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「竹内文書」を受け継ぐ皇祖皇太神宮 なぜ正史から外され偽書扱いされるのか。

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パワースポット

遠い昔の超古代の歴史を記す「竹内文書」があります。
一般的に、「竹内文書」は、「古事記」、「日本書紀」、など日本の歴史を記す古文書よりも、はるか昔の神話を創作した偽書と言われています。

この古文書や神宝を古代より受け継いでいる皇祖皇太神宮があります。
数年前にも参拝したことがありますが、再び参拝に行ってきました。

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皇祖皇太神宮

茨城県の最北の磯原に皇祖皇太神宮があります。

竹内巨麿が祖父より譲り受けた、世界の歴史や、太古の天皇家を記した古文献「竹内文書」や、真正な神器とされる神宝の正当な認知や、皇祖皇太神宮の国家による日本国の再興を求め、1900年に茨城県の磯原において御嶽教天都教会を開いたとされています。

車で行く場合、一の鳥居のある入口の反対側から境内に入り、境内の裏側に駐車場があります。

皇祖皇太神宮とは

はるか昔、宇宙が創造され日本の天皇(スメラミコト)の祖先が

地球に降り立ったころからの天地身一大神をはじめとする

天神七代、上古二十五代、不合朝七十三代

そして神武朝の現在までの代代の天皇皇后を合祀したお宮でありまして

皇祖皇太神宮と申し上げます

引用元:總庁 皇祖皇太神宮HPより

宇宙開闢の神霊・天地身一大神から天神七代、そして天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇から代々の天皇・皇后まで、皇祖皇宗の神々をお祀りしている神社だそうです。

竹内巨麿

竹内 巨麿

皇祖皇太神宮第66代管長、竹内 巨麿(たけうち きよまろ)は、父は清和源氏系の源重胤、母は大中臣(おおなかとみ)家の娘の長男として、 1875年(明治8年)に富山県上新川郡新保村(現:富山県富山市)にて誕生したと言われています。

巨麿がまだ幼少のとき、母が暴漢に襲われ、母が自殺してしまいます。

母の死後、平群真鳥の子孫であるとされる越中富山の竹内家に預けられ、以後竹内を名乗ったそうです。

そして、祖父から「世の中が平和になったら公開しなさい」と遺言され譲り受けた文献と神宝を携えて上京したそうです。このときに譲り受けた文献が「竹内文書」とその神宝だと考えられます。

竹内文書保管筒

そして、東京御嶽教本部に入信し、その後、鞍馬山や大悲山で修行をし、神霊や神法道術そして神代文字を学び、「竹内文書」に記載された古代文字を解読したのではないでしょうか。

春に山から下りてきて田を見守り、秋には山に帰るという田の神信仰にも見られる通り、山は古来より神様の住むところとされ、更には山そのものを神様とする信仰もありました。
この山岳信仰に仏教の行脚や道教の入山修行が絡み、密教や陰陽道と習合して、飛鳥時代に役小角(えんのおづぬ)が完成させたと言われる宗教が「修験道」です。

【修験】の語源は「修行して迷いを除き、験徳をあらわす」。
行動し体験する中で以心伝心のうちに本来の悟りを開く道でありました。
さて、いつからか修験道の修行者は、山に伏して修行する者という意味で「山伏」と呼ばれるようになります。元々は密教を修める必要があった山伏ですが、時代を下るうちに武士、商人、農民出身の修行者が増え、明治の初めには全国で17~18万人にも膨れ上がっていたと言います。
元々は密教を修める必要があった山伏ですが、時代を下るうちに武士、商人、農民出身の修行者が増え、明治の初めには全国で17~18万人にも膨れ上がっていたと言います。

引用元:左京の奥で、自然と文化に向き合う旅「大悲山峰定寺と修験の世界」より

また、巨麿は、母を襲った暴漢へ仇討ちをするため、神通力や密教など、人間を越えた修行も始めます。

1899年(明治32年)、一定の修行を終えた巨麿は、「竹内文書」神宝を持って茨城県北茨城市磯原に引っ越しします。なぜ、茨城県の磯原だったのか、確認中ですが、現在の所わかりません。

1907年(明治40年)ごろ、母の仇の所在を突き止めます。

残念ながら前年にすでに他界していたそうです。

母の仇について2つの奇跡があると思います。

1つ目は母を襲った犯人の所在をどのようにして突き止めたのでしょうか。
神通力で犯人の姿を捉えたのでしょうか!?

2つ目は犯罪者が他界していたことは幸いでした。
もし犯人が生存していたら、巨麿はどの様な制裁を犯人に与えていたでしょうか。
もし犯人に危害を加えてしまったら、巨麿は「竹内文書」を世に公表する前に犯罪者として捕らえられ、状況によっては「竹内文書」が公表されること無く闇に消えてしまったとも考えられます。

1910年(明治43年)ごろ、天津教(あまつきょう)の教祖となり、神代の時代から伝わる真の歴史書であるとして、「竹内文書」を公表します。

しかし、1936年に巨麿が不敬罪などの容疑で警察に逮捕され、文献や神宝類が押収されてしまいました。

1944年に巨麿は裁判で無罪になります。しかし押収された多くの文献と神宝は、なかなか返還してもらえず、
翌年の1945年、東京大空襲により、大半が焼失してしまったそうです。

「竹内文書」の多くの文献と、神宝が消失してしまったのは、本当に残念です。

現在、古墳などから歴史を覆す遺物が出土しています。そのうち、「竹内文書」の真贋を証明するような遺物も発見されるのではないかと思っています。

茨城県北茨城市磯原にある皇祖皇太神宮に参拝してきました。

皇祖皇太神宮の正面 一ノ鳥居

巨麿は、終戦後の1946年、宗教法人令により宗教法人大日教に改め、1949年天津教と再改名します。

1950年に今度は超国家主義的思想を有する団体としてGHQから解散を命じられてしまいます。

1952年に宗教法人法による宗教法人 皇祖皇太神宮天津教として再発足。

1965年教団創設者であり、管長(教団代表)竹内巨麿が逝去されます。
そして子息の竹内義宮氏が官長となりますが1999年死去され、現在は、巨麿の孫となる竹内康裕氏が管長の座を引き継がれているそうです。

皇祖皇太神宮の境内

皇祖皇太神宮の境内は、一般的な神社と異なり、個人宅の庭にお邪魔する様な感じで、少し入りづらい感じがあります。

一の鳥居をくぐると、手水舎があります。

写真奥の二の鳥居をくぐった先は、ずっしりと空気が重く、他の神社と違う神聖さを感じます。

御本殿

拝殿の裏は表と異なり、樹木が生い茂り、狭い空間ではありますが御本殿や末社など多くの神様が祀られています。

まずは、御本殿に参拝

末社
大津王尊

皇祖皇太神宮のある裏山には、北茨城市夢窓窟横穴墓群があります。

引用元:あんけん様 趣味の案件 北茨城市夢窓窟横穴墓群より

この横穴墓郡を利用した洞窟を利用し神々を安置したものと推測します。

天津護法守天空主大神、五色商主運大神、赤池白竜大神、洞窟入口
天津護法守 大天空神
赤池白竜大神
五色商主運大神

天津護法守天空主大神、五色商主運大神、赤池白竜大神が洞窟内に祀られていますが、なぜかただ積まれたブロックの上に鎮座されており、とても居心地が悪そうでした。

拝殿脇の本殿への参道

数は少ないですが、皇祖皇太神宮を訪れお参りした方々の願いが記載された絵馬がかけられています。

皇祖皇太神宮 社務所兼拝殿(正面)

参拝した当日は、管長さんはご不在でした。
管長さんは、茨城と東京、そして富山の三箇所を日々行き来されているとのことでした。

拝殿前の掲示物、一部紙垂で隠れてしまいすみません。

社務所の前に「ご本殿御造営御奉賛のお願い」と題し、上記写真の掲示物がされていました。
私もわずかではありますが寄進したいと考えています。

いつか、東京と富山の神社にもお参りに行きたいと考えています。
また、「竹内文書」について記事にまとめ書きたいと考えています。

翔びくらげ
翔びくらげ

現代では、皇祖皇太神宮は正統な神社。「竹内文書」は歴史の記録として認められていません。しかし、何度も書いている通り、私は、今、正史とされている歴史は勝者の歴史であり、敗者の歴史は、ほぼ勝者に都合の良いように塗り替えられてしまっていると考えています。
政府が皇祖皇太神宮、天津教を弾圧し、竹内文書関係の書物や神宝を没収した上、戦災で焼失したと言われていますが、私は超法規的な手段で政府またはアメリカの何処かに密かに保管されているのではないかと思っています。
近い将来、先進的な政治家が現れ、今まで秘匿されていた「竹内文書」に掛かる資料などが公表される日を待ち望んでいます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

皇祖皇太神宮ホームページ
WEBムー
「皇祖皇太神宮天津教」2019年6月20日 (木) 07:16『ウィキペディア日本語版』
あんけん様 趣味の案件ホームページ 北茨城市夢窓窟横穴墓群

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