日本にキリストの墓があるという古文書があります「竹内文書」です。そしてその場所は青森県新郷村にある「キリストの墓」と言われている塚がその一つです。
「竹内文書」によると、キリストは日本に渡来し、青森県新郷村に住み、106歳で亡くなったとされています。
今回は青森県のキリストの墓を訪問し、その真偽を検証したいと思います。
イエス・キリスト
イエス・キリストは、約2000年前の紀元前にヨルダン川西岸地区南部にあるパレスチナ・ベツレヘム県の県都ベツレヘムで誕生しました。
キリストの母、マリアの元に大天使ガブリエルが現れ、キリストを懐妊することを告げます。
更にマリアの婚約者であるヨセフの夢の中に天使が現れ、マリアが懐妊していることを告げ、恐れることなく結婚をするように説得します。
こうしてふたりは結婚し、二人が住むベツレヘムへ向かいます。
途中、宿泊する宿が無く、仕方なく馬小屋で一泊することになります。
この馬小屋でマリアは出産し、キリストは生まれました。
ヨセフとマリアはイスラエルのナザレというところに住まいを移し、ヨセフは大工として懸命に働きキリストを育てました。キリストも大工仕事を見て、手伝いながら育ったため、大工仕事がとても上手な少年として育ちました。
キリストは成長し30歳を過ぎ、ガリラヤで宣教を開始します。
また弟子として認めた者の中から12人を選び、弟子と共に神の意思を伝え、叶えるため人に仕えます。
水をワインに変えたり、病気を治したり、目の見えない人を見えるようにする、奇跡をたびたび起こしました。
天におられる神様のこと、その神の教えに従うことを説きます。これらの教えは「新約聖書」として残り伝わっていきます。
指導者的地位にあった律法学者達はイエスに対する妬みに駆られ、キリスト殺害計画を企てます。
そこで、自らをユダヤ人の王であると名乗り、また「神の子」あるいはメシアであると自称した罪をキリストに被せます。
12人の弟子の一人ユダはお金のために、キリストを引き渡すと持ちかけ、報酬として30シェケルを貰う約束をとりつけます。
こうして弟子ユダの裏切りによってキリストは囚われ、ゴルゴタの丘で磔刑に処せられました。
その三日後によみがえり、弟子たちの前に姿を現します。
以上が簡単にまとめたイエス・キリストの生涯です。
しかし!!
少年時代の約12歳頃から、30歳前後になるまで、イエス・キリストの行動は解っていません。
キリストがインドに行き仏教に影響を与えた、つまり大乗仏教にはキリストの教えが加味されているのではないかという説があります。しかし、この時点ではキリストは修行の身、仏教を教わるのであれば、理解できますが、仏教にキリストの教えが加味されているということは考えられないと思います。
キリストはどこで修行をしていたのでしょうか!?
この空白期間に、キリストが日本へ来て修行をしたという記録があります。
竹内文書
竹内文書(たけうちもんじょ、たけのうちもんじょ、磯原文書、天津教文書ともいう)は、古代の文書を装ったとされる偽書と言われています。
翔びくらげは、今までの歴史の流れから、竹内文書を100%信じるわけではありませんが、「歴史は勝者の記録が正となり、敗者の歴史や記録はすべて勝者の歴史に塗り替えられている」。と考えており、特に強く偽書扱いや否定される歴史は、塗り替えられている可能性が高いと考えています。
このことは、日本だけでなく、世界的な歴史や記録で言えると思います。
竹内文書は、茨城県北茨城市磯原町にある、皇祖皇太神宮に保管されており、いわゆる神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称だそうです。
真鳥の子孫を称する神主竹内巨麿が昭和3年に公開しました。
キリストの墓を発見!?
竹内文書によれば、キリストを始め、モーゼ、釈迦、孔子、孟子などが、日本に訪れ日本各地で修行したと記録が神代文字で記されていたそうです。
1935年(昭和10年)に竹内巨麿は、青森県新郷村の戸来へ調査に出向き、まだ村人には認識されていなかった「キリストの墓」について、巨麿は「塚が2つ並んでいるところ」「偉い人の墓」が村に存在していないかと聞き周り、これらの塚を教えてもらったそうです。
それまでは“高貴なる人物”の墓と村に言伝えが残っていたそうです。
昭和10年ころは、日本では国号表記を「大日本帝国」に統一するなど、世界は第二次世界大戦へひたひたと足音が近づきつつある時代でした。
竹内文書によると、キリストは21歳からの約12年間、日本でさまざまな学問を学び、イスラエルへ一時帰国したと記載されており。そしてその教えを布教し地元で反感を買い、弟のイスキリに後を託します。
キリストの兄弟は、マリアが夫ヨセフの死後にそのヨセフの弟であるクロパとの再婚で出来た子、シメオンだと考えられる。
シメオンもキリストと同じ血を引いていたことから指導者達から標的となったのである。
頑なにローマ皇帝の命令を拒否した為、遂に磔刑に処せられる事になった。
シメオンは自ら十字架に進んで釘に打ち付けられ、イエス同様に己を殺す者達への祈りを唱えてから壮絶な最期を遂げた。
引用元:「イエスの兄弟」(2021年3月16日 (火) 04:11 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』。
「シメオン (クロパの子)」(2019年10月27日 (日) 05:42 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
弟のイスキリが処刑された後、キリストは再び現地を訪れます。
ふたたび現れたキリストの姿を見た弟子たちは、キリストの復活を喜びます。
しばらく弟子たちと過ごしますが、ふたたび修行に出ることを弟子たちに告げ、エルサレム郊外で弟子たちに見送られながらキリストは日本を目指し旅立ちます。
再度日本に訪問したキリストは、戸来村に住み再び修行を行ったそうです。
そして、キリストは八太郎天空(多数名前があります)と名乗り、日本各地を飛び回り、地域や村のために貢献したそうです。
古代の人々は、キリストの姿を見て、「天狗」のイメージを感じとり、「天狗伝説」として語られ残されたのではないでしょうか。
更に下のキリスト子孫の存在説は、竹内文書関係者は否定していますが、キリストの子孫が日本に存在しているというのはなんとなく夢があって私は良いと考えています。
そして戸来村ではキリストは106歳という長寿を全うして、戸来村で亡くなり、埋葬されたという伝承が残っています。また、日本人女性と結婚して、沢村性を名乗り、その子孫が現在も生きているそうです。
その真偽は!?
ここまでの話であれば、竹内巨麿によって捏造された記録と考えられなくもない話ですが・・・
しかし、青森県の戸来村には、決して捏造と思えない・・・ 不思議な伝承が数多く残っています。
検 証
①赤ちゃんのひたいに十字架を書く習慣!!
②言葉がヘブライ語に似ている!?
③地名に聖書に出てくる地名が残っている??
④謎のヘブライ語の唄を歌いながら踊ります!
①赤ちゃんのひたいに十字架を書く習慣!!
戸来村では、古くからの風習として、初めて戸外へ出る赤ん坊の額に十字架を描く習慣が残されているそうです。
これが魔除けの呪文とのことですが、近隣の村、更には県内や国内では例を見ない異質の風習です。
この風習は、キリスト教徒にはわかるかと思いますが「灰の水曜日」に類似しています。
キリスト教徒の復活祭前四六日目の水曜日をいい、四旬節の第一日にあたる。その日、信者の額に聖灰で十字架のしるしをつける教会の習慣があります。
②言葉がヘブライ語に似ている!?
この地域の人は、父のことを「アダ」、母のことを「エバ」と呼んでいるそうです。
これは「アダム」と「イブ」の伝説を思い出します。また、これはイスラエルでの呼び方と似ているそうです。
③地名に聖書に出てくる地名が残っている??
キリストの墓から十和田湖に向かって少し行った戸来村の端には「迷ヶ平」といった山間に少し開けたところがあります。
ここの案内看板の下中央に「エデン沼」と書かれている看板が掲示されていました。
昔からこの辺一体を「エデンの園」と呼んでいたそうです。隣にあるドライブインの人は、このお店を「エデンの館」と言っていました。
④村人がキリストの墓の周りで踊る風習もあります。
ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ
ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ
ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー
ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド
上の唄?をヘブライ語に訳すと「汝の聖名を讃えん、汝は賊を掃討したまい、汝の聖名を讃えん」というそうです。現在では、6月第一日曜日に行われる「キリスト祭り」の際に、キリスト・イスキリの墓の周りを浴衣姿の人々がこの唄を歌いながら踊るそうです。
バチカンのカトリック教会では、伝統的に6月を「聖心(みこころ)の月」としているそうです。
この月は「イエスよ。わたしの心を、あなたの聖心に似たものにしてください」と唱えるそうです。
日本語の解釈の違いで異なるように聞こえるかもしれませんが、私には、同じことを言っているように感じました。
余談となりますが、土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていたという風習もあったそうです。
まとめ
今回、キリストの墓について、村に残る風習の4つがキリスト教の儀式などに類似していることを検証してみました。
竹内巨麿が昭和10年に青森県新郷村の戸来に行き、何らかの方法で、キリストの墓が昔からあったように捏造し、今回検証した4つを村人に教え、昔からあったことのように仕組んだと仮定しても、東北各地に残る「ナニャドレ」などキリストの古儀式に類似しているのは、古代キリスト教がこの村に何らかの形で布教され根付いていることが考えられます。
キリストの子孫とされる沢口家には、
目が青く鼻が高い日本人離れした風貌の人物もおり、昔は村人の間で「天狗が住んでいる」と言われていたそうです。
もしかしたらキリストの末裔かもしれない沢口家の現在の当主は、村役場に長年勤務してたそうです。
また、家紋はダビデの紋章だそうです。
昭和29年(1954年)2月2日、戦後日本の国際線第一便として、日本航空のDC-6「シティ・オブ・トウキョウ」がサンフランシスコに飛び立ちました。
初めての国際線が飛び立ち70年が経過し、世界各国に飛行機で簡単に行き来できる時代となり、世界中の偉人伝説の情報が実際に見て知り、更にネットを通して簡単に入手できる時代になり、戸来村に残る、風習や伝説などは、イスラエルのユダヤ系の人たちと共通する点は、驚くほどマッチしており、「キリストの墓」にかかる信憑性は、更に高くなってきています。
2004年(平成16年)6月、青森県新郷村にあるキリストの墓に、キリストの本国イスラエルの駐日イスラエル大使が墓を訪れました。
エルサレム市と新郷村との友好の証しとして、キリストが歩いた石を寄贈しました。
イスラエル公認の青森県に存在する「キリストの墓」。
観光地になっていますが、神秘的なパワーを感じることができます。
是非一度、訪問してみてください。