戸の読書人で、「耕書堂」を知らぬ者はいないほどだった。
1792年10月26日、母・広瀬氏は病没し、山谷の正法寺に葬られた。翌年2月、重三郎は深くこれを悼んだ。遊郭の近くという不利な環境から商いを起こして成功した者は他に例がなく、彼の志が堅く保たれたのは、母の遺した教えがあってこそだろう。
銘文:
世の中に小説(稗史)は九百種類あれど、この碑には母の徳が刻まれている。
寛政5年春、大田南畝が記す。

ChatGPTによる現代訳

まとめ

この時代は、尊王攘夷運動や大老井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が起き、政治が混乱し、治安も悪化していきます。

江戸市中では火災・大きな騒動が相次ぎ、出版物に対する統制も厳しくなっていきました。
初代重三郎の死後、耕書堂を引き継いだ二代目、三代目、四代目は、事業を継続し奮闘しましたが、初代重三郎ほどの企画力・作家育成力が乏しく、耕書堂は、新たな出版ニーズ(新聞、翻訳書、実学書)に対応できなかったことなどから、1861年(文久元年)とうとう廃業に追い込まれてしまいました。

文化と時代のズレ、政治的な弾圧、経営的後継者不足、技術革新に乗り遅れたこと——これらが複合的に絡んで、
耕書堂は幕末にその役割を終えたと考えられます。

江戸のカルチャーは、初代重三郎が作ったと言っても過言では無いと思います。

写楽の絵、北斎の富士、馬琴の小説。
私たちが感じる「江戸らしさ」の一部は、初代重三郎のフィルターを通って生まれました。

天才を見抜くのも、支えるのも、世に出すのも難しい。
でもそれをやってのけた初代重三郎彼のような伯楽が存在したこそ、「文化」を動かしてきたのかもしれません。
現代で言えば、敏腕プロデューサーにして出版社の社長、さらには文化キュレーター
江戸時代中期、そんなマルチな顔を持つ初代重三郎が存在したのです。

翔びくらげ
翔びくらげ

蔦屋書店は良く書籍を書いに行きますが、蔦屋重三郎については、大河ドラマを見るまでは知りませんでした。重三郎を調べ、先日、浅草新吉原へ行き、重三郎の足跡を確認してきました。
重三郎が発掘し、育成した文化人達の浮世絵や書物は、まさに重三郎が見出した素晴らしき江戸文化財と言えます。今回は、重三郎の素晴らしい功績をご紹介します。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

「蔦屋重三郎」2025年5月2日 (金) 10:30『ウィキペディア日本語版』
「誠向山 正法寺」公式HP https://x.com/shoboji4488/
台東区大河ドラマ「べらぼう」活用推進協議会 パンフレット、蔦屋重三郎ゆかりの地マップ
国立国会図書館サーチChatGPTによるAI検索、写真の和訳

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