今回、日本で始めてパンを焼いたパン祖の江川英龍さんを調べに、静岡県の韮山に行ってきました。
江川邸で見た、江川英龍さんの偉業はパンを初めて焼いたという他にも、日本の文明開化を導いたお一人だったということが解りました。この素晴らしい偉業をなされた方がなぜ知られていないのか、それは、敗戦後の教科書は全てGHQ検閲を受けました。江川英龍が教科書から消えたのはGHQの指令によるものでした。
おいたち
江川英龍(えがわ ひでたつ)は、江戸時代後期の幕臣で、伊豆韮山代官江川英毅の次男として、1801年(享和元年)6月23日誕生しました。
兄・英虎の死去により英毅の嫡子となります。
江川英龍は、幼少期から西洋の技術や知識に興味を持ち、特に海防や砲術に関心を寄せました。彼は、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させたことで有名です。また、彼は日本で初めてパンを焼いたことから「パン祖」とも呼ばれています。
英龍は、代官になる前には、学問を佐藤一斎、書を市川米庵、詩は大窪詩仏、絵を大国士豊や谷文晁、剣術を岡田吉利(初代岡田十松)に学ぶなど、当時最高の教育を受けました。
特に剣術は、神道無念流免許皆伝で、岡田十松の撃剣館四天王の一人に数えられ、同門で後に代官所手代となる斎藤弥九郎は、江戸三剣客の1人にも数えられて人物です。
その他、蘭学、砲術なども学びました。また、絵画をはじめ大国士豊に学び、後に谷文晁に就いて学び直し、さらに同門の渡辺崋山に師事する事を望みますが断られてしまいました。
1824年(文政7年)、代官見習の申し渡しを受け、1835年(天保6年)、父・英毅が逝去し34歳で代官となります。
幕末の産業革命が進んだ欧米諸国が押し寄せ、国内では1833年(天保4年)に天保の飢饉が発生するという内憂外患の時期に代官となり、様々な業績を残しました。
天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)
江戸時代後期の1833年(天保4年)から1839年(天保10年)にかけて発生した大規模な飢饉です。この飢饉は、特に1835年から1837年にかけて最大規模となりました。
主な原因は、天保4年の大雨による洪水や冷害による大凶作でした。特に東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が大きく、米作に依存していた地域では甚大な被害が出ました。
1835年に中米のコシグイナ火山の噴火による日傘効果で気温が低下し、冷害が悪化したとも言われています。
この飢饉により、多くの人々が餓死し、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発しました。
特に大坂では、大塩平八郎の乱が発生し、幕府に対する不満が爆発しました。
江戸幕府は救済策として、江戸市中に御救小屋を設置し窮民を収容しましたが、救済者は70万人を超えました。また、各藩でも施粥所を設置するなどの対策が取られましたが、被害を完全に防ぐことはできませんでした。
この飢饉は、江戸四大飢饉の一つとして歴史に刻まれています。
日本で始めてパンを焼く
日本で初めてパンを焼いた人物として英龍がパン祖と言われています
江戸時代で最も文化が爛熟したといわれる文化年間以降、日本近海には外国船がしばしば現れ、当時の幕府は、異国船打払令を制定、基本的に日本近海から外国船を駆逐する政策を行っていました。
しかし、当時の日本の防衛状況は、旧式の沿岸備砲ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる和流砲術が古色蒼然として残るばかりでした。
当時の携帯用の食料として「糒(ほしいい)」しかありませんでした。
これは、炊いた後の米を乾燥させたものなのですが、糒には重大な欠点がありました。
糒を作るには、まず米を炊かなければいけません。軍隊で移動する際には、大量にお米を炊かなければなりませんでした。
英龍は「軍事用の携帯食として、米よりももっと便利な食べ物はないか?」と考えました。
英龍の師に当たる高島秋帆の従者に、長崎のオランダ屋敷に料理方として勤め、製パン技術を覚えた作太郎という人がいました。そこで、作太郎を伊豆韮山の自宅に呼び寄せ、自宅のかまどを改良して、パンが焼けるかまどを作ります。
1842年4月12日、英龍により日本で初めて焼かれた「兵糧パン」は、甘みが少なく、かなり固いものでした。
こうして英龍は、煙を出さず日持ちがするパンを開発し、軍事用の携帯食として「兵糧パン」を作り出しました。
高島秋帆(たかしま しゅうはん)
幕末期に活躍した日本の砲術家で、日本初の洋式砲術訓練を行った人物です12。彼は1798年に長崎で生まれ、長崎町年寄の家に育ちました。
高島秋帆は、オランダ人から洋式砲術を学び、それを基に「高島流砲術」を確立しました。彼の訓練は幕府に重用され、幕末の軍制改革に大きな影響を与えました。また、彼は幕府に対して海防の重要性を訴え、西洋砲術の公開演習を行いました。
その功績により江川英龍は「パンの祖」と呼ばれるようになったそうです。
今回は、江川英龍さんのパン開発をメインに書きました、引き続き江川家に関する情報を調べ再度記事を書きたいと考えてます。ご期待ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。