新田・足利両氏の祖、源 義国(みなもと の よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の三男。であり、足利高氏と新田義貞は遠孫に当たります。
つまり、新田一族と足利一族は、同じ祖先を持つ一族でした。
新田義重
新田義重は新田氏を称し、源義国以来の八幡荘と新田荘を中心に、息子たちを配し、支配を拡大していき、ついには天神山一帯を支配することで、経済的な基盤を固めていきました。
1157年には、平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘され荘官に任ぜられます。
そして源義朝が没落すると、さらに平清盛に近づき平家側に加担して行きます。
1180年、伊豆に流罪となっていた義朝の子、源頼朝、木曽では義賢の子源義仲らが京都の平氏政権に対して挙兵し、「治承・寿永の乱」が生じます。
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)
平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱である。
反平家勢力の中には祖を同じとする板東平氏も多分に含まれており遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。日宋貿易で得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせたことが反乱を招いた。
このことから、平家の繁栄と没落を描いた叙述書、平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、権力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている。
後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に起こり、反乱勢力同士の対立がありつつも、最終的には平氏政権は打倒された。源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される武士集団が平氏政権勢力打倒の中心的役割をつとめ、新たな武力政権である関東政権(鎌倉幕府)の樹立に至った。
「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」と一般的に言われている。
引用元:「治承・寿永の乱」(2024年1月30日 (火) 23:15 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
新田義重は、源氏と平家、どちらに加勢するか迷います。
当初は平家に属していたため、頼朝討伐を命ぜられ東国に進軍しますが、進軍しても迷った挙げ句、
追討軍に加わりますが、終始戦う事はありませんでした。
その後、甥の足利義兼、庶子の山名義範、孫の里見義成などが、源頼朝軍に加わります。それでも義重は中立の立場を固持していました。
義重自身は源家の最長老であり、幕府成立時点で八幡太郎義家(源義家)にもっとも血統が近い者として一定の敬意を受けていたため、北関東での主導的地位にあり頼朝を格下に見ていたことや、新田荘が平家方の荘園であったことが、義重の判断を鈍らせ、時勢を読み違えた要因と考えられます。
源頼朝が関東地方を制圧すると、義重は重い腰を上げ、鎌倉に参じますが、時すでに遅し、頼朝の信頼を完全に無くし、以後、頼朝の信頼を失った義重は、幕府内で重視されることはありませんでした。
このようにして、頼朝に見放された新田氏は源家の中心的な家系でありながら、弱体化し、足利氏の立場が上となり、時代は大きく進んでいきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。