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善光寺 すべての民を救済する!! ~宗派を問わない阿弥陀如来~

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パワースポット

およそ1400年前、日本にはじめて渡来したと伝えられている三国伝来の一光三尊阿弥陀如来さまを安置する寺院です。仏教の宗派にこだわることなく、死後のあの世において救済していただけるお慈悲の仏様は、日本中の多くの人から信仰を集めています。

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善光寺について

仁王門 翔びくらげ撮影

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教という新しい宗教を受け入れるか否かを巡る崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。その後、信濃国国司の従者として都に上った本多善光【ほんだよしみつ】が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642)現在の地に遷座されました。皇極天皇三年(644)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。
引用元:「善光寺縁起」(2024年2月1日 (木) 11:13  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

善光寺境内図 引用元:善光寺事務局ホームページ
山門の回廊から見た本堂(転落防止のネットが貼られていたため、ネット越しに撮影しています) 翔びくらげ撮影

善光寺縁起 (ウィキペディア)

月蓋長者と如是姫-善光寺如来の誕生

病に倒れる如是姫(坂内直頼『善光寺縁起』より)

お釈迦様が生きていた頃のインド・ビシャリ国に月蓋(がっかい)長者という金持ちがいて、欲望のままに贅沢な暮らしをしていた。ある日、お釈迦様は長者を教え導こうと、その家の門前にやって来た。長者はガラスの杯に白米を盛り、自ら出迎えようと思うが、急に惜しくなって途中で家に戻ってしまう。

やがて長者の不善が原因となり、ビシャリ国を疫病が襲い、多くの人が亡くなる。そして長者の寵愛を受けた美しい娘・如是姫も病に倒れてしまう。名医も祈祷も役には立たず、周りの人々は長者にお釈迦様の教えを乞うしかないと勧めた。

長者はお釈迦様のもとに参詣し、罪を懺悔して娘の命、ひいては国の人々の苦しみを救ってくれるよう懇願した。お釈迦様はこう告げる。「それは私の力の及ぶところではない。ただ、西方極楽浄土には阿弥陀如来様がいる。罪を悔い改め、南無阿弥陀仏を唱えればきっと如来さまは現れ、人々を救ってくれるだろう」

長者はすぐに帰宅すると、阿弥陀・観音・勢至の三尊に祈りを捧げ、心からの念仏を唱えた。するとたちまちそれを聞き届けた阿弥陀如来はその身を一寸五尺の姿に縮め、左右に観音・勢至菩薩を伴って顕現された。大光明が放たれ、疫病を起こしていた悪神・疫病神たちはたちまち消え去ってしまう。苦しんでいた国中の人々は一人残らず助かった。如是姫も同様に息を吹き返す。長者たちは涙を流し、信仰の思いを深くした。

如来を大切に祀る月蓋長者(坂内直頼『善光寺縁起』より)
感激した長者はお釈迦様のもとに参上し、「この三尊仏の姿を写して像を造り、この世にとどめ礼拝したい」とお願いする。そこでお釈迦様は、弟子の目連尊者を竜宮城に遣わせ、閻浮檀金(えんぶだんごん)という黄金を使って仏像を造らせることにする。竜宮城の竜王はそれを受け入れ、黄金を献上した。

如来を大切に祀る月蓋長者(坂内直頼『善光寺縁起』より)

閻浮檀金を鉢に盛り、阿弥陀三尊をお招きすると、お釈迦様と共に光を放ち、それに照らされた黄金はたちまち柔らかくなる。さらにお釈迦様が座禅をし、印を結ぶと、たちまち黄金は阿弥陀三尊の姿そっくりに変化した。長者は歓喜し、大伽藍を建ててその仏像をお招きし、盛大に祀った。わが国に現れた善光寺如来はこのご本尊である。
引用元:「善光寺縁起」(2024年2月1日 (木) 11:13  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

インドから百済、そして日本へ
月蓋長者はやがて亡くなったが、如来に仕えることを望んだため、すぐに人間に生まれ変わり、その後も500年間、7回の転生を繰り返した。さらにその後、百済の聖明王として生まれ変わった。

聖明王は前世でのことを忘れ、信仰を失っていたが、ある時、インドから本尊の阿弥陀如来が現れ、そのいわれを告げるとたちまち記憶を取り戻した。それからは聖明王は宮殿を整備して阿弥陀如来を招き、深く信仰して敬うようになった。聖明王の死後も百済では如来を信仰し、百済の人々は教え導かれた。そしてさらに千年あまりの歳月が流れた。

推明王の頃、如来は海を渡り、日本へ行って衆生を救うつもりであることを告げる。人々は大変悲しんだが、推明王は船を造って如来を日本に送ったのだった。
引用元:「善光寺縁起」(2024年2月1日 (木) 11:13  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

日本での受難
欽明天皇十三年(552年)、如来像は日本に渡った。宮中では推明王から送られたこの仏像と経典を受け取るべきか、審議が行われる。群臣たちは日本は神国だとして一斉に反対したが、蘇我稲目は生身の如来であるこの尊像を受け入れることを奏上した。天皇はその言葉を受け、如来を礼拝することにする。

その後、如来は蘇我稲目の家に預けられ、安置されることとなる。しかし570年、国に熱病が流行ると、大臣の物部尾興はその原因を如来像だと主張した。外国の仏像に対し、日本の神々が怒っているというのである。天皇はこれをもっともだとし、物部尾興は如来像を大型の炉に入れ、溶かして捨ててしまおうとする。しかし、如来像は色さえ変えなかった。物部尾興は興ざめし、如来を難波の堀江に捨てさせてしまう。

如来を壊そうとする物部尾輿(坂内直頼『善光寺縁起』より)

その後、欽明天皇はなくなり、物部尾興も病に倒れた。次の敏達天皇も病に臥せってしまう。学識者は「仏像のたたりだ」と申し上げ、それに驚いた公卿たちはただちに難波の堀江に勅使を派遣し、過去の罪をお詫びした。それを聞き届けたのか、水の底から光が輝いて、如来が水面に出現する。すぐに如来像を皇居にお移しして礼拝すると、天皇の病気も治った。

しかし、物部尾興の息子・物部守屋は仏像を目の敵にし、日本の神々の怒りを買うとして、天皇に仏像を捨てることを奏上する。天皇はこの言葉を信じ、先帝のやり方に倣って古来の国の神々を崇拝することに決める。物部守屋は前回よりもさらに多くの人々を集め、大きな炉で如来像を溶かそうとするが、びくともしない。次に鍛冶師を呼んで打たせるが、それでも傷一つつかなかった。そこで、物部守屋は再び如来像を難波の堀江に捨てさせ、それどころか僧たちから奪った経典や法衣なども投げ入れてしまう。
敏達天皇はこの罰を受け、崩御してしまう。皇位は弟が継ぎ、用明天皇となった。その后は穴太部皇女である。
引用元:「善光寺縁起」(2024年2月1日 (木) 11:13  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

物部 守屋(もののべ の もりや)
古墳時代の大連(有力豪族)で、物部尾輿の子である。
引用元:『ウィキペディア日本語版』

聖徳太子
穴太部皇女はある夜、夢を見る。西方から来た僧が、自分には世の人々を救う大願がある、あなたの胎内をお借りしたいと言うのである。后はたちまち懐妊し、こうして生まれたのが聖徳太子である。厩戸皇子と命名された。

皇子は2歳になるまで左の手を握ったままだったが、ある日合掌して東に「南無仏」と唱えると、握った拳を開いて手の中から一粒の舎利を出した。今、法隆寺にある仏舎利がこれである。

聖徳太子が12歳になったとき、新羅から日羅という学者が渡来して、聖徳太子を礼拝して「東方に仏教を伝える日本の王として、仏法をひろめて人々を救ってくださる」と唱えた。聖徳太子は16歳の時、物部守屋を成敗して日本一国を仏法の行き渡った土地にすることになる。

その頃、物部守屋は一族を集め、聖徳太子と蘇我馬子を殺そうと計っていた。このことが世間に知れ渡り、聖徳太子は「仏法の敵、天皇の敵である守屋を許してはおけない」と蘇我馬子と共に挙兵する。聖徳太子と守屋の戦いが始まるが、守屋の軍勢に押され、太子は退却することになる。守屋の軍勢が太子を見つけそうになった時、太子は椋木に向かい、「私が合戦を起こしたのは皇位につくためではなく、仏法を盛んにして人々を救うためです。どうか私を守ってください」と祈った。すると不思議なことに椋の木が二つに裂けて開き、太子はその中に隠れ、難を逃れられた。

物部守屋の兵から隠れる聖徳太子(坂内直頼『善光寺縁起』より)

聖徳太子は改めて神仏のご加護に頼ることにし、四天王の像を自ら刻み、「勝利を得たならば四天王寺を建てよう」と祈願した。これにより、西方極楽浄土の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、また十二神将とその配下、千手観音とその配下の二十八部衆など、神仏は残らず太子を守護した。こうして次の合戦で、太子は守屋との戦いに勝ち、守屋は滅びたのである。この後、593年に四天王寺が建立された。

その後、十七条の憲法を制定し、国民は身分の上下なく皆仏法に帰依した。また、四十六か所に寺院を建立した。これが日本において仏教が盛んになった始まりである。

平和な世になり、太子が難波の堀江に出かけて如来に礼拝すると、にわかに水面が輝き、如来が水面に出現した。太子は如来に再び宮中に帰ることを求めるが、如来は「私はここで待つべき人がいるので、それはできない」と答え、再び水に沈んでしまう。
引用元:「善光寺縁起」(2024年2月1日 (木) 11:13  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

本多善光と善光寺の建立
600年、信濃の国に本多善光という貧しい男がいた。国司の供として都に上っていた際、難波の堀江に差し掛かると、水底から光が輝き、何かが背中に抱きついてくる。それは如来であった。阿弥陀如来は善光との前世での縁を語る。「昔、お前はインドで月蓋と名乗り、私を極楽から招いて安置して敬った。次にお前は百済に生まれ、聖明王と名乗ったので、私もその国に飛んで行ってそこに安置された。今、お前は善光と名乗っている。私を連れて国に帰りなさい。私はお前と同じ場所で人々に恵みを与えたいのです」

難波の堀江で本多善光の背中に抱きつく如来(坂内直頼『善光寺縁起』より)

善光は感激し、如来を背負って喜び勇んで信濃の国に帰った。善光は初め、西の庇の間にある臼の上に如来像を乗せ、妻と子と三人で礼拝していたが、やがて御堂を立ててそこに如来を安置した。ところが、如来は何度お堂に連れて行っても、また元の臼の上に戻ってしまう。如来はこう告げた。「たとえ金銀で飾った立派な堂を建てたとしても、私の名を唱える声がなければ意味がない。たとえ汚れて粗末な家であっても、私の名を唱える所こそが私の住処です」こうして、如来が伊奈郡に住んで41年が経過した。642年には如来のお告げにより、信濃の国水内の郡芋井の郷に御堂を立て、そこに如来像を安置した。

ある時、貧しさのあまり油がなく、灯明もつけられなかったところ、如来は眉間から光を放ち、その光は香と油の火となって辺りを照らした。これが今も伝わり、善光寺如来の仏前に輝いている御三燈の灯火の始まりである。

さて、643年、本多善光の長男・善佐が亡くなってしまう。善光はたいそう悲しみ、如来に訳を尋ねたが、生前の業因によるものだと言う。けれども如来は自ら善佐を救うため、閻魔王の宮殿に赴いた。閻魔王はそれに驚き、善佐が娑婆に戻ることを許可する。その現世への帰り道、善佐はひとりの高貴で美しい女性が地獄に向かっていくのに出会う。それはなんと、当時の日本の君主である皇極天皇であった。驕り高ぶり、仏法を忘れていたため、その死後地獄に送られようとしていたのである。

地獄で皇極天皇と出会う、如来と本多善佐(坂内直頼『善光寺縁起』より)

善佐はこれを見て、たちまち善い心が起こり、如来に言った。「私の命と取り換え、天皇を生き返らせてください。天皇の罪は私が受けましょう」感心した如来は、閻魔王に頼み、二人の命を救ってやることにする。天皇は善佐に大変感謝し、この恩は必ず返すと約束した。

皇極天皇は生き返り、宮中は大騒ぎとなった。善佐も蘇り、親子で喜んでいたのも束の間、都から善光と善佐を呼び出す勅命が下る。二人は宮中で天皇と会い、「そなたの望みは何でもかなえましょう」と言われる。そこで善佐は如来の御堂を建立し、後世に至っても読経による供養が続くことを望んだ。これを受け、天皇は善佐に信濃を、善光には甲斐を与えることにする。

その後、如来の御堂は皇極天皇の願いとして、立派に完成した。本多親子のうち、父の名を取ってこの寺は「善光寺」と名付けられた。

一度参詣してここを拝んだ人は、誰もが差別なく、皆極楽往生することができる。願うべし。親しむべし。

引用元:「善光寺縁起」(2024年2月1日 (木) 11:13  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

本多善光

信濃国で貧しい暮らしをしていた本多善光は、信濃国司の供として都(大和国)に上った際、難波の堀江(現在の大阪市西区北堀江)でかつて物部守屋によって投げ捨てられた阿弥陀如来像と出会います。
如来様から善光の肩におぶさって来たそうです。

善光はたいそう喜んで、如来様を家に連れて帰ったそうです。
貧しい暮らしのため、善光の家には何もありませんでした。そのため、臼の上に如来様をお祀りしました。

阿弥陀如来が捨てられたと言われる阿弥陀 引用元:「和光寺」(2023年11月16日 (木) 09:58 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』

まとめ

善光寺の特徴として、日本古来、仏教が諸宗派に分かれる以前から建立していた寺院で、宗派の別なく宿願が可能な霊場として位置づけられ日本全国より、多く参拝されています。

仏教では、多くの寺院が女人禁制となっていましたが、善光寺では女性も受け入れ救済が行われていました。
江戸時代には多くの女性参詣者が訪れたそうです。

善光寺に参詣すれば、「死後は極楽往生ができる」ということが人から人に伝わり、男女の区別なく、職業や身分も関係なく受け入れて頂き、必ず極楽往生できると言われ、現在も全国から多くの参拝者が訪れる寺院となっています。

翔びくらげ
翔びくらげ

私は去年2022年の「善光寺前立本尊御開帳」に参拝してきました。
大勢の参拝者で混雑していましたが、なぜ善光寺に参拝者に来るのか、その神秘的なパワーと魅力に私も触れることができました。
それは「善光寺縁起」に書きましたが、焼いても、壊しても、池に捨てても、損傷なく、聖徳太子の誘いにも動じず、ひたすらに本多善光を待ち、善光の粗末な家を住処とされた阿弥陀如来様を実際に拝見し、前立柱に触れパワーを頂きました。その後、家族全員、新型コロナに罹ることなく、健康で過ごせています。心より感謝です。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました

【参考文献】

「善光寺縁起」(2024年2月1日 (木) 11:13  UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
「和光寺」(2023年11月16日 (木) 09:58 UTC版) 『ウィキペディア日本語版』
善光寺事務局ホームページ

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